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			<title>You are good!!!</title>
			<description>GOD bless you~~!!</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onetough22000</link>
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			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>You are good!!!</title>
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			<description>GOD bless you~~!!</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onetough22000</link>
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		<item>
			<title>ふさわしい歩み(２)(****)</title>
			<description>ふさわしい歩み(２) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011.04.11 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書の節 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１テサロニケ4:12　それは、あなたがたが外部の人たちに対して、ふさわしく歩き、そして何も欠けることがないためです。&lt;br /&gt;
１コリント14:40　しかし、すべての事は適切に、秩序正しく行なわれなければなりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
務めの言葉 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（全２編のうちの第２編）&lt;br /&gt;
12節でパウロはわたしたちに、ふさわしく歩くようにと命じます。わたしたちは奇妙な、あるいは特異な方法で歩くべきではありません。他の人たちの目に、わたしたちの歩みはとてもふさわしいものであるべきです。今日、若い人たちは特異であることを好みます。ある人たちは、自分が特異であればあるほどますます良いと思っています。彼らは特異であることによって他の人たちの注意を引くのです。しかしながら、わたしたちは正常で、ふさわしい、普通の方法で振る舞うべきです。しかしながら、そうすることでわたしたちは何かの決まりや規則に従っているのではありません。もしわたしたちが主を愛し、主を生き、主の心にしたがって歩くことを願うなら、内側深くでわたしたちは、何かが自分の行なうすべてにおいて正常でふさわしくあるべきことをわたしたちに要求しているのを感じると、わたしは思います。車を運転する方法、髪を整える方法、わたしたちの着る衣服、その他すべての事において、わたしたちはふさわしくありたいと願うでしょう。特異な方法で他の人たちの注意を引くことはすべて、ふさわしくありません。わたしたちはふさわしい方法で振る舞い、歩く必要があります。特に、わたしたちは外部の人たちに対して、すなわち部外者たち(未信者たち)に対して、ふさわしく歩かなければなりません。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onetough22000/51856448.html</link>
			<pubDate>Mon, 11 Apr 2011 17:40:56 +0900</pubDate>
			<category>ネットサービス</category>
		</item>
		<item>
			<title>聖別は淫行に相対する(３)</title>
			<description>聖別は淫行に相対する(３) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011.04.11 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書の節 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１テサロニケ4:6　だれもこの事で自分の兄弟を踏み越えたり、だまし取ったりしないことです。なぜなら、わたしたちが以前、あなたがたに言い、また厳かに戒めておいたように、これらの事すべてに関して、主は報復する方であるからです。(7節)神はわたしたちを汚れのためにではなく、聖別の中に召されたのです。&lt;br /&gt;
へブル13:4　すべての人の間で結婚が尊ばれるようにしなさい。また床を汚してはいけません。なぜなら、神は淫行の者と姦淫する者を裁かれるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
務めの言葉 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(全４編のうちの第３編)&lt;br /&gt;
「自分の兄弟を踏み越えたり」とは、その兄弟の妻との姦淫を言います。ギリシャ語で「だまし取る」とは、利得を得ることでもあります。ですから、だまして奪うことです。「この事」と言うことによって、パウロは3節で述べられた淫行の事を意味しています。6節でパウロはまた、これらの事、すなわち踏み越えたり、だまし取ったりするような事に関して、主は報復する方であると言っています。主は報復する方として、罰する方として、淫行の者と姦淫する者を裁き、公正な報いをされます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
淫行は常に、婚姻関係の決まりを踏み越えることとかかわりがあります。男性と女性との関係は神によって定められました。結婚は、神によって定められた聖なる事柄であり、神の厳格な決まりの下にあります。ですから、男性と女性との接触は、神の規定と決まりにしたがっていなければなりません。そうでないと、ある種の違犯、踏み越える事、神の決まりを破ることがあるかもしれません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
淫行から遠ざかるようにとの使徒の命令は、聖別に基づいており(3節)、聖別によって強められており(4節)、聖別をもってここで終結しています(7節)。なぜなら、淫行は最も不潔な事柄として、神の召された聖徒たちの聖い立場と人格を破壊するからです。&lt;br /&gt;
