日々是不思議也

過去の記事に、新たに撮影地名や当時の未公開写真等を一部追加致しました。震災で失われた貴重な風景もありますので、ご覧ください。

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岩手三陸・なごりの雪

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昨夜の天気予報では、明け方から降るようなこと言っていたが、お昼過ぎから舞い始めた冬の名残りの雪は、私が散髪を終えて床屋を出る頃にはボタン雪に。

先週のお彼岸の五月並みの汗ばむ陽気に、車のタイヤ交換をした人もいるだろうが、岩手県内でも比較的温暖とされる三陸の気候でも、四月の初めごろまで雪が積もることもあるので、まだまだ油断は出来ない。

今回の写真は岩手県大船渡市三陸町越喜来字井戸洞。宮城県仙台市と岩手県宮古市を結ぶ、三陸縦貫自動車道・大船渡三陸道路、新三陸トンネルの開通により、廃道になった旧国道四十五号線と林道井戸洞線を結ぶ岩手県交通旧小峠バス停付近にあった小祠。大船渡三陸道路を通ったことのある人なら、「道の駅・さんりく」の裏側といった方が解りやすいかも知れない。

私が中学生の頃までは、この祠の右前方にドライブインがあり、旧三陸トンネルから続く桜並木はゴールデンウイークのドライブ客を楽しませていたが、三陸縦貫道・三陸インターの建設に伴い、かつての国道には高く土が盛られ、その上に出来た新道を大型トラックや自動車が行き交っている。

注連縄の張られた粗末な木の鳥居に、比較的新しい石の祠と脇に寄り添う古くからあったであろう、風化して文字か刻まれているのかも解らない石。村落の境界と旅人の安全を護るサエの神、道陸神(道祖神)だろうか。

祠の脇のおそらくもう開かれることがないであろう、固く閉じられた車両侵入防止の鉄の扉は錆びつき、時の流れを感じさせているが、廃道後に建てられた反対側の建設会社の倉庫へと続く、旧道沿いの桜並木には昔の国道の面影がまだ残っていた。

車がやっとすれ違えるほどの車幅の狭い道なのだが、泊、甫嶺地区と三陸道を最短距離で結ぶルートのため、この写真を撮っている僅かな間にも、けっこう車が通り抜けて行く。

傍らに生える桜の蕾みはまだ固く、桜前線は四月十三日頃の開花を予想していたが、この寒気で、もしかしたら咲くのはもう少し遅れるかも知れないが、今日の雪もみぞれ交じりになったから、たぶん積もらない。

ここの桜が咲いたら、上の三陸道から祠を見下ろすように写真を撮ってみようかと思う。
桜のピンクと黄緑色に染まった草木はさぞ綺麗だろう。

寒さと暖かさを繰り返しながら、季節はどんどん移り変わる。

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(前編から続く。まだお読みでない方は前編からどうぞ)

「ああ、あそこ、…あれがオレンドサマなんだ」

鬱蒼とした杉木立の中に静かに佇む御霊(みたま)神社、通称「オレンドサマ」の社殿と赤く塗られた鳥居は、木々の間からに差し込む日の光に照らされ神々しささえ感じられる。

早速、木漏れ日の中に幻想的に浮かぶ神社と鳥居の写真を撮るため、足早に鳥居に近づいてカメラを構えると、以外と新しそうに見えていた鳥居の根元は虫に喰われてボロボロと崩れ落ち、朱塗りの柱にはキノコまで生えて、今日明日中に折れて倒れてしまっても不思議ではない様相を呈していた。

オレンドサマへの案内役を買って出てくれたМ家の奥さんも、
「白アリに喰われていだっては聞いでだんだけど…、すっかりボロボロになってだねぇ」
「けっこう傷みが激しいもんね。ほら、鳥居の柱さキノコも生えでだし、根元が腐っていて危ないから、下手に手付けない方がいいがもしんねえね。たぶんあんまり保たないんじゃないかなぁ…」

昔、祖母と一緒にオレンドサマにお参りに来たことがあるらしいうちの妹に言わせれば、すぐにも鼠が出て来そうな神社だと聞いていたので、不謹慎で申し訳ないが、オレンドサマというのはよほどボロボロになった御社なんだろうと半ば期待、想像してはいたのだが、実際に鳥居の虫食いの無残な惨状を目にして、「これは神社の方もやばいかもしんねぇな‥」そう思いながら、参道の石垣を覆い隠すほど降り積もった杉の葉や杉の枝葉を払い除け、たどり着いた間近で見る御霊神社のトタン葺きの社殿は想像よりも大きく、径年の痛みは見られるが以外としっかりして見えた。
社殿の裏には割れた大きな石が見える。社殿が出来る以前、あの辺りに御神体が祀られていたのだろうか。

