日々是不思議也

過去の記事に、新たに撮影地名や当時の未公開写真等を一部追加致しました。震災で失われた貴重な風景もありますので、ご覧ください。

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皆さんお久しぶりです。今回の東日本大震災発生以来、長らく御心配おかけしましたが、本日やっと念願のインターネット回線が復旧いたしましたので、ここに御報告申し上げますと共に、震災発生直後に温かい御見舞いと励ましの言葉を頂きながら、半年の長きに渡り、御礼のご挨拶が遅れてしまった事をお詫び申し上げます。

連日の報道等で御存じかと思いますが、私の地元、岩手県大船渡市三陸町越喜来地区は、平成二十三年(2011)三月十一日(金)の東北地方太平洋沖地震で発生来襲した大津波により、死者・行方不明者九十四人。家屋の全壊二百三十一戸。半壊四十三戸。一部損壊八戸。慣れ親しんで来た大船渡市立越喜来小学校や大船渡市役所三陸支所(旧三陸町役場)を始めとして、大船渡市立三陸公民館(旧三陸町中央公民館)、三陸郵便局、越喜来保育所、大船渡農協三陸支所、越喜来漁業協同組合庁舎等といった公共施設、町の基幹産業であった栽培漁業施設、養殖施設、港湾施設、漁船等が多数流失、損壊し壊滅状態となりましたが、我が家は高台にあっため住家、地震発生時に一緒にいた家族共に無事であったのは不幸中の幸いでした。

とはいえ、これまで専業漁業で生計を立ててきた我が家にとって、正直、今回の津波による被害は深刻なほど甚大で、長年仕事で連れ添ってきた二艘の漁船、生活の基盤となるホタテガイなどの養殖施設や漁業資材の大半が大破流失。親類や知人、見慣れた風景や思い出をも、ほんの一瞬のうちに海波に根こそぎ奪い取られてしまうという、自然の起こす災害の無慈悲さと過酷な現実を目の当たりにして、いつの日かこういう日が来ることもありえるだろうと心の片隅で、覚悟していたこととは言え、千年に一度と言われる未曾有の大災害を経験する当事者となってみて、津波の翌朝眼にした、無残に押しつぶされた家々やそれに乗り掛かるようにして丘に打ち上げられた船、ひっくり返った車。ビニールシートや布団に包まれて、臨時安置所となった、私の母校である越喜来中学校の体育館に次々と運び込まれる遺体の山。予想を超えた津波のすさまじい威力に、あっけなく乗り越えられ無残に打ち崩された、津波から町を守るために建てられたはずの津波防潮堤の残骸は、人間の力なんて自然の前にはなんて無力なんだろうと、感じさせずには居られませんでした。

福島第一原子力発電所の事故は未だ終息に至らず、余震も続いておりますが、震災の発生から五ヶ月以上経過し、停電に伴う、一ヶ月以上にも及んだ蝋燭生活や、食糧や車のガソリンの調達に奔走した事も、いや、ホタテの養殖作業に汗を流してきたあの日常ですら、もはや人々の記憶の奥底へと消え去ろうとしているように見えます。

私はといえば、五月の連休明けから、罹災した漁師の仲間たちと一緒に越喜来湾から引き揚げられて来る、瓦礫と化した膨大な養殖漁労施設の撤去作業に従事しておりますが、日当を貰える今は良いですが、産業はほぼ壊滅状態にあり、漁師の足たる船を失い、活動の拠点となる漁港も地盤沈下等の深刻な被害を受けて漁業再建の目途すら覚束ず、目に見えず、実態があるのかすら良く解らない放射能の数値に一喜一憂する日本の現状は、なかなか先の光明の見えぬ真っ暗な洞穴を手探りで歩いているようなものです。

でも私は生きてます。きちんと二本の足があります。周りは瓦礫だらけで足場はすごく悪くて、ぐらつく石に足を取られ、よろける事もしばしばですが、地面を踏みしめて歩いているのは紛れもない私自身の足なのです。

未来ある人、夢を持った人、守るべき家族がある人、一生懸命生きてきた人、そんな人が今回の震災で沢山亡くなりました。場合によっては、いや、これは冗談でもなんでもなく、選択肢が少しでも違っていれば、私自身も今回の津波に呑み込まれ、暗い海底に躯を晒していた事もあったでしょう。