(明日に続く)</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onetough22000/51856445.html</link>
			<pubDate>Mon, 11 Apr 2011 17:39:38 +0900</pubDate>
			<category>ネットサービス</category>
		</item>
		<item>
			<title>わたしたちの両親を敬うことによって神の統治の下に来る(0406)</title>
			<description>わたしたちの両親を敬うことによって神の統治の下に来る &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011.04.07 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書の節 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マタイ15:3　イエスは彼らに答えて言われた、「なぜあなたがたも、自分たちの言い伝えのゆえに、神の戒めに違反するのか？　(4節)神は言っておられる、『あなたの父と母を敬え』。また、『父や母をののしる者は、殺されなければならない』。(5節)ところがあなたがたは、『だれでも父や母に、あなたがわたしから得るものはみな神への贈り物ですと言えば、(6節)父や母を敬わなくてもよい』と言う。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのゆえに、神の言から権威を奪ってしまった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
務めの言葉 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリサイ人と聖書学者たちに対する主のここでの取り扱いは、彼らが自分たちの言い伝えのゆえに神の言葉を無効にしたことを罪定めしただけでなく、人は両親を敬うべきであることをも暗示しました。人々の間での神の行政において、神は人が両親を敬うべきことを定められました。神はこれを十戒の間で、人間関係に関する第一の戒めとされました(出20:12)。ところが、堕落した人の性質は常に両親を無視します。すなわち、神の行政に反逆します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天の王としての主は、人を神の行政に連れ戻すために、人が両親を敬うべきであることを強調されました。これは、律法の成就に関する天の王国の憲法にある彼の言葉と一致しています(5:17-19)。ですから、使徒もこの事を特に強調しました(エペソ6:1-3．コロサイ3:20)。わたしたち王国の民は、両親を敬うべきであり、ユダヤの宗教徒たちのように言い訳をしてはなりません。どんな言い訳をすることも、わたしたちが天の支配の下におらず、わたしたちの堕落した人の性質と今日の世代の反逆的な潮流に従っていることを示しています。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onetough22000/51845470.html</link>
			<pubDate>Thu, 07 Apr 2011 17:26:08 +0900</pubDate>
			<category>ネットサービス</category>
		</item>
		<item>
			<title>神の言葉を守り、言い伝えには固執しない</title>
			<description>神の言葉を守り、言い伝えには固執しない &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011.04.07&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書の節 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マタイ15:1　その時、パリサイ人と聖書学者たちが、エルサレムからイエスの所に来て言った、(2節)「なぜあなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに違反するのですか？　彼らはパンを食べる時に手を洗っていません」。(3節)イエスは彼らに答えて言われた、「なぜあなたがたも、自分たちの言い伝えのゆえに、神の戒めに違反するのか？……(6節)こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのゆえに、神の言から権威を奪ってしまった」。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
務めの言葉 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ユダヤ人の宗教徒たちは、主の弟子たちが彼らの言い伝えに違反していると非難しました。しかし主は、宗教徒たちが自分たちの言い伝えのゆえに神の戒めに違反していると、彼らを罪定めされました。彼らは自分たちの言い伝えを重んじましたが、神の戒めを無視しました。原則的に、今日の宗教的な人々も同じことをしています。主イエスとパリサイ人との出会いにおいて、主は言い伝えを顧みられませんでした。その反対に、主は神の言葉を彼らに示されました。原則において、わたしたちは今日、同じことをしています。人々は依然として彼らの言い伝えによって神の言葉を無にしており、わたしたちは今日、言い伝えを守らないと非難されています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主は、彼の弟子たちを告発した人たちに答えて、次のように言われたかのようです、「あなたがたパリサイ人は、あなたがたの言い伝えを破るわたしの弟子たちを告発しています。あなたがたは、自分たちの言い伝えに固執することによって神の戒めを破ったこと、そして破り続けていることを、見る必要があります」。このように、主は彼らを純粋な御言に連れ戻して、何が神の戒めであるか、何が人の言い伝えであるかを告げられました。それは今日も同じです。わたしたちは歴史上の教会に従っていない、すなわち、伝統に従わないと告発されています。わたしたちは、純粋な御言に戻らなければならず、歴史上の教会の伝統を顧みてはならないと答えます。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onetough22000/51845469.html</link>
			<pubDate>Thu, 07 Apr 2011 17:25:04 +0900</pubDate>
			<category>ネットサービス</category>
		</item>
		<item>
			<title>告白を良い行ないと置き換えてはならない(0402)</title>