「昔はここさ集まって飲んだり食ったりもしたらしくて、オレンドサマの後ろに行くとの昔のファンタの瓶だのコーラの瓶なんだのが転がってるんだよ。今は缶だのペットボトルになって、S君(筆者本名)の時代だと(ガラス)瓶のファンタなんて知らないんでねえの?」
「いや、‥オラどが小学校に上がるくらいまでガラス瓶のファンタはあったんだもの。昭和五十二年(1977)の生まれだからね」
「うーん、ここさあったのはもうちょっと古いんでねえかな。見に行ってみる?」
「いや、まずはお参りから(笑)」

ぐらつく粗末な石段を登り、すっかり重くなったお社の引き戸を開け、暗がりに目を凝らすと、漆黒の闇の向こう、奥の祭壇の上には色取り取りの手作りの幕や願い事を書いた紅白の手拭いで飾られた、真黒に煤けた木で作った大小の御宮が二つ、その中に静かに鎮座する見慣れた二頭の権現様(獅子頭)の金色に輝く歯がキラキラと浮かび上がる。

「私はここでいいから、S君上がってお参りしてきたら」
「そうだね。せっかく来たんだから、中で拝ませてもらうべかな…」

とはいったものの、これが霊気が漂っているというやつなんだろうか、なんか怖い。
御霊(みたま)神社、御霊(ごりょう)、即ち怨霊、祟りなす人霊を祀った神社であることが厭でも頭に浮かぶ、写真を撮るのも憚られるようだ。

「…やっぱり、電気も何も来てないんだね」

靴を脱いで、入口に張られた黒いカビの生えた紅白の幕を捲り上げ、恐るおそる中に入る。板壁はところどころ隙間が空き、外の光が闇の中に漏れ出しているが、天井板は近年改修補強工事が施されたらしく、まだ新しい。十畳ぐらいはあるだろうか、内部は結構広く、床板に敷かれた古くなったビニール製のゴザのカサカサとした感触が足裏に妙に伝わってくる。

両脇に目を移すと、板壁や柱に打ち付けられた「武運長久」と記された鉄製やブリキ製の古い奉納剣と共に、白い画用紙に描かれた「猫」や「蛇」の絵、そしてやはり画用紙や半紙に、マジックや墨でアンカー(錨)や籠の絵が描かれた、現在ではほとんど廃れてしまった三陸地方独特の「失せもの絵馬」が貼り付けられているのが目に入った。

「あっ!、あれ。あそこに貼ってある錨(いかり)の絵描いてあるのは‘失せもの絵馬’ってやつだね。海の神様である龍神様は金気(かなけ)、金属を嫌うって言われていて、昔は、錨とか刃物どかいった金属の物を、間違って海に落として失くしてしまった時なんかに、失くした物を絵さ描いて龍神様さ謝っぺって奉納したんですよ。昔は皆やったんだすども、今ではほとんどやんなくなってしまって。これの本物の写真が撮りたくて探してたんだけど、いやーここさも在ったんだねぇ」

思いがけない発見に、ちょっと興奮気味になった私だが、まずはオレンドサマに御挨拶するのが先決だ。ちなみに、この三陸地方の漁師の間で行われる「失せもの絵馬」という風習にもちゃんとした理由があるのだが、これは海の神として祀られる「八大竜王尊」を考察した際に詳しく説明しよう。

オレンドサマの御神体が祀られていると思われる、真ん中の大きな御宮の祭壇の前に敷かれた座布団に座り、財布から取り出したお賽銭の百円玉を目の前の小さな賽銭箱に投げいれる。パン、パン、静寂の中、私の打つ柏手がひと際大きく響いた。