でも、現実は生き残りました。なかなか自分は器用に生きれない方だと思ってます。だから正直、明日が未来が不安です。でも生きているんです。二本の足で立っているのです。だから、せめて不器用なりにあがいてみたいと思います。

今日、半年ぶりにまちにまったインターネット回線が復活しました。積もりに積もった未読メールの山が時間の流れを示してます。時間は確実に進んでいるんですね。
せっかくなんで、まずは手始めに、ネットに接続できなかった五か月余の間に溜まった皆さんのブログ記事、時間をかけてじっくりと読み漁りますか…。

あ、そうそう、ゼロから、いえ、マイナスからかもの再スタートですが、“がんばろう○△□!!”とか言うのはなんとなく好きじゃないんです。他にうまい言葉が出てきませんが、あがいて生きてみせるのが人間、私も結構往生際が悪いんですよ。

平成二十三年八月吉日。ブログ管理人・さっと拝

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お気に入り登録、並びにブログご訪問の皆さま、新年明けましておめでとうございます。

思えば昨年の元旦に今年こそは頑張って更新すると宣言、予告しておきながら、ついに一度も更新しないまま、一年が経ってしまいました。
猫の神社に関する考察《猫淵神社考》は(その3)のまま、すっかり一昨年の夏よりほったらかしになっております。私のつたない文面にも関らず、お楽しみにされていた方々、申し訳ございません。

この一年を思ひ返せば、ライフワークとなっている猫淵神社にまつわる新たな謎や新発見に加え、昨年の正月八日に参拝した、かつて鉄の町として知られた岩手県釜石市の観光霊場である「釜石大観音」で密かに囁かれる、ここでデートしたカップルは破局するという都市伝説について考察した「釜石魚籠大観音登拝ノ記(仮題)」を始め、幸い越喜来湾に目立った被害はなかったものの、二月二十八日に南米チリから日本沿岸に襲来し、岩手・宮城両県の沿岸漁業養殖施設等に大被害を齎した平成二十二年チリ地震津波。四月三十日に撮影した春恒例の越喜来中学校、大船渡市役所三陸支所(旧三陸町役場)の満開の桜の紹介。岩手県沿岸では初の真夏日となった七月十九日に三十三年に一度の本開帳が行われた、陸前高田市矢作町の観音寺にある、坂上田村麻呂伝説所縁の巨大木造十一面観音三尊立像の貴重な生写真。九月二十五日に台風12号の直撃を受け、激しい雨の降りしきる中で無理やり決行された越喜来総鎮守新山神社式年五年大祭。気仙誕生千二百年を記念して、十月二十三日に大船渡市のリアスホールで行われた姫神コンサート等々云々、昨年も面白いブログネタや行事や事件が沢山あったにも関わらず、とうとう何れもお蔵入りとなってしまいました。

とはいえ、もったいないので貴重なネタは機を見て掲載したいと思いますので、興味がおありの方は気長にお待ちいただければ幸いです。

さて、例年なら新年のご挨拶には、太平洋の水平線から昇る朝日の写真を掲載しているのですが、今年は悪天候なども重なり、残念ながら撮影の機会を逸してしまったので、今回は代わりと言ってはなんですが、やはりこれもお蔵入りとなっていた、昨年八月二十二日に筆者自宅付近より撮影した、虹色に輝く夕日の写真を掲載させていただきました。

恐らくは古くから「瑞雲」「慶雲」「五色雲」などと呼ばれ、見た人に吉兆を呼ぶとされる、縁起の良い「彩雲(さいうん)」の一種と思われますが、どうぞ皆様に今年も沢山の福運が燦々と齎される事を願いつつ、本年もどうぞ宜しくお願い致します。
                          
                                     平成二十三年元旦 ブログ管理人さっと拝
   


あ、そういえば蛇足ですが、私の今年の初詣に引いた御神籤は“吉”でした。
気になる御託宣の内容は、「▼このみくじにあたる人は、気性をしつかり持ちて物事をすれぱ、何事も思いのまゝに成就すべし、人に頼るべからず、だだし目上の引立あればわが身をたかぶらず従うべし…」
その直後、失せ物絵馬などの写真を撮ったのがまずかったのか、折からのみぞれ雪に足を取られ、神社の石段を二段ほど踏み外して見事尻餅を附いてきましたが、ま、今年は始まったばかり、好い事あればいいなぁ…。