			<description>告白を良い行ないと置き換えてはならない &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011.04.05&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書の節 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２コリント4:13　「わたしは信じた。それゆえにわたしは語った」と書いてあるとおり、同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それゆえにまた語るのです。&lt;br /&gt;
１テサロニケ1:5　なぜなら、わたしたちの福音があなたがたの所へ伝えられて行ったのは、言だけによったのではなく、力と聖霊と大いなる確信とにもよったからです。わたしたちがあなたがたの間で、あなたがたのためにどのような者であったかは、あなたがたがよく知っているとおりです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
務めの言葉 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある初信者は、伝統的な教えの影響によって、よく一つの誤りを犯します。すなわち、人は良い行ないをすることが重要であって、口で告白するかしないかは重要ではないとします。語ることを変えても役に立たず、最も重要なのは行ないが改まることであるとします。この種の誤りは正さなければなりません。行ないは改まる必要がないと言っているのではありません。行ないが改まらなければ、口で言っても当然、役に立ちません。しかし、行ないが改まっても口で言わなければ、それも役に立ちません。行ないが改まることは、口で告白することに取って代わることは決してできません。行ないが改まっても、やはり口で告白しなければなりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
口で言わなければ、他の人はあなたについて多くのことを想像したり、哲学的な方法であなたの行ないを解釈したりするでしょう。彼らはさまざまな言い方をしますが、それは彼らが主イエスに触れていないからです。ですから、あなたの行為が改まったのはどのような原因によるのかを、彼らに告げるべきです。良い行ないは、口で告白することに取って代わることはできません。良い行ないはあるべきです。口で告白することもあるべきです。「イエスはわたしの主です。わたしは彼に仕えます」と人に向かって言いましょう。あなたの行ないがどんなに良くても、これらの言葉をあなたの口から語り出さなければなりません。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onetough22000/51839650.html</link>
			<pubDate>Tue, 05 Apr 2011 17:18:05 +0900</pubDate>
			<category>ネットサービス</category>
		</item>
		<item>
			<title>贖いの結果の一つはエジプトを去ることである(0401)</title>
			<description>贖いの結果の一つはエジプトを去ることである &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011.04.05 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書の節 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出エジプト12:7　その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。(11節)あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。&lt;br /&gt;
腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。(41節)……ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出た。（新改訳）（新改訳） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
務めの言葉 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（全３編のうちの第１編）&lt;br /&gt;
覚えていただきたいのですが、血が贖ったらすぐに、身を起こして出発しなければなりません。尊い血で贖われたから、家屋を買って定住するということではありません。血によって救われた人はみな、その日の夜、出発しなければなりませんでした。夜中前に小羊をほふり、ヒソプをもって血を塗り、急いで食事をしました。食べる時は腰を引きからげ、手につえをとりました。それは、すぐに出かけなければならなかったからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
贖いの第一の結果は分離であり、出て行くこと、離れ去ることです。神が一人の人を贖われると、その人をそのまま元の所に放っておき、この世に住み続けさせられるということはありません。絶対にこのようなことはありません。どの人も、新しく生まれ、救われたなら、手につえを取って出発しなければなりません。滅ぼす使いが、救われる者と滅びる者とを区別するやいなや、あなたは身を起こしてエジプトを出なければなりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つえは、歩く時に使う物です。つえを持ったままベッドに横たわる人は一人もいません。血によって贖われたなら、その時に地上の寄留者、旅人となるのです。血によって贖われたなら、その時にエジプトを出て、この世からすぐに分離されなければなりません。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onetough22000/51839645.html</link>
			<pubDate>Tue, 05 Apr 2011 17:16:41 +0900</pubDate>
			<category>ネットサービス</category>
		</item>
		<item>
			<title>わたしたちの持っているすべてを天の王にささげる(0331)</title>
