日々是不思議也

過去の記事に、新たに撮影地名や当時の未公開写真等を一部追加致しました。震災で失われた貴重な風景もありますので、ご覧ください。

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赤銅色の月

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これは、私の地元である岩手県大船渡市三陸町越喜来地区で、本日二十八日午後八時ごろに観測された皆既月食の写真。
今日は早朝から雨模様だったので、六年ぶりとなるらしい皆既月食は見れないのではないかと思ってたんですが、何とか晴れてくれましたね。いつもと比べて今回文章は短めですが、せっかく夜蚊の来襲に耐えながらデジカメで撮影したので、今宵のうちにと早速掲載してみました。

それにしても、うーん・・・お化けによく似合いそうなお月様ですねぇ。そういえば、ホタテ出荷のため、まだ真っ暗な海に出ると真っ赤に輝く月が昇っていることがありますが、あのシルエットになった山の稜線と漆黒の海の組み合わせはなかなか不気味です・・(仕事中なので、写真撮影しかねるのが残念ですが)。

「月が赤く見えるのは火事の前兆」という俗信があります。空気が乾燥すると埃(ほこり)などが舞い上がり、波長の短い光が埃などに吸収される結果、赤い色が目立つようになるといいます。そのため月が赤みを増すのだそうです。赤い色は、古代中国に発生した五行説(ごぎょうせつ)において火気に属することと、乾燥による火災被害の増加が結び付けられて生まれたと考えられます。

今回の皆既月食は地球が太陽と月の間に来て、地球の陰に月が入る現象ですが。月が完全に見えなくなるわけではなく、今回の写真のように太陽光線によって赤銅色になります。

月は古くから死を司ると信じられた天体である事から、「月食は疫病流行の兆し」など、月食に関する俗信も世界各地にあるようですが、江戸時代の俗信で、何月に月食になるかでその月が占えるというものもあります。

二月の月食は粟(あわ)の値が上がり、人に災いがある。三月の月食は米価が上がる。四月の月食は五穀の値が上がり、人が飢える。七月の月食は翌年、牛馬の値が上がる。九月の月食は年が荒れて凶。十月の月食は翌年、秋の五穀の値が上がる。十一月と十二月の月食は翌年荒れる前兆。

・・・余りいい事無いですね。さて、これを見て今回の八月は?と思った方もいるでしょうが、旧暦だから今日は陰暦七月十六日で、「翌年、牛馬の値が上がる」・・。

うわ!!、また焼肉や牛丼なんかが高嶺の花になってしまうんでせうか・・・・お月様。

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汗と涙と幽霊画

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三陸沿岸は夏でも冷たい海風が吹き込むので全国的に見れば涼しいはずなのに、今年は梅雨明けからの連日の記録的な猛暑でぐったりしていたのだが、寒気の南下と前線の影響で、今日はお盆明けと同時に小雨そぼぶる涼しい一日となった。
今回は「幽霊画」がテーマなので、せめて心霊番組が目白押しのお盆前には更新したかったが、八月も十七日となり、岩手県内の幾つかの学校では早くも二学期の始業式が執り行われたらしい。
暗くなった外では虫が鳴いてるし、もう秋なんだなぁ…。

さて、私も聖人ではないので暑さに限らず、虫の居所の悪い時や落ち込む事も勿論ある。

こんな時は自分の部屋に籠もって、気晴らしに一人静かに好きな音楽を聴くのも一つの手ではあるが、この時、いきなり賑やかな音楽を聴いてもかえってイライラしたりして逆効果なんだとか。むしろ暗いイメージの曲を始めに聞いて、徐々に賑やかな曲に切り替えて行く方が、気持ちが晴れてスッキリするものらしい。(もっとも屋根裏にある私の部屋は、夏ともなれば家の中で一番暑いので余計イライラすること確実なのだが・・)

これと同様の効果でもあるのか、私の場合、いらついて何をしても気乗りがしないときに怪談本や、おどろおどろしい幽霊を描いた掛け軸を集めた本などを書棚から引っ張り出して眺めていると不思議と気持ちが落ち着いてくるのである。