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皆様、新年明けましておめでとうございます。

八月末のUp以来、ブログ更新を怠けている間にすっかり年が明けてしまいましたね。三陸沿岸は珍しくボタン雪の舞い散る元旦となりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

そういえば、不思議な事に更新を怠けていると、まるで天が話題を提供するかのように、一昨年の夏はツキノワグマが越喜来湾を泳いで横断し、昨秋には家の中にホンシュウモモンガが迷い込むという珍事か発生しました。当に日々是不思議也。今年はどんな珍しい動物が私にネタを提供してくれるのか、今から楽しみでがんす。

いやいや、そうじゃないですね。

このようにブログのネタが無い訳ではないのですが、一度更新を怠るとなかなか更新ができないのが私の悪い癖。

さて、動物ネタと言えば、昨春から取り組んでいる、猫が祀られているという猫淵神社に関する考察。《猫淵神社考》というサブタイトルに同名の書庫を追加させてもらいましたが、最初に参拝した際は簡単に紹介して終わる話だろうと思っていた話が、まさかこんなに複雑な論文になるとは思っていませんでした。未だ(その三)までしかUpしていませんが、奇しくも今年の干支は寅、猫淵神社に祀られる伝説の猫の名も「トラ」。謎解きのヒントとなるトラトラ繋がりで、今年こそ、皆様と一緒に猫の神社の正体に迫りたいと思います。

一年の計は元旦にあり、今年こそはせめて月一の更新が達成できればいいのですが…、口だけにならないよう気合を入れて頑張りますね。

尚、今回掲載の、雲間から太平洋を照らす三枚の朝日の写真は、昨年の元旦に掲載した日の出写真と似てますが、確かに撮影場所は同じなんですが、先月の鮑漁口開けの際に撮ってきた写真ですので、正月の初日の出を想像しながら、お楽しみいただければ幸いです。

では、こんな管理人ですが、皆様の健康と益々の発展をお祈りしますと共に、本年もどうぞ宜しくお願い致します。

                                       平成二十二年元日 ブログ管理人・さっと拝

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八月ももう終り、ネタ的に少し遅くなってしまった感があるが、今月は月遅れの御盆ということで、実家などの菩提寺でお墓参りした方も多いと思うが、寺によっては本堂などに、仏教における死後に転生するとされる世界で、天上道、人道、阿修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つの世界を描いた「六道絵」や、殺人や窃盗などの大罪を犯した亡者が落ちるという地獄道での責め苦を描いた「地獄変相」、所謂「地獄絵」が掛けられていることがある。

地獄とは、サンスクリット(梵)語のNzrakaの訳で、言い換えれば那落迦であり、奈落の事、地下にある牢獄を指している。

この様な地獄や極楽を描いた絵図は、多くは中世以降、文字の読めない庶民や女子供に分かりやすく仏の教えや信仰を説く為に、各地の寺院、或いは門付や大道芸などで浄財を得て食い繋ぐ、僧侶の中でも最下層に位置する願人坊主と呼ばれた乞食僧が、道端などでこれらの絵を広げて、撞木で調子を付けながら絵解き説法する光景が、江戸時代の風俗を描いた、寛永年間(1624〜1644)初期の『四条河原図』や寛政十年(1798)刊行の『四季交加』の挿絵等に描かれている。

この様な絵解き興行は、「おばけ屋敷」同様、怖いもの見たさの子供たちや女性に人気があったらしく、のちに「覗きからくり」や「見世物小屋」の定番の演目の一つになったが、地獄絵やそれを模した人形、果ては、今では考えられない事だが、その前に見世物として不具(先天性身体障害者)の子供を座らせたりし、「親ノ因果ガ子ニ報ヒ…」と、重い節回しで因果応報の恐ろしい話を語り、地獄絵の場面々々を細い棒で指し示しながら絵解きする光景が、昭和初期まで全国至る所で見られたという。