「初めてここに来て拝まさせてもらいます。(神社の)中の写真も撮らさせでもらいますが、許してけらいね…」

両壁に張られた寄進者の名前が記された板や奉納の絵馬にも、見知った人の名前がちらほら見える。
御宮の左隣には、木と紙で作られた破れた灯篭提灯がうず高く幾つも積み上げられ、左隅の床の上には「東区子ども会・御霊神社」と記された横長の大きな行燈も置かれている。
そう言えば、現在も八月二十日に行われている別の地区の神社の御縁日では、これと同じ子供達の絵が描かれた手作りの灯篭提灯が、夕方、ロウソクを灯され小学校脇の道路から神社まで点々と長く続いているのを目にしたことがあるが、同じような行事が、何十年か前まで、このオレンドサマでも盛大に行われていたことを物語っていた。

「ここさ失せもの絵馬貼ってあるってことは、竜神様と関係あるんだべかね。御霊神社てのは、祟り神、怨霊を祀った神社って意味でね、京都にも…」

祖母やМ家の奥さんとの話の中で、神社の創建と何か関係があるのかは分からなかったが、現在は杉林となっている神社の付近にもかつては人家があり、夏のある時期に地域の人達が神社に泊まり込み、飲食を共にする夜籠りも行われていたりと、それなりに開けたところだったらしい。が、それも今は昔、今から二十年前、平成元年(1989)と記された、画用紙に斑猫の絵の描かれた紙絵馬の奉納を最後にして、神社の時は止まってしまったかのようにも思える。

「記憶の彼方に忘れられゆく神様か…」

三脚も持たず、ほとんど明かりのない暗闇の中での撮影だったので、御霊神社内部はフラッシュ無しでは画像がぶれ、思うような写真が撮れなかったが、床に無造作にちらばっていたお賽銭の十円玉を拾い集め、祭壇の前の賽銭箱に収め直し、私が社の外に出ようとした時には、最初に感じていた恐怖は不思議と消えていた。

「いやーホント、最初、鹿避けの網さ道阻まれた時は、なぞにすっぺかと思ったったども、М家のかあさんが居て助かったでば。付き会ってもらってありがとうございました」
「いえいえ、私もオレンドサマさ行ってなかったから、どうなってたべと思って気になってたのす」
「これでオレンドサマの場所も分かったがら、またいずれ、来年の正月にでもお参りさ来るから」

家に帰って時計を見ると、出かけてから往復わずか一時間ちょっとしか経っていないのに気が付いた。
まったくの思いつきで行って来たにもかかわらず、意外と簡単に、というかまるで仕組まれたかのようにとんとん拍子にすすんだオレンドサマ参り。山の中なので鹿は無論の事、熊も出る場所だろうとは想像していたが、後で父親に聞いたところ、クロヘビ(蝮)も出るらしいから、暖かくなれば簡単には行けない場所だったようだ。

それにしても気になるのは、御霊神社を建てたのは、神社に祀られているのは、祭神の正体はなんなのだろう。結局これを書いている今も分からずじまいだが、「オレンドサマ」という呼び方から察するに、御霊信仰とも関わりが深く、大船渡市内にも多く祀られている雷様、即ち三陸地方の方言で「カミナリ」を指す「オレイサマ」、雷神を祀った神社ではないかと推理するのは早計だろうか。

今は想像にすぎないが、もし、その謎や創建にまつわる伝承が解き明かされた時、オレンドサマは私にどんな姿を見せてくれるのだろうか、それとも…。

祭神不明、縁日不明、創建年代不明、由来不明、まだまだ多くの謎に包まれた神社であるが、今回の参拝は私とって、オレンドサマは未知の存在からずっと身近な存在の神様であったことを認識させる結果となった。

そう、私の家からそれほど離れていない所、幾重にも張られた鹿網の向こう、鬱蒼とした静かな杉林の中に埋もれるように御霊神社、通称「オレンドサマ」は在る。

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三月になり陽もすっかり長くなって、だんだん春めいてきたとはいえ、雪に関してはまだまだ油断できない三陸の早春。
近所にあることは知っているのだが、未だお参りに行ったことがない神社やお寺というのは結構ある。中でも個人の家の敷地内や、裏山に祀られてあるような民間の小社の場合は特に行きづらいものだ。

この神社も徒歩で十五分ぐらいの距離、もしかすると我が家から一番近い場所にある神社となるのだが、町史の記述や家族の話などから、この神社の存在自体は聞いていても、道路からは鳥居も社殿も全く見えず、縁がなかったと言うか、わざわざ探してまで行って見る気がなかったと言うか、そのまま今の今まで私の中で未知の存在となっていた。