描き表装と呼ばれる、風になびく掛け軸の表具まで絵に描いた騙し絵の技法で、痩せこけ髪の毛を振り乱した女の幽霊が、あたかも掛け軸の中から飛び出して目の前に迫ってくるように見える絵。小雨そぼ降る中に現れた鬼火と、木立の陰に佇む白い着物を着た長い髪の女の幽霊。蚊帳向こうに現れた、痩せこけ青白い顔をしてうつむく、乱れた髪の女の幽霊。男の生首を愛おしそうに抱き締める、鉄漿(おはぐろ)付けた女の幽霊。引き千切った鮮血滴る後妻の生首を手にして、不気味な笑みを浮かべる先妻の幽霊。波間に現れた甲冑姿の武士の幽霊。雲間に見え隠れする満月と柳の枝葉があたかも髪の毛を振り乱した人間の横顔のように見える絵。女性器を擬人化した幽霊。下半身を血に染め幼児を抱く産女の幽霊の絵など‥、お馴染みの『東海道四谷怪談』や『真景累ヶ淵』、『牡丹燈籠』といった講談や歌舞伎、落語など、古典を題材にしたものや画家の創作の幽霊たちがおどろおどろしくもどこか儚げに眼前に展開する。

テレビのコントやお化け屋敷など、今日では古臭い印象になってしまった感があるが、日本で一般的に幽霊といえば、柳の木の下に佇む、白い着物に額に三角形の布を着け髪を振り乱し、両手を胸の前にだらりと垂らした足の無い姿がイメージとして定着している。

日本の幽霊のトレードマークとも言える額当ての三角の白布(もしくは紙)は、「額烏帽子(ひたいえぼし)」「紙冠(かみかぶり)」「宝冠(ほうかん)」「紙烏帽子(かみえぼし)」「卍布(まんじぬの)」などと呼ばれ、元々死者の顔を隠す「顔隠し」の変形といわれる。

今日でも、亡くなった人の顔に白い布を被せたり、白い着物を着せたりするのは、白い色が純粋無垢に繋がり、死者の霊魂を浄化し、死の穢れを祓う力があるとされたためだという。
また、平安時代の陰陽師たちが悪霊祓いの儀式の際に「魔除け」として使用していたともいわれ、当初は黒い絹の三角巾を用いていたが、死者が地獄の悪鬼から逃れるようにと江戸時代の末頃から白い紙製の物を用いるようになり、葬儀の際にも、災いを為す死霊から逃れるために故人と同様に遺族や参列者までも着用するようになったという。

三角の図形は女陰(女性器)を表すともいわれ、古くから魔除けの象として世界各地で用いられており、日本でも古墳時代の石室の壁画などの装飾などにも見られる。なお、三は完全数で神聖な吉数であるが、これを忌む俗信も少なくない。

近年まで日本でも火葬より土葬が一般的だったが、遺体を収める棺桶は現在のような寝棺ではなく、木の桶や素焼きの大瓶に体を小さくしゃがませて納める座棺で、この時、数珠を持たせた両手を合わせて合唱させるのだが、死後硬直が解けると手は前方にだらりと下がる。つまりお馴染みの幽霊のポーズは墓穴より出現した死者の姿を表しているのだという。

伊弉諾、伊弉冉の神話に見られるように、古代の人間は死者の復活を非常に恐れていたといわれ、死者が迷い出ぬよう体を組み紐できつく縛ったり、遺体の上に大石を置いたりしたのが現在のような墓石に変化したのだともいう。医療が現在のように発達していなかった時代、一度死んだはずの人間が蘇生することも少なくなかったと思われるが、その際に脳に障害が残り人格が一変してしまう事もあったのだろう、それを恐れてか、一旦蘇生したとしても打殺して再び埋葬したという例も幾つか伝わっている。

さて、妖怪と違って幽霊は足もしくは下半身の無い姿で描かれる事が多いが、大阪府守口市の来迎寺には幽霊がお礼に残していったという幽霊の足跡なるものも伝わっているし、現代の幽霊譚にも上半身は見えず足だけが歩き回っていたという話も少なくない。