この地獄絵、特に江戸時代以降の地獄絵には、牛頭馬頭らの獄卒(鬼)や異形の牛に牽かれる炎に包まれた鉄製の車の上で、亡者が灼熱の苦痛に顔を歪ませもがき苦しむ「火車(かしゃ)」の図が良く描かれており、これも火車の伝承の伝播に影響したと考えられる。

火車は、平安時代から鎌倉時代にかけて編纂された説話集である『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』、江戸の怪談集である『因果物語』や『諸国百物語』『奇異雑談集』『新著聞集』『耳袋』『画図百鬼夜行』『北越雪譜』等々、様々な文献にその存在や伝承が記されているが、恐らく火車の話で最も世に知られているのは、鎌倉時代に成立した軍記物の『平家物語』巻六・入道死去の件に記された次の逸話であろう。

治承五年(1181)二月、平清盛(入道相国)が突如原因不明の熱病に侵されて重篤となり、苦しみ藻掻いている時、清盛の正室である時子(二位殿、清盛没後は落髪して二位尼)が、馬の顔や牛の顔のような異形の者に牽かれた、火炎の激しく燃え盛る車が屋敷の門の内に闖入してくる夢を見た。
「あれは何処より来た車ぞ」と夢の中で時子が尋ねると、「閻魔の庁から平家太政入道殿(清盛)の御迎に参ツて候」と鬼が答えた。車の前には「無」という文字が書かれた鉄の札が立っていたので、「さて、それはなんという札か」と更に問うと、「無という字は、入道殿が南閻浮提金銅十六丈の盧遮那仏を焼き滅ぼした罪によって、無間地獄(むけんじごく)の底へ堕すという閻魔王の御沙汰で、無間の無の字だけを書き、未だ間の字が書かれていないのだ」と答えたという。余りの事に夢を見た時子はもとより、この話を聞いた者は恐怖で「みな身の毛よだちけり」とある。

この前年の治承四年(1180)五月に起こった以仁王の乱以来、伊豆の源頼朝や木曾の源義仲ら、各地の源氏勢力と結託し、平氏政権に反抗的な態度を取っていた南都(奈良)の園城寺や興福寺などの寺社勢力を掃討するため、同年十二月二十八日。清盛の命を受けた平重衡率いる軍勢による焼討ちを受け、その兵火により、天平勝宝四年(752)の開眼以来、荘厳を誇っていた東大寺金堂(大仏殿)も炎上。多くの堂塔や伽藍が灰燼に帰し、大仏殿の二階に逃げ込んだ足の悪い老僧や女子供などは、追撃から逃れるため二階に通じる梯子を外していた故に逃げ場を失い、千人以上が生きながらに焼かれ、聖武帝勅願により造立された、高さ十六丈の金銅鍍金の盧舎那大仏は「御頭は焼けおちて大地にあり、御身は鎔きあひて山の如し」という惨状であったと伝えている。

『平家物語』よれば、夜戦に備え、重衡が明りを支持したものを、配下の者が火攻めの命令と取り違え周囲の民家に火を放ったのが、折からの強風に煽られて瞬く間に燃え広がったといい、反抗する寺社勢力への見せしめとはいえ、東大寺大仏殿まで焼き払うという、戦略的且つ政治的な大失態を演じた重衡に、清盛は激怒したとも言われている。
この南都焼討は平家の孤立を招いたが、開けて正月十四日、更に追打ちをかけるような事態が起こる。平氏政権に従順であった、安徳天皇の父親である高倉上皇が二十一歳の若さで崩御したのである。清盛は治承三年の政変以来、幽閉状態にあった後白河院を解放し、政権を返上。各地の平氏勢力を再編成し、自ら戦局の打開を図ろうとしたが、大仏殿炎上から二ヶ月後の二月二十七日、今度は清盛が原因不明の熱病に倒れたのである。