さて、天気はすごく良いのに、暇が出来た先月二十六日。

例の如く、前夜、ふと思いついたように件の神社に行ってみたくなった私は、以前は正月になると必ずお参りに行っていた祖母から、件の神社の大体の位置と入り口を聞いて、愛用のデジタルカメラを携え、ブログのネタ探しにいざ出発と勇んだはいいが、私のメタボな体型と車ばかり使って普段余り歩かないのが祟り、登り坂で早くも息が荒くなり始めてしまった。

「しまった。やっぱし、止めときゃよかったかな。天気はいいんだども、風は結構冷たいし。コタツの中で猫と一緒にぬくぬくと‥」と、私の中のちょっとカバネヤミ(怠け者)な雑念がよぎったその時、背後からヒュウと吹く風がぽんと背中を押した。
「これから山登りしなきゃならないのに…、今から疲れてどうすんだってな」
風は冷たいのだが温かな日差しか照りつけ、梅の花もほころび始めている。行き当たりばったりでちゃんと辿り着けるか疑問だったが、こういう時は意外と付いているものだ。

さて、私の息が切れてしまわない間にちょっと説明しておこう。

私の目指している神社は、正式には御霊神社(※みたまじんじゃ・御霊魂神社とも書く。明治六年の「越喜来村大絵図」では「霊堂」と記す)と言い、地元民には「オレンドサマ」の通称で知られるのだが、『三陸町史3/教育・社会編』「三陸町内の神社」のその他の神社の項によれば、御霊神社、(※現・大船渡市三陸町)越喜来浪板鎮座、祭神不明、祭日不明。神社のある山林を所有する旧家の屋号・刈谷家が別当を努め、私の地区のゴンゲンサマ(※三陸地方の郷土芸能である権現舞に用いられる獅子頭の事)が納められている民間の小社であること以外は由来も何も解らないということになっている。

子供の頃は、この珍しい名前の神社が私の地区にあることは、なんだかとてもかっこよく誇らしげにさえ感じられていたのだが、後にその名前に込められた意味を知った際に愕然とした。

そもそも「御霊」とは、「ゴロウ・ゴリョウ」で、神霊のうちでも、特に恨みをもった霊魂で、祟りを示す霊、怨霊(オンロウ・オンリョウ)を指す。御霊という語は、もともと人霊の総称らしいが、とりわけ荒々しい怨念を込めた人霊のみに限定して用いられる事例が多い。遺執執念を残さないで、代々子孫に子孫によって、丁寧に祀られる祖霊(それい)とは対立する神観念と考えられている。

貞観五年(863)五月二十日、朝廷の主催により平安京の神泉園で我が国最初の御霊会(ごりょうえ)、即ち祟道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原夫人(伊予親王の母、吉子)および観察使(藤原仲成)・橘逸勢・文室宮田麻呂ら、いずれも藤原家進出に伴い非業の死を遂げた六人の御霊の祟りを鎮める陰陽道祭祀が開かれた記事が『三代実録』に記されている。

非業の死を遂げたり、生前に恨みを残して死んだ人霊、即ち御霊が天災や疫病といった様々な災厄をもたらす根元だとする古代心意は、人々の間で潜在的に伝承され今日に至っており、行疫神、厄病神等は御霊の発現形態の一つで民間に定着した。

しかし、祟りをなす御霊も祭神として祀られ、怨霊が鎮まり御霊神となると、荒々しい性格は残るものの、悪霊悪神を排除する善神として働くようになる。

江戸時代初期、仙台伊達藩の分家である、宇和島藩の権力争いで非業の死を遂げたといわれる家老、山家清兵衛公頼の御霊は、藩主の手によって代々祀られると、やがて和霊(われい)様の名称で御利益のある流行神に転化しているし、佐倉宗吾に代表される百姓一揆の指導者である義民は、死後怨霊となって人々に恐れられるが、やはり鎮魂を経ると、土地の守護神として崇められるという事例は多い。

つまり怨念の強い御霊であればあるほど、それだけ神威に対する信頼も強かったことの表れであり、疫神としての性格の他にも、田の神や水神、雷神など様々な信仰と結びつき、虫送りや道切り縄など、近代初期までの民俗行事に影響を与えている。