俗に足の無い幽霊の絵は、江戸時代中期に活躍した有名な絵師、円山応挙(まるやまおうきょ)に始まると言われている。真偽の程は定かではないが、伝説によれば、ある晩応挙がふと庭先を眺めると、髪を振り乱し白い着物を着た女の幽霊が佇んでいた。早速絵筆を取って描き始めたが、急いでいたので足を描くのを忘れてしまったのだという。また、病弱であった妻の影姿が障子越しに写ったのを見て、足の無い幽霊の絵を思いついたとも言われ、応挙の描いた足の無い(下半身の無い)幽霊の絵が余りにも美しく、理想的であったため、以後足の無い幽霊の姿が定着したという。

足の無い幽霊の絵が出現した時期については諸説あるが、当時の文献にも「足の無い幽霊はいつごろから出来たのかというと、これは近く円山応挙により起こったものである」とあり、かなり早い時期から足の無い幽霊のイメージが定着した事が分かっている。民俗学では、幽霊に足が無いのにもそれなりの理由があり、お盆や正月に帰ってくる先祖の霊、祖霊はカミであるから、足があるとしても地面に直接足をつけない。地面に足をつけないことでカミとしての神性を保っているのだという。

タダ同然で手に入れた応挙の幽霊画を高く売りつけることに成功した骨董屋が、突然掛け軸の中から飛び出してきた女の幽霊と酒盛りをする落語「応挙の幽霊」に代表されるように、幽霊画といえば円山応挙の名が真っ先に上がる。だが、世に応挙の描いた幽霊の図と伝えられるものは数多くあれど、応挙が実際に描いた事が確実視される幽霊画は確認されておらず、応挙の真筆に限りなく近いと考えられている、米国カリホルニア州カリフォルニア大学バークレー美術館所蔵の丸山(円山)応挙の書名落款のある物の他、青森県弘前市久遠寺に伝えられる無銘のものなど僅か数幅に過ぎないらしい。

では偽物が出回るぐらい、一見すれば悪趣味とも思える幽霊の絵が数多く作成されたのはなぜなのか。
江戸時代、庶民の間で怪談を語る会、所謂「百物語」が流行すると、その余興として床の間に掛けられたのがこれらの幽霊画だったという。また、幽霊を描いた掛け軸は泥棒除けの呪いに用いられ、男性が出かけている時は男の幽霊を、女性が出かけている時は女の幽霊を描いた掛け軸を床の間に掛けて置くのだと言う。効果は不明だが、知らずに忍び込んだ泥棒が、床の間に掛けられた幽霊の絵を見て驚いて何も盗らずに逃げだしたという事が実際にあったのかも知れない。

今ではそのような俗信も忘れ去られ、その画題の陰湿さから崇りなどを恐れて、多くがお寺に預けられたり処分されたりしている。

生憎私も、テレビや本以外で実物は見たこと無いが、「応挙の幽霊」に登場するような美人で茶目っ気のある幽霊ならともかく、おどろおどろしい幽霊の絵を枕元に掛けて寝る勇気は毛頭無いし、その類の本も読み終えた後は早々に書棚にご帰還頂く。

しかし、これら幽霊画を見て、どうしてこんな絵でも気持ちが落ち着くのかなと考えているうちに、「ああ、これは仏様を描いた仏画と同じなんだな…」と気がついた。

この事を裏付けるかのように幽霊画にまつわる次の伝説がある。

熊本県人吉市土手町の曹洞宗永国寺は別名幽霊寺と呼ばれ、寺の開山である実底上人の直筆という一幅の幽霊画の掛け軸が伝わっている。
室町時代の初め頃のこと。この寺の近くに住んでいた近郊では名の知れた武士の側室が正妻の嫉妬に苦しみ、球磨川に身を投げて果てるという事件があった。
怨みを残して死んだ側室は、その後亡霊となり、今度は正妻を責め、苦しめた。正妻は堪らず、永国寺の実底和尚の法力を頼り、亡霊の調伏を祈願する。
そこで和尚は、本堂裏手の池に出現した側室の亡霊の醜く変じた姿かたちを書き取り、その画像を霊に示す事で、怨念を抱く事の醜悪さ、浅ましさを解らせようとした。掛け軸に描かれた自分の醜さに、亡霊は和尚に引導を渡してほしいと懇願、成仏する事が出来たという。