『平家物語』は、入道相国は発病の日から、湯水も咽喉に通らず、身体の熱は火でも焚いているようで、宿所近く、四、五間へ入る者は、清盛の発する熱気に耐えられなかったといい、何とか冷やそうと、比叡山から汲んで来た千手井という井戸の水を石の浴槽に入れ、そこへ清盛を浸からせ熱を下げようとしたが、水は沸いてすぐ湯になってしまう。もしかしたら楽になるかもと、掛け樋の水を引いてみたが、石や鉄が焼けたようで、忽ち飛び散って近づけず、偶に体に当たった水は火炎となって燃えるので、その黒煙で殿中は一杯になる有様であったといい、清盛俄に重篤の噂に京、殊に六波羅では「それこそ、悪業の報い」「南都を焼いた祟り」だと囁かれた。

平清盛の罹った熱病は、現在では髄膜炎、或いは伝染病のマラリアではなかったかと考えられている。この後、時子らは霊験あらたかな神社や仏寺に金銀、七宝を始め、馬、鞍、鎧、兜、弓矢、太刀、刀等、手当り次第に掻き集めて奉納し、病の平癒を祈念したが、一向に験は無く、清盛は「葬礼などは及ず、ただ恩知らずの頼朝が首級を、我が墓前に手向けるべし」と遺言し、病を発してから十日もしない閏二月四日、苦悶の表情のうちに六十四歳で「あつち死に」という波乱の生涯を閉じた。

平時子が見たという火車の夢が事実かどうかは不明である。しかし、南都焼討から僅か二ヶ月余りの期間に、高倉院や清盛入道といった政権の中枢人物が二人も急死し、これを境に栄華を極め、平時忠をして「平家にあらずんば人にあらず」とまで言わしめた平氏一門が、急速に滅亡への道を歩んだ事は、数々の怪異に見舞われたという福原京への遷都の失敗や、先の「保元の乱」で敗北、讃岐に配流となり、長寛二年(1164)八月、朝廷を呪詛しつつ崩御したという崇徳上皇らの怨霊。奈良の大仏を始めとする南都の堂塔を焼亡させた仏罰であると喧伝され、平曲語りの琵琶法師などを通じ、後の世まで広く知られる事となったのであろう。

『平家物語』に記される、平清盛を迎えに来た火車は、はっきりと行き先が書いてあった例であるが、実は火車は無間地獄における責め苦の一つであるとも考えられていた。

無間地獄は阿鼻(あび)地獄ともいい、阿鼻は梵語の音写で、炎が絶え間なく吹き出している事から、無間(むけん・むげん)と漢訳され、絶え間のない苦しみを受ける事を指す言葉である。
この地獄は仏教で言う五逆と謗法(ほうぼう)の大悪を犯した者が落ちる所。即ち殺生・盗み・邪淫・飲酒・妄語・邪見・犯持戒人(清らかな戒を守っている尼僧を犯し汚すこと)・父母殺害・阿羅漢(聖者)殺害・僧の和合を破ること、仏身を傷つけ血を流させた者が落ちるとされる地獄で、八層からなるとされる大灼熱地獄の最下層に位置し、等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・阿鼻からなる八大(八熱)地獄の内では最も規模が大きく、阿鼻地獄の城は縦横が八万由旬(※由旬は古代インドの距離の単位の一。一由旬は、牛車の一日の行程をさし、その長さについては諸説ある。中国では六町を一里として、四十里または三十里あるいは十六里にあたるとした)。最下層故、亡者が地獄に落ちるまで、真っ逆様に(自由落下速度で)落ち続けて到着するまで二千年もの時間がかかるとされる。

前の七大地獄並びに別処(※各地獄の周囲に存在する小規模な地獄で、地獄に落ちた亡者の中でもそれぞれ設置された細かい条件に合致した者が苦しみを受ける)の一切の諸苦を以て一分として、大阿鼻地獄の責め苦はその一千倍にも及ぶといい、七重の鉄壁、七層の鉄網に囲まれた阿鼻城内では、東南西北の四方から次々と猛火が押し寄せ罪人を蝋のように焼き溶かし、剣樹、刀山、銅の湯などの苦しみを絶え間(寸分・刹那)なく受ける。この城には身長が四十由旬もあり、すべての毛穴から悪臭を放つ猛火を噴き出す四匹の巨大な銅の狗や、六四の目を持ち、鉄丸をほとばしり散し、長さが四由旬もある鉤のように曲った牙を持ち、頭の上には牛の頭が八つ、一つ一つの牛頭には十八の角があり、それらの先から火を噴きだしている奇怪な十八の鬼(獄卒)がいて、亡者は舌を抜き出されて百本の鉄釘で張り、牛の皮の如く皺の無いように伸ばしたり、毒や火を吐く虫や大蛇に責めさいなまれ、熱鉄の山を上り下りさせられるという責め苦を受ける。その余りの酷さに、他の地獄でさえ、ここに落ちた亡者から見れば夢のような幸福に感じられるという。