趣味で地元の伝説を調べているが、鬼や幽霊、妖怪、合戦で負けた落人やそれらにまつわる祟りなど、御霊信仰の候補となるような因縁話などは数多く残されていても、この御霊神社の創建の謎に直結するような伝説、口承は見つかっておらず、ほとんど全くといっていいほど謎に包まれている。

ブログのネタとしてこれほど相応しい神社が家から歩いて行ける距離にあるのに、今まで行ったことないなんて勿体ないと、すごく不謹慎な理由で出かけたのだが、後から考えると、今更自分のことながら、仮にも祟り神に対して怖いもの知らずというかなんというか‥。

さて、祖母の話によると、とある民家と民家の間にオレンドサマへと続く登り口があるという。着いてみると、そこは、現在ではほとんど民家の庭先になってしまってはいるのだが、なるほど、家と家の間に止められた車から覗く上の畑の間に山へと続く開けた道が見える。

他人の家のほとんど庭先の道を通り抜けるには若干抵抗があったが、わざわざ玄関のチャイムを鳴らして断るのもかえって迷惑そうだ。「知らない人の家じゃないから、別にいいか」と、通路を塞ぐように止められている車の脇をすり抜けて裏の畑へと進むと、なんと今度は畑と道を囲むようにして鹿避け防止の網が張ってあり、行く手を遮っている。なんとか網の下を潜り抜けれるかと思ったが、添え木をしてきっちりと張ってあるので、簡単には抜けれそうにはない。せっかく張り切ってオレンドサマに写真撮りに、‥いやいやお参りに来たのに、ここまで来て万事休すか。

「さあて、これは困ったな。下手に他の家の張った網外すとまずいし、今回は止めどっかな…。いやいや、天気も良いし、せっかくここまで来たのに諦めるなんてな。…よし、別に悪いことしてるんじゃないんだから、たぶんこの畑も隣のМ家(仮名)の屋敷だべから、М家さ行って訳話して、なぞにかして通してもらうべ」

踵を返した私が登り口脇のМ家の裏手の庭先を回ると、ちょうど外に出て来た顔見知りのМ家の奥さんと鉢合わせになった。

「あ、おはようございます」
「あら、S君(筆者本名)なにしたの?」
「いや、大した用事じゃないんだども。実はオレンドサマさ行きたいなと思って来だんだどもね。どうやって行くのかバッパ(※方言でお婆さんの意、この場合は私の祖母)さ行き方聞いだら、ここの間っこの道上がってくって言われだんだども、鹿避けの網張らってでで、行かれくてね…、なぞにか通してもらえねえかと思ってこっちさ聞きさ来たんだども」
「ああそう。オレンドサマさ行きたいんだら、うちがえ(うちの家)の裏っけ通って行けばいいよ」
「あ、そうですか。すみませんホント助かったでば」

一度は駄目かと諦めかけたが、これで文字通り、オレンドサマへの道は開かれた。やはり今日は付いているらしい。

「オレンドサマってまだ一回も行ったことなくてね。今日暇できたから、天気も良いし、お参りっこさ行ってみっかと思って…」
「あ〜そうだ、オレンドサマ行くんだったら、私が案内してやっから」
「あ、いや一人でも大丈夫だから。だいたいの場所は聞いてきたし、忙しいべから」
「いいのいいの、私もしばらく行ってなかったし、お正月もお参りっこさ行かなかったから」
「そうでがんすか。んじゃあ‥、お願いすっぺかな」

思いがけず心強い同行が出来たが、正直に言えばたった一人で人気の無い、山深い、しかも曰く付きの名前を持つ神社へ行くのはちょっと怖かった。これで安心して、堂々と神社の内陣も撮ることができる。
今日はホントに付いている。‥いや、余りに調子良く進みすぎている。これはまさかオレンドサマに呼ばれているのか?

「昔は正月になれば、うちのバッパも毎年オレンドサマさお参りさ来たんだずども…」
「そうだね。お正月には辺りの人達どみんなして一緒にお参りっこさ来てだんだけども、今ではあんまり来ないんでねえかな」

冬場なので参道脇の草原は綺麗に刈り払われており、人家か畑の跡だろうか、ところどころに石積みが見える。

「…ブログどかで、こんな地方の神社とか紹介すると。好きな人はけっこう喜ぶんだっけもの」
「あー、オレンドサマの道はこっち」

神社へと続く鬱蒼とした杉林の入り口には、また鹿避けの網が延々と張り巡らせてあり、一人でお参りに来るにはやはり行きにくい場所のようだ。
案内人のМ家の奥さんに参道入り口の網を外してもらい、以外と明るい木漏れ日が差し込む杉林へと足を進めると、左手の木立の向こうに朱塗りの鳥居、そのまた向こうに、生まれて初めて見る御霊神社の社殿が姿を現した。