また、山口県下関市観音崎町の臨済宗永福寺にも寺にまつわる一幅の幽霊画が伝わっており、江戸時代の中頃、この寺の門前に暖簾を構えていた海産物問屋の、結核で若くして病死した一人娘の亡霊が、死後、寺の住職である玉雲和尚の枕辺に現れて、両親の不仲が心にかかり成仏できないことを訴え、両親に和合の説教をしてくれるよう懇願した。心打たれた和尚は亡霊となった娘の姿を写し、これを示して両親を諭した。父母は深く感じ入り、以後は仲睦まじく過ごしたという。

そういえば、幽霊の絵を眺めていると、いつも思い出す出来事がある。

私が高校生の頃であるからもう十年以上も前、盛岡で行われた剣道の試合の帰途のこと。発車時間までまだ間があったので、盛岡のバスセンターの待合室で買って来た本でも読もうと、空いていた椅子の隣に居た、髪を丸髷に結った着物姿のお婆さんに「横いいですか?」と声を掛けたのだ。
私の声に気付いてふっと私の顔を見上げ、眼の合ったお婆さんの顔の異様な姿にギクリとした。
片目を覆い隠さんばかりの瞼の上の大きな紫色の瘤、それはまるで四谷怪談に登場するお岩さんを髣髴とさせるもので、一瞬それを見た私の血の気が引くのが判った。
すると、それを察したかのように黙ったままお婆さんはプイと横を向いてしまった。私も押し黙って椅子に腰掛けたのだが、すぐにお婆さんがどこかへ行ってしまうと、途端に後悔の念がこみ上げてきた。
お婆さんに声を掛けた事にでは無い、お婆さんの面容ぐらいで動じてしまった自分にである。
おそらくこのような経験をしたのは私だけではないであろう、だが、たとえ一瞬に過ぎないにせよ、自分もそんな態度を取ってしまった事、お婆さんはそれを知って目を背けてしまったであろうこと、それが察すれば、察すれるほど自分が堪らなく恥ずかしかった。

昔の話である・・、考えすぎかもしれない。でも、そう思って改めて幽霊画を見ていると、幽霊画のおどろおどろしさは、人間の心の中にある憎しみや妬み、怒り、悲しみを映し出す鏡のようであり、また、幽霊に足が無い。即ち「足が地に着かない」とは気持ちが高ぶって落ち着かない様を表している言葉なのだ。

以前ブログで触れたように、私は子供の頃からお化けを見るのは嫌いである。子供の頃の私だったら幽霊の絵なんて見ることも近づく事もしなかったであろう。
でも今現在、私が幽霊の絵を見ていて怖いというより、むしろ愛らしささえ感じてしまうのは、私が大人になったからなのだろうか、それとも…。

ふと気付くと、自分の中にあったモヤモヤやトゲトゲした部分がなんだか馬鹿らしく思えてきた。

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夢か現実か‥?

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昨年の話。
豊臣秀吉と徳川家康の区別もロクにつかなかった我が妹が、エジプト考古学・・というかエジプトの神話に興味を持ったみたいで、別の用事で盛岡に出かけるかたわら、せっかくなので暇な開き時間を利用して、岩手県民会館で開催されていた「ドイツ・ヒルデスハイム博物館所蔵 古代エジプト展−蘇る5000年の神秘」に二人で行ってみることにした。

こう書くと私がエジプト文明に余り興味がないように見えるかも知れないが、とんでもない。

二十年以上前のことなのでエジプトだったのかマヤだったのか記憶が定かではないが、まだ私が小学校に上がったばかりの頃、仲の良かったアメリカ帰りの友達の家に貼ってあった、東京の大手デパートで開催されていた古代文明展の人形や土器をあしらったなんともいえないエキゾチックなポスターを見て、子供心に衝撃を受けた私は、自分もこれらを直接見てみたいと本気で思ったものの(もしかしたら目的はポスターの方だったかも知れないが)、海苔や若布などの養殖の仕事が忙しくまだ東北新幹線も開業したばかりの当時としてはその願いが適うはずも無く、海外旅行など夢のまた夢であった私にとって世界各地の神々は図書館の本やテレビのブラウン管を通じてしか見ることが出来ない存在でしかなかった。

まして今回の岩手での展示会に、本物のミイラまでもやって来ると聞けば私の中のオカルトの蟲がうずくのは当然で、降って湧いたような盛岡行きの用事と最近の妹のエジプト志向は、私にとっては良い口実、まさに渡りに船の出来事であったのだ。