ここでちょっと疑問に思った方もいると思うので、仏教の地獄について若干補足しておくが、獄卒の惨い責め苦を受け、皮肉を削がれ、血を絞られ、骨の髄まで粉々になり、最後は炎に焼かれて炭や灰の様になってしまっても、獄卒が「活々」と唱えると再び肉体が再生し、また始めから同じような辛苦を味わうとある。つまりどんなに痛みや苦しみから逃れたくても、地獄に落ちた人間は自殺をする事も出来ず、地獄での寿命(刑期)が尽きるまで同じ責め苦を延々と受け続けるのだという。

また、この無間地獄の寿命の長短は一中劫という。一中劫とは、この人寿無量歳なりしが百年に一寿を減じ、また百年に一寿を減ずるほどに、人寿十歳の時に減ずるを一減という。また十歳より百年に一寿を増し、また百年に一寿を増する程に、八万歳に増するを一増という。この一増一減の程を小劫として、二十の増減を一中劫という。例えの一例としては、一辺が一由旬の巨大な正方形の石を、百年に一度柔らかな綿で軽く払い、その繰り返しで石が磨耗、消滅するよりも更に長い時間だと言われる。この地獄に堕ちたる者は、これ程久しく無間地獄に住して大苦を受くという。

俗人には漠然としすぎてなんだかよく分からないが、この無間地獄で受ける苦しみよりは余程ましだという、二層上にある焦熱地獄(火炎地獄ともいい、赤く熱した鉄板の上や串刺し、或いは体をバラバラに切り刻まれ、高熱の炎で焙られるという)でさえ、人間界の時間で五京三千八十四兆千六百年という、天文学的な時を経ないと転生出来ないとされるのだから、平安時代中期。日本の浄土思想に多大な影響を与えた『往生要集』を記した天台宗の僧、恵心僧都源信をして、「この地獄の有り様を詳しく述べれば、余りの恐ろしさに、語る者は口から血を吐き、聞く者も肝が潰れ、魂千切れて死ぬる」と言わしめた、無間地獄へ対する昔人の恐怖が、少しばかりでも伝わっただろうか。

この無間地獄の四つの門の外に、十六か所付随するという別処に当たるとされるのが「火車(鉄車)地獄」であるが、どうも一部の経典のみに記される異説の部類に属するものらしい。

(猫淵神社考・その4へ続く)

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更新が遅れている猫淵神社考、けっこう奥が深い…。

猫が祀られる神社の正体を探ろうと簡単に手を出したら、猫からカボチャならぬ謎解きのキーワードが、掘り下げれば掘り下げるほど、後から後からゴロンゴロン出て来て収拾整理するのがちょっと、いいや、かなり面倒。カメラ持って取材に行かなきゃ行けないところも増えたし、このテーマで年内もたせられるな…。

昨日の天気予報では朝から晴れ渡るようなことを言っていたのだが、今日は時折ゴロゴロと雷が鳴り響く雨降り模様。夕方になってやっと晴れたが、最近の天気予報は直前になるまで当てにならない。

さて、ゴールデンウイークに入ると同時に悪化した私の虫歯は、結局ひと月ほどかかって、つい先日治療を終えたのだが、やはり歯医者に掛かる人は結構多いようで、予約を入れたからと油断して遅く出かけると来院者用の駐車スペースが埋まってしまっている事もしばしば。その際は止むを得ず車を、歯科医院から少し離れた、普段空いている行きつけの公営書店兼図書室がある大船渡市立三陸公民館(旧三陸町立中央公民館)の駐車場に停めに行くのだが、この三陸公民館の駐車場入り口付近(上記掲載写真)が、これから語る伝説の舞台であることを知る人は少ないと思う。