(後編へ続く)

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立春を過ぎ暦の上では春になったとはいえ、ニュースでは冬の風物詩であるワカサギ釣りの解禁見送りや雪不足など、暖冬の話題が聞こえて来るようになったが、まだ寒も明けていないのに三陸沿岸でも気温がぐんぐん上がり、三月下旬並みの春のような暖かさとなった先月二十九日。

大船渡市内へ父親を送りがてら、例のごとく二時間ほどの空き時間が出来たので、その間に愛用のデジカメを持って、まだ行ったことのなかった大船渡市猪川町にある古刹、長谷寺(ちょうこくじ)を参拝してみることにした。

長谷堂(はせんどう)という小字地名の由来にもなっている、岩手県大船渡市猪川町長谷堂の長谷寺(真言宗智山派)は山号を龍福山と称し、平安時代初期の大同二年(807)。この地に蝦夷征伐にやって来た、征夷大将軍坂上田村麻呂が十一面観音を安置したことに始まるとされる古い寺で、私が長年フィールドワークとしている、越喜来の地名伝説を読み解く重要なキーポイントとなる、田村麻呂に討ち取られたという猪川の金犬(※金猪、龍福、金丈丸、高丸、赤頭とも伝わる)という名の鬼の首の伝説が伝わっている場所なのだが…、これは今回のテーマから外れるので詳しくはまたの機会ということにしたい。

大船渡市で最も古い歴史をもつ寺ということで、もう少し大きな寺を想像していたのだが、実際に訪れてみると境内は意外とこじんまりしている。

何処に車を停めて良いかを聞いてみた散歩途中のお爺さんの話によれば、この寺は現在は無住とのことで、同じ宗派である隣市の陸前高田市気仙町のお寺から月に一回、十四日のご縁日にお坊さんがやって来て本堂と観音堂のご本尊にお経をあげているそうだ。

なるほど、本堂裏の庫裏は地域の公民館として利用するために最近改装改築したとのことで結構真新しいが、江戸時代中期に建てられたという本堂と田村麻呂伝説縁りの観音堂は、長年の風雪で痛みが目立ち始めている。寺宝である平安末期から鎌倉時代初期にかけて造られた木造十一面観音菩薩立像三躯や、東北地方では最古級といわれる平安後期の様式がみられる如来坐像(共に岩手県指定有形文化財)などが納められる、観音堂脇のコンクリート製の収蔵庫の扉は固く閉じられており、残念ながら拝観は出来ないらしい。

それでも地域の人たちに愛され守られているのだろう。周りにある野ざらしのお地蔵さんたちは皆真新しいお揃いの赤手拭いでホッカブリをして、暖かそうな手編みの赤い毛糸の帽子をかぶった方もいらっしゃる。庭木はきちんと剪定され、掃除も行き届いているようだ。

「こんにちはー」
「あっ、こんにちは。今日は暖かくていい天気でがんすね」

写真を撮っていると、気持ちの良い春のような暖かな陽気に誘われてか、近所の人たちが入れ替わり立ち替わり参拝にやってくる。
創建以来、災害や戦禍などにより何度も衰運の憂き目を見たと聞いていたが、無住となっても観音様への信仰が今も生きているんだなあとしみじみ実感した。

「観音様さ、今日も悪いこと考えずに過ごせやんしたって、拝みさ来てんのす」
参拝にやってきた話好きそうなお婆さん(無論初対面)と、観音様やお地蔵さんについて雑談を交わしていると、「あそこのお地蔵様の上さ在るのが稲荷神社で、その隣にあるのが山の神様。昔は上さ迄上がってお参りっこしたんだども、今で脛(すね)痛くて上がられねえがら、こっから拝むんだよぉ」と本堂裏の小高い山の斜面に祀られている木造りの小さな祠を指差した。