さすが盛岡というか、なんというか、平日であったにも関わらず展示会場は結構な人手で、落ち着いてじっくり鑑賞するというにはやや不向きではあったが、それでもエジプト神話に関しては私より知識を付けて来た妹のウンチクを聞きながら、普段は写真やテレビなどでしか見ることの出来ない古代エジプトの貴重な出土品と神像に間近に接することが出来たので結構楽しめた。いや、一緒に見に行ったのが恋人では無く、実の妹だというのが若干不満ではあったのだけども・・。

「目的のミイラが居無いなぁ‥」と思っていると展示品が途切れて順路は地下の会場へと続く階段へ。先に進む妹を目で追いながら非常灯の明かりに照らされた薄暗い階段を降りて行く時、ふと奇妙なことに気付いた。

「ありゃ?気のせいかな・・・、この階段を下りてこの踊り場を曲がると広い空間に‥」

階段の踊り場を曲がると、階下にエジプトの冥界をイメージした青いライトに照らされた広々とした空間と、白壁にプロジェクターで投影されたエジプトの古代遺跡の巨大映像が私の眼前に広がった。

思い付いてから時間はそれほど経ってはいなったが、その光景を見た時、私の中にあったもやもやとしたものが一気に確証に変わった。

「あ!この場面前に一度夢で見たことあっぺっちゃ!!」

見学者も少なくない所、さすがに口には出さなかったが、この大きな白壁に投影されたエジプトの神像、白いコンクリートの柱、青いライトで照らされた薄暗い空間、確かに以前夢の中で見た空間だ。なんとなく前に見た事がある景色というのは時々あるが、ここまではっきり一度体験したことがあるという感覚は初めてだったので、正直自分でもビックリ。これが噂に聞く「デジャブー」とかいう奴なんだな・・と思うと、ぞわぞわっと全身が総毛だった。

実際は一度も体験したことも無いのに、既にどこかで体験したように感じることを既視観(きしかん)、フランス語でデジャヴ、デジャブー(Déjà vu)という。

インターネットで調べてみると、一般的な既視感は、その体験を「よく知っている」という感覚だけでなく、「確かに見た覚えがあるが、いつ、どこでのことか思い出せない」というような違和感を伴う場合が多いらしい。

「過去の体験」は夢に属するものであると考えられるが、多くの場合、既視感は「過去に実際に体験した」という確固たる感覚があり、夢や単なる物忘れとは異なるという。

過去に同じ体験を夢で見たという記憶そのものを、体験と同時に作り上げる例も多く、その場合も確固たる感覚として夢を見たと感じるため、たびたび予知夢と混同される事もあるが、実際にはそうした夢すら見ていない場合が多く、別の内容である場合も多い。

なお、既視観は総合失調症の発病の初期や側頭葉癲癇の症状として多く現れることがあるが、健全な人に多発することも稀ではなく、一般的な感覚であるという。

目的のミイラも見ることが出来た、お土産も買った、でも夢の光景と現実の光景との突然の一致が頭の中を離れない。

会場を出る時、妹に「なんとなく夢ん中で、ここ(※古代エジプト展)さ来た事あるような気がすんだけど・・・」と言ったら、「私も高校の時に文化祭で(※岩手県民会館に)来たことあっから、来たことあんだべど」と一笑されてしまったが、中高とも運動部だったので県民会館に来たのも初めてのはずなので、仕事してきているから疲れてんのかなと思ったものの、なんとなく腑に落ちなかった・・。

今でも、あれは気のせいなんかじゃなく予知夢かも知れない、この世ならざる物事には縁遠い、数少ない私の不思議体験なんだと自分では思っているのであるが・・・このブログを書いていても今一つ確証が持てないでいる。

さて、今夜は七月七日で新暦での七夕。梅雨の最中にも関わらず青空が広がったので、珍しく七夕の夜に天の川が見られそう。寝る前に星空を眺めながら、織り姫と彦星がかささぎの橋を渡って逢瀬を重ねる姿を想像しつつ、暖かな布団でまだ見ぬ恋人とどこか素敵な処へ出かけるロマンチックな夢を見ようかなぁ…、明日も二時半起きだけど、ファー‥ア、寝む(mー_ー)m.。o○ zZZZ 。