			<description>わたしたちの持っているすべてを天の王にささげる &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011.04.05 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書の節 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マタイ14:17　彼らはイエスに言った、「わたしたちは五つのパンと二匹の魚のほか、ここに何も持っていません」。(18節)彼は言われた、「それをわたしの所に持って来なさい」。(19節)そして群衆に命じて草の上に座らせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、祝福し、パンをさいて、弟子たちに与えられた。そして弟子たちは群衆に与えた。(20節)彼らはみな食べて満腹した。そして、かけらの残ったものを集めると、十二の手かごいっぱいになった。(21節)食べた者は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
務めの言葉 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（全２編のうちの第１編）&lt;br /&gt;
わたしたちが主から受けているものは何であれ、主に持って行く必要があります。それは、他の多くの人に対して大いなる祝福となるためです。主はしばしば、わたしたちが彼にささげたものを用いて、多くの人の必要に備えられます。あなたは主にささげるものは何もないと言うかもしれませんが、少なくともあなた自身があります。主を賛美します。わたしたちはみな、自分自身を主にささげることができます！　わたしたちにはあわれな醜い自己のほか何もないかもしれませんが、その自己を彼にささげることができるのです。病人でさえ、自分自身を主にささげることができます。わたしたちのあるがままを主にささげましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしわたしたちの持っているものを自分の所有として保ち続けるなら、それは無でしょう。しかし、それがわたしたちの手から主の御手に渡されるなら、大きな祝福になるでしょう。あなた自身を主にささげなさい。あなたが持っているものを彼にささげなさい。そうすれば、主は多くの人々を祝福する道を持たれ、あなたもその祝福の中に含まれるでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教理は、わたしたちは律法の下にではなく、恵みの下にいなければならないということです。恵みは、わたしたちの貧しさと無一物を暴露します。しかし、わたしたちは主にささげるもの、すなわち、わたしたち自身を持っています。わたしたちの持っているものがどれほど少なくても、それを彼にささげる必要があります。もしわたしたちが自分の持っているものを主の御手の中に置くなら、それは大きな祝福になります。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onetough22000/51839630.html</link>
			<pubDate>Tue, 05 Apr 2011 17:08:03 +0900</pubDate>
			<category>ネットサービス</category>
		</item>
		<item>
			<title>キリストは食物としてわたしたちの中に入ってこられる</title>
			<description>キリストは食物としてわたしたちの中に入ってこられる &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011.04.05 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書の節 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネ6:57　生ける父がわたしを遣わされ、わたしが父のゆえに生きているように、わたしを食べる者も、わたしのゆえに生きる。&lt;br /&gt;
コロサイ1:27　神は彼らに、異邦人の間にあるこの奥義の栄光の豊富がどんなものであるかを、知らせたいと願われました。それはあなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
務めの言葉 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（全３編のうちの第３編）&lt;br /&gt;
マタイによる福音書がこれらの事柄を集めて教理的に配列したのは、天の王国のためにわたしたちは外側の清めを必要とするのではなく、わたしたちが必要とするのはキリストがわたしたちの中に入ることであることを、わたしたちが理解するためです。あなたは病気でしょうか、それとも弱いのでしょうか？　あなたには何か問題があるでしょうか？　これらの事を外側の方法で対処しようとしてはなりません。そうではなく、イエスを食べることによって、内側の方法で対処しなさい。事実、あなたはこれらすべての事を忘れてしまうべきです。あなたに必要なのは、外側の洗いではなく、キリストがあなたの中に来られることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主はカナン人の女に次のように言っておられるようでした、「あなたはいやしを必要としません。あなたはわたしを必要とします！　そして、あなたは外側でわたしを必要とするのではなく、内側でわたしを必要とします。あなたはわたしを食べる必要があります。わたしは、人々が食べ、消化し、吸収するためのパンとして来ました。わたしはあなたの存在、組織、血管、繊維の中に入りたいのです。わたしはあなたの構成要素の中に入って、あなたとなりたいのです。こういうわけで、あなたはわたしを食べる必要があります。外側の方法で物事を対処してはいけません。そうではなく、わたしをあなたの中に取り入れることによって、あらゆることを内側の方法で対処しなさい。わたしがあなたの中に入ってあなたを養うことができさえすれば、あらゆる問題は解決されます」。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onetough22000/51839629.html</link>
			<pubDate>Tue, 05 Apr 2011 17:07:02 +0900</pubDate>
			<category>ネットサービス</category>
		</item>
		<item>
			<title>主に従うことでのわたしたちの天然の命の失敗(１)(0330)</title>