稲荷神社と山の神様とのことであったが、下からは一社しか見えない。観音堂の裏手を回って近づいてみるとお地蔵さんの脇に祠までの登り道が見える。
せっかくだから祠の傍まで寄ってお参りしようと、三メートルほどの高さの崖際に祀られている祠に向かって登り始めたが結構きつい上り坂だ。しかもサンダル履きで来たので足元が滑って登りづらい。
神様の祠というのは仏様と違い、山の頂や森の奥、海岸の岩礁の上といった、人間がおいそれとは近づけないような高いところに祀られているところが多く、原始的な自然崇拝を偲ばせる。
「さすがにこの急斜面じゃ年寄りが昇るには危なくて無理だべな。それにこの高さ、これで落ちて怪我したら笑われっぺな…」と思ったが、目的の祠はもう、すぐ目の前だ。転ばないように慎重にカメラを構える。

「祠(ほこら)」は「ほくら(神庫・宝倉)」の転訛と言い、その起源は仏教伝来まで遡るとされる。社殿を模った木や石で作られた小堂の中に、神体となる御札や御像を祀ったものが多いが、祠自体を神霊の依り代とするものも少なくない。
よじ登ってみると木で作られた大きめの祠、それとその脇に「山ノ神」と刻まれた小さな石の祠が寄り添うように祀られていた。すると木で作られた祠の方が稲荷神社。祠には真新しい〆縄と赤手拭い、そして開け放たれた小さな扉の奥の暗がりの中に、お稲荷さまの神使である焼き物の白狐が幾つも並んでいるのが見えた。

祠の撮影を終え、転ばないようにカメラをポケットにしまって慎重に降りてくると、初めは気付かなかったが、馬頭観世音の石塔の後ろに小さく白い物が見える。よく見ると欠けた焼き物の白狐の首だ。何らかの拍子で上の稲荷の祠から転がり落ちて、割れたかしたんだろうが、恐らく誰か先に見つけた人が誤って踏み潰されないようにここに置いたのだろう。なんとなく気になって写真を撮ったのが三枚目の写真である。始め、可哀想だから祠の中に戻しておこうかな…、と考えたものの、盗んだと思われてもいやなのでそのままにしておいたのだが、後でやっぱり戻しとけばよかったかなと気になった。

この長谷寺は越喜来の地名伝説がらみの話なので、まだUpするつもりはなかったのだが、撮って来た稲荷神社と山の神様の祠の写真をパソコンで眺めていてふっと思い出したように書きたくなった。そして、たぶん偶然に過ぎないんだろうが、今日の朝刊を見てその理由が何となく解った。

ああ、そうか今日は初午か…。また暇ができたら行くつもりだから、もしその時、まだお前さんが同じ場所にいたら、仲間と一緒の場所に戻してやっから、それまで大人しく待ってらいよ(^−^)

新聞の四コママンガが今日二月六日が初午(はつうま)、お稲荷さんの御縁日であることを告げていた。

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西寄りの風、海上では北西の風がやや強く、粉雪が舞い散る小正月の朝。

窓の外を見れば、薄暗くなった上甫嶺(かんぼれい)の山間から下ろしてきた雪の白が、何度も越喜来湾を覆い隠す。
まだ、取り換えていなかった車の普通タイヤを、スタットレスタイヤに交換しに行ったら、馴染みのお地蔵さまたちが、河内(かわうち)から吹き下ろす雪交じりの風に晒されて、寒そうにしていた。
お地蔵さまには悪いが、お地蔵さまにうっすら積もった雪の白に、赤い布のよだれ掛けとほっかぶりの対比が綺麗だったので写真を撮らせてもらう。

帰りのついで、去年新築したばかりの浪板にある叔父の家に昨日搗いた餅をお供えに。
まだ社の入っていない神棚にふたつ重ね餅が並んでいる姿はちょっと不自然?。

お昼過ぎ、今夜食べる餅をまた搗く。今日は手間をかけて胡桃餅(くるみもち)を作る。
去年買った新しい餅つき機は、蒸す、搗く、捏ねるの機能が付いているので、とても簡単。
昔から、下ごしらえや搗きあがった餅を手で丁寧に丸めるのは女の仕事。
固い胡桃の殻を金槌で割ったり、胡桃の実をカァラケ(擂り鉢)で擂るのは昔から男の仕事とされている。
昨日のうちに綺麗に殻を選り分けた胡桃の実を摺り漕ぎ棒で搗いて潰し、擂り鉢に胡桃の油がにじむくらいよく擂ったものに砂糖、醤油で味を付け、湯、または緑茶でのばして出来たタレに丸餅を和えたのが胡桃餅で、小豆餅と共に祝い事や仏事などにも供される御馳走だ。
最近はスーパーなどでパック入りの中国産の胡桃の実が売られていて、そちらを用いる方が安くて手軽なのだが、やはり胡桃餅には天然の鬼胡桃の方が風味も良く、美味しく仕上がる。