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帰らぬ猫 (後編)

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クースケ(仮名・♀・四歳)がいなくなって二日目、いつもの様にホタテの耳釣り作業が始まったが皆どことなく調子が出ない。
「一体どごさ行って死んだんだか…」、「せめて家の中で死んでれば良かったのに」
家の中で諦めムードが漂っていた。

以前ブログでも触れたが私は怪談は好きだが、実際に幽霊が視えるのは勘弁してほしいと思っている人間である。でもこの時ばかりは私も、幽霊でもいいから姿を見せて、せめて亡骸のある場所ぐらい教えてほしいと口には出さぬけども心底思っていたのである。

猫の寿命は平均十数年と言われているが、中には二十年以上も生きる猫もあるという。
猫は最初の一年間で人間の二十歳ぐらいに成育し、その後は一年毎に人間の四年分ずつの位の年齢を加えていく。するとクースケは四月の末に満四歳を迎えたから人間で言うと二十六歳位に相当するわけだ。
クースケの前にも猫は何匹か飼っていて、なかでも印象に残っているのはクースケの姉で僅か七ヶ月の命であった三毛猫のマメ(本名・♀)である。

鼻炎でも患っていたのかいつもグスグスいっていたが、運動神経がよく、顔の前で寝るとっても甘えん坊の猫だった。

マメが死んだのは、もうすぐ冬という十一月の始めであったと記憶する。

ひどい下痢が続き食欲もなく、衰弱する姿を見兼ねて私と父親が一緒に動物病院へ連れて行こうということになった。

実を言うとその時まで動物病院というものには関わったことは無かった。

馴れない点滴にマメは暴れた。その時の獣医の先生の言葉によれば、親猫と一緒に暮らしているから不安でなかなか落ち着かないのだという。

それでも何度か点滴を打ってもらい、好物の焼きイカにパクつくマメの姿を見て食欲も出てきたと思い安心し、翌日点滴へ行かなかったのがいけなかった。

下痢を再発し、明日もう一度病院へ連れて行こうとして、逃げないように猫用の寝床のある納屋の中へ閉じこめておいたのだ。

「明日病院へ連れて行ってやっからな。大人しくしてろよ」そういって電気を消し戸を閉めた時の私を見るマメの眼差しが今も印象に残っている…。

納屋の床下で硬く冷たくなったマメの姿が見つかったのはその翌朝のことである。

我が家の猫は死ぬと海岸の砂浜に埋めることになっている。マメの亡骸は愛用の黄色い猫じゃらしと共に他の猫と海岸の砂浜に埋められた。

生きとし生けるもの何れは朽ちる運命である。それは猫も私も同じ、そして同じ生在るものを食べなければ生きて生けないのもまた運命である。

また毎日多くの犬や猫達が保健所などに持ち込まれ殺処分されているという現実もある。

「愛するぺット、いや家族に生きていてほしいのは皆同じ、それはもしかしたら人間のエゴなんじゃないのか…、でもクースケは生まれてまだ四年」そんな思いが頭から離れなかった。

その日の仕事が終ってご飯を食べていても、パソコンをいじっても、テレビを見ていても、本を読んでもなんとなく落ち着かないので、ポケットの財布から百円玉を一枚取り出し、「百円玉の表が出たら猫は生きている」と念じながら上へ放り上げた。

単純なコイン占いで猫の生死を賭けられても困るだろうが、気休めに過ぎなくてもやっているほうは真剣である。もし裏が出たらどうするんだかと言われればそれまでだが‥、その時は表が出るまでやる。ここまで来るともう呪いである。

恐る恐る手を開いてみると、桜の模様、表…生きていると出た。
ほんのちょっとだけ、ほんとにちょっとだけ安心したが、でも、もう二度とやる気はしなかった。

この日も夜九時を回ったが猫は帰って来ない。翌日も朝早いのでそろそろ寝なければいけないが、ふと窓を見るとセンサーで反応する庭の灯りが点いている。猫がもしかしたら帰ってきたのかと思って外を見てみると妹が猫が帰って来ないか探しているのである。