			<description>主に従うことでのわたしたちの天然の命の失敗(１) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011.04.04 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書の節 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マタイ26:33　ペテロは答えて言った、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。(34節)イエスは彼に言われた、「まことに、わたしはあなたに言う。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを否むであろう」。(35節)ペテロは言った、「たとえ、あなたと一緒に死ななければならなくても、決してあなたを否みません」。弟子たちもみな同じように言った。&lt;br /&gt;
(73節)しばらくして、そこに立っていた者たちがペテロの所に来て言った、「確かにあなたも彼らの一人だ。……(74節)その時、彼は「そんな人は知らない！」と、のろって誓い始めた。すると、直ちに鶏が鳴いた。(75節)ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを否む」とイエスが言われた言葉を思い出した。そして彼は出て行って、激しく泣いた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
務めの言葉 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（全２編の内の第１編）&lt;br /&gt;
わたしたちは天然の命によって王国の民となることはできません。この事実は、第26章31節から75節の中で十分に明らかにされています。ここには、キリストの捕縛と裁きの絵があります。この記録は、だれも天然の命によっては十字架の道をキリストに従って行くことができないことを啓示します。王はこの道を取ることができますが、わたしたちは自分の天然の命の中ではそうすることができません。ですから、主はわたしたちのために死に、わたしたちのために復活の中へ入らなければなりません。彼の死を通して、わたしたちの消極的な状態は解決されます。そして彼の復活によって、彼はわたしたちに取り入れられ、さらにわたしたちとさえなることができます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ペテロが否んだ意義をわたしたちが見ることは、重要です。第26章で主イエスとペテロは、互いに完全な対照をなしています。あらゆる面で、イエスは十字架の道を経過することができました。しかし、ペテロはあらゆる面でこの道を取ることで敗北しました。他のすべての弟子も、もちろんペテロと同じでした。もしわたしたちがこの事柄をはっきりと見るなら、キリストの勝利と同じように、ペテロが否んだことにも、わたしたちは十分な注意を払うでしょう。&lt;br /&gt;
（明日に続く）</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onetough22000/51836871.html</link>
			<pubDate>Mon, 04 Apr 2011 17:05:17 +0900</pubDate>
			<category>ネットサービス</category>
		</item>
		<item>
			<title>信仰の二つの面――客観的な面と主観的な面(３)</title>
			<description>信仰の二つの面――客観的な面と主観的な面(３) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011.04.04 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書の節 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エペソ3:9　それはまた、万物を創造された神の中に、各時代にわたって隠されてきた奥義のエコノミー(経綸)が何であるかを、すべての人に明らかにして、彼らが見えるようになるためです。&lt;br /&gt;
コロサイ2:2　……理解力から来る全き確信のあらゆる豊富へと至るため、すなわち、神の奥義なるキリストを知る全き知識へと至るためです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
務めの言葉 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(全３編のうちの第３編)&lt;br /&gt;
信仰の客観的な面は深遠です。わたしたちは、自分がその客観的な信仰に関して完全であるとか、全く完璧であるとか言うことはできません。神のエコノミーは深遠です。神のエコノミーの内容は、すべてを含み、すべてに拡張する方としてのキリストです。神のエコノミーはその内容において非常に深遠で豊富であるので、客観的な信仰がわたしたちの間ですでに完成されているとは、わたしたちはあえて言いません。わたしたちの客観的な信仰は、神のエコノミーの内容としての、すべてを含み、すべてに拡張するキリストを含むことを、わたしたちは見る必要があります。わたしたちはこの内容をまだ十分に知っていませんし、あるいは完全に認識してもいません。こういうわけで、わたしたちは依然として、すべてを含むキリストをさらに把握し、わたしたちの客観的な信仰の内容としてのキリストをさらに把握する必要があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主を賛美します。この客観的な信仰は、主観的な信じることを生み出します！　わたしたちがキリストに関する啓示を受ける時、わたしたちは彼を信じないわけにはいきません。信仰が自動的にわたしたちの存在の中に注入され、わたしたちは自動的にキリストを信じます。未信者は、キリストがわたしたちの中におられるのを信じることができません。しかしながら、わたしたちは、キリストがわたしたちの中に生きておられることを信じざるを得ません。彼はわたしたちの中におられ、わたしたちの命、わたしたちの命の供給、わたしたちのすべてです。わたしたちは内住のキリストのビジョンを見ました。ですから、彼が実際にわたしたちの中におられることを信じる以外に、わたしたちには選択がありません。わたしたちは神のエコノミーの内容に関する啓示を見ましたから、わたしたちは自分の見たものを信じざるを得ないのです。わたしたちは信じる能力を注入されました。今やわたしたちは、主観的な信仰、すなわち信じるという内側の行為を持っています。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onetough22000/51836865.html</link>
			<pubDate>Mon, 04 Apr 2011 17:03:43 +0900</pubDate>
			<category>ネットサービス</category>
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