では、昔あったずのな…。

昔々の事、越喜来の浦浜にある松崎(マッツァキ)という家のお爺さんが亡くなられて、そのお葬式の日の出来事でした。
昔は亡くなった人は皆土葬でしたので、銘々のお家で葬式が終わると、行列をしてお寺まで棺箱(※ガンバコ、三陸地方の方言で棺桶の事)を担いで行きます。今でもその名残りで、葬式の時は「陸尺(ロクシャク・古語で貴人の乗った輿を担ぐ者の意)」といって御棺を担ぐ人が四〜六人身内から選ばれます(形式のみ)。
その日の行列が松崎を出て大ぼざ(大ぼ沢)というところまで来ると、俄かに竜巻が巻き起こり、担いでいた御棺が忽ち飛ばされそうになりました。お陸尺の人達はもちろん、周りの人達まで必死になって飛ばされないように押さえていたところ、急にその棺が軽くなったのに気がつきました。
皆が顔を見合せ、御棺を調べたところ、御棺の蓋は無くなっており、中身の仏様(※三陸地方の方言で遺体の意。単にホトケとも)まで消えていたのです。世の中の人々はこれを化け物にさらわれたのだと語り合っていました。
その方のお墓だと伝えられて、今の中央公民館(※大船渡市との合併に伴い、三陸公民館に改称)入口脇に大きな自然石の碑がありましたが、公民館を建てる時、杉下に移したといいます。
このお話は、もう一人の方の説によると、葬式の当日は大時化で、晴れ間を待っての出棺でしたが、やはり行列の途中、一天俄かにかき曇り、真黒い雲の中から「かっしゃ」(化け物)が出てきて、死体を空に舞い上げ、なかなか下りて来ないので、和尚さんたちが声を張り上げてお経を唱え続けると、しばらくして死体は棺には入ったまま下りて来ました。それが現在の中央公民館入口辺りだったという事です。
松崎家のお話によりますと、移転の時掘り起こした遺骨らしい物は、二握り程度で、土など数袋を運び、懇ろに葬ったという事です。
また誰かが、墓石の写真を撮ったら、石の面に人影が浮かび上がったとのこと。亡くなった人の面影かと話し合われたとの事です。

‥以上が「化け物にさらわれた仏さま」のタイトルで、旧三陸町老人クラブ連合会が刊行した『さんりくのむかしばなし』に収録されている、大船渡市三陸町越喜来字杉下の「松崎」の家号を持つ旧家、及川家にまつわる伝説のあらましであるが、今から三十年近く前、私が小学校に入学する以前の話なので、ほとんどうろ覚えなのだが、三陸町越喜来字前田の旧三陸町立中央公民館(※昭和五十九年八月完成)が建てられる以前は田圃で、浦浜川を隔てた道路脇、現在はアスファルトで舗装されている三陸公民館のちょうど駐車場入り口中央、やや左側付近のかつての水田を隔てた草地であった場所に、ぽつんとひとつだけ件の墓碑が在ったと記憶している。

つまり、土葬が一般的だった時代のお墓が在った場所を買収整地して、アスファルトで塗り固めたその上を、現在、公民館を利用する車や歩行者が行き交っている訳になるのだが、この場所に纏わる伝説を知らなくても、移転前に墓石を撮影したら心霊写真が撮れたという後日譚は、今なら格好のミステリースポットになってもよさそうな話なのだが、この場所にかつて墓石が在ったこと自体覚えている人も少ないのか、公民館に纏わる他の噂話をちっとも聞かず、この伝説自体もすでに風化しかけているのはちょっと寂しい気もする。

葬送の際に突然起こった“竜巻”により、御棺の蓋と共に中の遺体が消え失せてしまったなど、物語の結末が若干異なるが、別の口伝にある、真黒い雲の中から「かっしゃ」という化け物が現れて遺体の入った棺桶を空へ舞い上げ、和尚さんがお経を唱えると、遺体は棺桶に入ったまま下りてきたというところは、可愛がっていた飼い猫や合言葉の呪文こそないものの、前回紹介した陸前高田市矢作町梅木の猫淵神社の縁起である「猫渕の伝説」の見せ場である、長部村の裕福な家の嬶様の葬式の最中、遺体の入った御棺が空中へ昇ってしまって騒ぎになったところ、宝鏡寺のお坊さんの唱えた「トラヤー、トラヤー、ナムトラヤー」の呪文で御棺が降りて来る件に、よく似ている事に気付かれただろうか。