眼が合った外の妹に私の口から「もう諦めろ、明日も早いんだから」と、ついその言葉が出た。体も疲れていたし、何時までも気にしていてはいけないと思った、というより考えたくなかったのだ。外ではケロケロケロというと言うたくさんの蛙の鳴き声が聞こえていたが、どんなに耳を澄ましてみてもこの日私の耳にクースケの鳴き声は遂に聞こえなかった・・・。




午前三時半の目覚ましが鳴り、普段より眠い気のする眼を擦り、明るくなってきた外の景色を眺めながらボーっとしていると、いつものように仔猫のミースケ(仮名・♀・生後十ヶ月)がやってきて愛用の玩具のネズミで遊び始めた。

父親も起きてきて「猫は?」と聞く。クースケのことだと思い「今ミースケそっちゃ行ったべっちゃ」と私がぶっきら棒に言うと、「クースケ、ゆんべ(昨夜)外から家さ帰って来たっけ」という。
「ゆんべ外でねごの声が聞こえだからって窓明けだっけ、入ってきて缶詰(猫用)食せでどっかさいなぐなったっけから、どこかで寝てんだべ」という。

後で聞いた話になるが、午前一時半に外で小さく猫の声がするので、「クースケ帰って来たんでねえ?」と廊下のサッシを開けたところクースケが一目散に家の中に入って来て猫缶を貪るように食べ始めたのだという。そのとき家の中はクースケ帰って来たと騒いでいたらしいが、家族の中で私だけは二階の部屋で鼻いびきをかいて寝ていて全然その騒ぎに気付かなかったのである。

そんなことを全然知らない私は、クースケが無事帰って来たと聞いてホッとしたが、クースケの姿を直接見たわけではないし、まだ起きたばかりでもあったので、父親が寝ぼけて夢とごっちゃになってるのではないか、もしくは幽霊でも見たのではないか、じゃあクースケが最後の別れに来たんではないかと疑っていた。

二時間後、桟橋で水揚げしてきたホタテ稚貝の篭空け作業中、父親が思い出したようにまたクースケが無事帰って来たことを言ったのを聞いて、そこでやっと「そうか、クースケが無事帰って来たんだな」と安心したのである。

いつものように家の作業場でホタテの耳釣りが始まったが、まだ帰って来たと言うクースケの姿が見えない。午前七時になって、ご飯だと呼びに来た妹に「幽霊でねえべなあ、猫にちゃんと足あったっけ?」と聞く。「ちゃんとあったっけぇ」という。すると母屋の勝手口から出て来る見慣れた猫の姿が見えた。少しやつれた様であるがまぎれもないクースケである。

「ほんとにクゥースケの幽霊でねえべなぁ、ちゃんと足あったっけ、頭さ三角の布付けてねえっけ、背中さ羽はえだり、頭の上さわっか付いてねえっけ、体の向こう側透けてねえっけぇ(笑)。ちゃんとご飯食ってだっけか?。飯かんねえようだれば病院さ連れでがねえばなんねえから…」その日は妹に同じことを三度も聞き返したが、なんとなく仕事の疲れが飛んだような気がした‥。

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帰らぬ猫 (前編)

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燕が餌を求めて飛び交う姿が目に付くようになってきた。

訪問者も日に日に少なくなってきたので、そろそろブログを更新しなきゃと気ばかり焦っているうちにもう六月、今年もすでに半分過ぎ去ろうとしている。

東北地方はまだ梅雨入りこそしていないもののブログのネタが枯渇した訳ではない。

五月、六月は一年のうちでもホタテの稚貝を穴を通して沖に吊るす耳釣り作業や三陸の珍味であるホヤの出荷、草刈りなど色々と忙しい時期でもあるのだが、前回の更新から今日までの約三週間の間にも、