そういえば、眼鏡を海に落として私は見てなかったが、胡桃餅といえば、元旦にやっていた「秘密のケンミンSHOW」(日本テレビ系)で、大船渡市出身の新沼謙治が、三陸沿岸に住む岩手県民は、雑煮の餅をクルミダレに付けて食べるとか紹介していたらしい…。
一応、私もそんな食べ方、ずいぶん昔見た記憶はあるけど、年寄りぐらいしかやってないんじゃないかな、たぶん。

雪も小止みになり、天空が開けて太陽がオレンジ色に輝く夕方。

父親と一緒に桟橋に下がる際、祖母から風呂敷包みで持たされたのはお供え用の小さな重ね餅三つと小瓶に入った御神酒。それと一緒にビニール袋に包まれたのは、小正月などに大漁と航海の安全を祈願して船に掲げる三枚の富来旗(大漁旗)。

ちなみに、三陸沿岸の漁師たちが大漁旗のことをフライキ(富来旗)と呼ぶのは、英語のフラッグ(flag)に由来するんだとか。

大晦日から正月にかけて揚げる所もあるが、越喜来の浦浜や泊地区の場合は小正月の十五日から十六日にかけて大漁旗を持ち船、または自宅や番屋の庭先に掲げるのが一般的。

奇数枚の旗を掲げるのが仕来たりとされ、旗を揚げる順番もきちんと決まっている。
一番上に掲げるのは、白地に赤く日章旗(日の丸)。
二番目は、赤地に自分の船の名を白く染め抜いた船名旗。
一番大きな三番目は、目にも鮮やかな色取り取りの大漁旗。

民俗学的考察をすれば、大漁旗を揚げる青い笹の葉を天辺に残した竹竿は、神霊の宿る依り代であり、それに船名の付いた旗を掲げるのは、合戦に出陣する武士の旗指し物と同じで、神様に自らの船の名を誇示するため。小正月に旗を揚げるのは、恐らくは冬の枯れ木に餅で作った花実を咲かせて豊作を祈願する餅花と同様に、豊漁の際に大漁旗を掲げて帰港する船を模し、今年一年の豊漁を願った予祝儀礼か。

この漁業習俗も今では行う人も少なくなったが、浜に降りてみるとちらほら旗を掲げている船も見える。
雪交じりの風が吹いているので、今回揚げるのは略式で船名旗一枚のみ。本来は十六日の夕方まで掲げるのであるが、明日も早くからホタテ出荷の仕事なのでその前に下ろしてしまうことになる。

旗を掲げ終わると父親がオフナダマ(御船霊)が納められるオモテのタツにお神酒をそび、そび、ばびの要領でかけて清め、二拍手。私も桟橋からオフナダマを拝する。家から持ってきた餅は船の中へ…、あっ!、餅と一緒に納めるオヘソク(御幣束)忘れた。

テンマ(※伝馬船・磯用の小舟)も同様の要領でオフナダマを神酒で清めて餅を供え、あとは船曳場のオエベス(恵比須)サマに御参り。以前はこの時、オエベスサマの前の松の枝に大漁満足や海上安全、家内円満の願い事を書いた赤手拭いを結んで奉納していたんだけど、我が家も何年か前に辞めて今では納める人もいなくなってしまった。

山向こうに陽の光が隠れようとしている。最後に牡蠣長屋の神棚に餅とお神酒を供え、あとは我が家の神棚と仏壇に餅と御神酒を供えて小正月の恒例行事は終わり。

今日の夕飯は、さっき摺った胡桃ダレに丸餅を和えた胡桃餅と、もらいものの牡蠣と豆腐のお吸い物に、冷凍して保存していた去年獲った鮑の刺身。

盃に注いだ御神酒を供え、神棚を見上げると、去年私が買い集めたアンティークの恵比須様たちがニコニコ顔で笑っているのが見える。

来年も無事に小正月を迎えられるといいな。あ、来年はこそはブログ用にうちのミズキダンゴも復活できればいいんだけどなぁ…。そんなことを考えながら一礼した。

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