総集編である『さんりくのむかしばなし』は、読みやすくするために校正再編されており、私もブログ掲載に当たり補足説明等、若干手を加えて紹介しているのだが、この伝説の初出となる、昭和六十二年(1987)に刊行された『三陸のむかしがたり・第8集』に収録されている「化物にさらわれた仏さま」(語り・浦浜/若林コヨシ)おいて、化物にさらわれたという松崎のおじいさんとは生前如何なる人物であったのか、遺体をさらう竜巻を起こした化物なるものの正体も誰に聞いても分からなかったとして締められているのだが、これは別の人の口伝が伝えている、黒雲の中から現れたという「かっしゃ」なる化け物の名に、この伝説を読み解くヒントが隠されている。

そして、猫淵神社に祀られる宝鏡寺を盛んにした猫の霊も、やはり宮城県登米市津山町横山の白魚山大徳寺境内にある横山不動尊が使わした「カッシャ」であったと伝わっていることには注意される。

気仙地方の伝承では、棺桶を空中に吊り揚げたり、降ろしたりする様子から、少ない力で重い物を持ち上げたり、力の方向を変えるのに用いられる道具である「滑車」を連想したのか、「カッシャ」と呼ばれているようだが、気仙郡に隣接する岩手県遠野地方や長野県南佐久郡では「キャシャ」、福島県南会津、静岡県、愛媛県大三島、徳島県では「クワシャ」、群馬県甘楽郡では「テンマル」、愛知県知多郡日間賀島では「マドウクシャ」、鹿児島県出水郡では「キモトリ」などともいい、一般的には「カシャ」の名で、死体を奪いに来る妖怪、あるいは鬼として、西日本を中心に全国的にその存在が伝えられている怪異である。

「カシャ」とは漢字を当てれば「火車」で、元々は仏教において、生前悪事を犯した亡者を乗せて地獄に運ぶという、火の燃えている車。また獄卒(※仏教の地獄で、鉄杖を持って罪人を苦しめる鬼の仲間)が呵責(かしゃく・酷く責め苦しめる意)に用いるという火炎の燃え盛る鉄の車を指す。
獄卒が生前悪事を犯した亡者(もうじゃ)をこれに乗せ、責めたてながら地獄に運ぶ様子(火車地獄)は、地獄変相図(地獄絵)にも描かれて、この絵を指しながら、生前の悪業を戒める説教に使われることが多い。転じて、地獄の鬼ならぬ債鬼に追い立てられ、日々借金地獄を味わう生活、また生計の遣り繰りに苦しむことを、例えて火の車(ひのくるま)と言うようになった。

江戸時代後期に記された茅原虚斎の『茅窓漫録』(天保四年・1833)には、「西国雲州(出雲)薩州(薩摩)の辺、又は東国にも間々ある事にて、葬送のとき、俄に大風雨ありて、往来人を吹倒す程の烈しき時、葬棺を吹上吹飛す事あり。其時、守護の僧数珠を投かくれば異事なし、若左なきときは、葬棺を吹飛し、其屍を失ふ事あり、是を火車(クハシャ)に捉れたるとて、大に恐れ恥る事なり。愚俗の言伝に、其人生涯に悪事を多くせし罪により、地獄の火車が迎ひに来りしといふ。」とある。

死体の入った棺を火葬場、或いは墓地に埋めに行く葬送の野辺送りの時、突然暴風雨が起こり、葬儀の列を組む人々を押し倒すほど激しくなって、担いでいる棺桶を吹き飛ばし、棺の蓋を取ってしまうことがある。
これを「火車に憑かれた」といい、牛頭、馬頭らの獄卒が、火車を引いて彼岸から地獄へ落ちる亡者を迎えに来たものだとも、年を経た老猫が化けた妖怪が死体を盗みに来たのだとも言って、この怪事を人々は大いに恐れ、これに遭う事を恥としていた。

(猫淵神社考・その3へ続く)

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