夜中に私の部屋の前で「ぎゃーん、ぎゃーん」と狐が鳴いていたのに誰も気付かなかったこと、

仕事中桟橋へ行くために軽トラックを走らせていると、道路の側溝の穴からアナグマが顔と前足を出していたこと、

桟橋で仕事をしているといつも同じ野良猫が魚をせびりに来ること、

家で仕事をしているといつも同じ猫と烏が魚をせびりに来ること、

船で沖に行くといつも同じウミネコが魚をせびりに来ること、

中国の大連から来た視察団がホタテ養殖施設を見学していったこと、

妹が体長五十センチのマガレイを釣り上げたこと、

道を毛虫が這っていたこと、

台所にゴキブリがいるかも知れないこと、

晴れ渡った空に入道雲が涌き上がり雷が鳴ったこと、

家の入り口で蛇と烏が格闘していたらしいこと、

ブログ用の原稿や写真を頑張って用意していたのに、文章力の無さで更新が遅れてすでに時期はずれになってしまったことなどと様々あったのだが、
そんな中、うちの愛猫・クースケ(仮名・♀・四歳)が行方不明になってしまった。

草を食べて溜まった毛玉を吐き出すなど、猫が吐くのは珍しいことではないが、クースケが居なくなる二、三日前から食べて直ぐに吐くことを繰り返したりしていたので、掛かり付けの動物病院で点滴と消化不良のための注射を打ってもらって「これで大丈夫だろう」と少しは安心していたのだが、あまり食欲もなく、その次の夜は夜十時を過ぎるまで家に帰ってこなかった。また吐いたらしいので、念のため翌日もう一度猫を病院へ連れて行こうとしたのだが、朝には確かにいたはずのクースケがどこへ行ったのか姿が見えない。

昨年の春クースケがウイルス性呼吸器感染症(猫風邪)という病気を患った時、たぶん注射がいやで納屋に隠れていたのを探し出して無理やり連れて行った前例があるので、「クースケの奴、今日も病院に連れて行かれると思って逃げたな」と思っていたが、日が沈んで暗くなっても、私が寝る時間になってもその日はクースケは帰ってこなかったのである。


一年で10cmほどに成長したホタテの稚貝に、専用の機械で小さな針穴を開け、ロープに挿したピンに取り付けて養殖する「耳釣り」と呼ばれる作業のため、空が白み始める午前三時半に起床しているのだが、普段なら私が起きて二階の部屋から階段を下りてくる足音で、待ってましたとばかりにやって来るクースケの姿が見えない。クースケの子供であるもう一匹の飼い猫・ミースケ(仮名・♀・生後十ヶ月)が暗がりのなかからトタトタと言う足音とともに、まだ寝ぼけ眼の私の足元を一回りしたあと何も言わずまた向こうへ走り去って行った。

起きてきた父親が「クースケ帰ってこねぇが」と一言つぶやいた。

私は返事をしなかったが、当然のように「どごがで死んでいるのでは」と言う思いが頭を過ぎった。

「猫は死期を悟ると姿を隠し、飼い主にも骸を見せない」という俗信は広く知られている。

クースケが帰ってこないことは以前にもあったが、その時は別に病気をしていたわけではない。でもその時も家の皆は「車に引かれたんでねぇか」「誰かさ連れて行がれたんでねぇ」「どっかに閉じ込められているんでねぇのか」「もう帰ってこねぇんじゃないか」と最早死んでしまったのが判ったような口ぶりである。

私は極力悪い方へは考えないようにしている。そんなことばっかり考えていると肝心のやらなくてはいけないことにまで支障が出るからだ。

でも、いつもいるはずの、時と場合によっては正直うっとうしくさえ思う猫が側にいないのだ。

猫が家に帰ってこなくなるのは近くの山に修行に行くのだという俗信も各地にある。
有名な熊本県阿蘇山系の根子岳には猫の王がいて、ここに各地の猫が修行に来るのだという。無事修行から帰ってきた猫は位も上がり、仲間内でも一目置かれる存在になるのだという。

私は「大丈夫だべ、猫がいなくなんのはよくある事なんだずから‥」と言ってはみたものの、心の中では「もしかしたら‥」と言う考えが頭から離れなかった。そう諦めかけたのだが、その日の夕方、「お腹へったニャー」とひょっこり現れ台所からの勝手口から家に入ってきたクースケの無事な姿に皆安堵した。



その時は無事家にに帰って来た。だが、今回は前回とは違っていた。クースケは昨日餌をろくに食べてないのだ。

昨日の朝クースケを見た時に捕まえて、家の中から出さないで置いておけば、病院に連れて行って栄養剤を点滴してもらえたったのにと後悔した…。

                            (後編に続く‥)

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