日々是不思議也

過去の記事に、新たに撮影地名や当時の未公開写真等を一部追加致しました。震災で失われた貴重な風景もありますので、ご覧ください。

一月

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正月三箇日の陽も暮れ、猫共と一緒に暖かな炬燵の中で、テレビのUターンラッシュのニュース映像を見ていると、正月休みももう終わりだな…、早かったなーと何時もながら実感しますが、あ、ご挨拶が遅くなりましたが、皆様、明けましておめでとうございます。本年もとうぞ宜しくお願い致します。

昨年の東日本大震災の影響もあって、三陸沿岸の被災地では、なかなか例年通りのお正月とはいかないようですが、私はと言えば、正月一日と二日に掛けて、かねてより撮影に行きたいと思っていた、私の地元、岩手県大船渡市三陸町越喜来に点在する、小泊の八幡神社、浪板の熊野神社、河内の糠の森こと、小出の糠森神社という、三つの民間の小社への参拝を実行に移してきました。

何れの社も深山の奥とはいかないまでも草木の生い茂る山中にあり、正月以外の登拝は蝮や蜂、熊の出没といったリスクが伴うので避けていたのですが、今年は好天に恵まれたこともあり、やっと念願の撮影が出来たので、新春の挨拶に代えて、何部かに分けて御報告と紹介をさせていただきたいと思います。とはいえ、河内の糠森神社に至ってはこの地にまつわる伝説を調べるにあたり、思いがけず新たな謎が噴出してきたりと、今回もかなりややこしいことになってますが、長らく休んでいた《猫淵神社考》再開のリハビリと思ってお付き合い願えれば幸いです。では、新年を飾る今回は、プロローグ編ということで、相変わらず下手糞な文章の上、いつまとめきれるか解りませんが、ごゆっくりお付き合い願えれば幸いです…。


心配されていた元旦の天候も、三陸沿岸は良さそうなので、被災地を照らす初日の出の写真を撮るため、遅くとも朝七時迄には起きて元朝参り(初詣)に行こうと思っていたのですが、前夜、年が替わる時間迄夜更かししたせいか、睡魔には敵わず、用心の目覚まし時計の電子音を何度もスルーして、結局布団から起き出したのは時計の針が午前七時半を少し回ったところ。気温は思ったよりも暖かく、さっさと着替えて、最近ちょっと機嫌が悪くなってきた愛用のコンパクトデジカメを片手に、朝飯の雑煮も食べずに軽トラックに乗り込んだのは、結局いつもガレキ作業に出かける時間とそんなに変わらない午前八時頃。

平成二十四年(2012)元旦の白い太陽は、すでに被災の場を明るく照らしており、狙ったような越喜来湾に昇る朝日の写真はもう無理だろうなとハンドルを握りながら思いつつも、まずは産土神である大船渡市三陸町越喜来肥ノ田の新山神社へと車を走らせた。

この新山神社は、戦前の旧社格では越喜来村社にあたり、境内社として八坂神社を併設する。お世辞にも大きいとはいえない田舎の神社ではあるが、由来沿革は古く、境内に鎌倉時代の末に建立された石塔婆二基(大船渡市指定文化財)、岩手県の有形文化財に指定される、室町時代後期、天文十一年(1542)に奉納された「順礼札」一枚が現存する古社でもある。また、この新山神社に関連する“権九郎”と言う狐の伝説もあるのだが、例の如く、紹介するには余りにも長くなりすぎるので、これらについて詳しく述べるのはまたの機会という事にしたい。

新山神社に御参りに来るのは昨年の初詣以来だが、境内にある大東亜戦争戦没者の顕彰碑や燈籠、石畳、石垣などに震災時の傷跡が生々しく残っている。幸いこの神社は高台にあるため、今回の津波の被害は受けなかったものの、以前このプログでも何度か紹介した、私にとって子供の頃から最も馴染み深い、越喜来漁港のオエベスサマ(恵比寿様)の石祠は、僅かに屋根の部分を残すのみで、傍らの赤松の大木は根元ごと海波によって失われてしまっているし、いづれ撮りに行こうと思っていた、向い側にあった泊漁港の八大龍王尊の文字塔は今も行方が解っていない。この他、大津波により被災各地の神社、仏閣、小祠、路傍の石仏、石塔など沢山の祈りの場が破壊され、失われたという現実は、新年早々、なんともやるせない気持ちで一杯になった。

当初の予定通り、新山神社の境内からコンデジで、越喜来湾の湾口の上に高く昇った太陽を狙ったが、カメラのファインダーがうまく開かなかったり、強い逆光のため平行に撮影できなかったり、他のところをとってもピンボケになったりと、どうも思ったような写真が撮れない。

「う〜む…、去年は結構上手くいったのにな、ま、仕方ないか…。こういう時もあるさ」

気も乗らなかったのでカメラを早々としまい、気を取り直して、拝殿の縁に設置された赤い「おみくじ」と書かれたレトロな自販機に百円玉を入れる。ゴウンゴウンという機械音と共に取出し口にポトリと、少し古いのか包み紙の所々に茶色いシミが付着した御神籤が一枚落ちてきた。

「これで百円は少し高い気もするよな…」

無論これより高額で売られていることが多いのだが、最近は若い女性の需要を見越してか、観光地化した神社仏閣では、開運ストラップなどのオマケが付属した御神籤が売られている事も多いので、恐らく祈祷料とかも入っているのだろうが、紙の御神籤一枚だけというのは、ちょっと損をしたような気分になって、ここ以外では私も余り引かなくなってきている。

「…去年引いた時は“吉”だったな。津波が来た去年より悪かったらどうしよう…(苦笑)」

そんなことを考えながら、おもむろに御神籤を開いてみると、「第九十一番 吉」!?

「改変前途去(ぜんとをかいへんしてさる)前の悪きことも改まりかわりてこれよりしだいによくなるべし(中略)▼このみくじにあたる人は闇夜より月夜になるがごとく心のうれいとけさつてよろこび事にあうなりたゞしおよそ月のみつるときはかくるなりすべての理みなかくのごとし故にいま満月の時に急にせよ。やがてかける時あり、いう事をしめすなり神仏を信じて吉▼よろこび事よし▼病人本復す医者かえて吉▼あらそい事かち也▼失物きうにたづねてよし▼のぞみ事かなう▼待人来る▼売買よし▼耺は官使などよし▼さきの世につくりし罪も露と消えて花咲く春の来しぞうれしき」

「前の悪きことも改まり替わりてこれより次第に良くなるべし」ということは、段々今の状況が好転するということなのか、「よし」、即ち「吉」が沢山並んでいるということは、この御神籤は好いということなのか?「大吉」ではないが、余りにも内容が出来過ぎているので、気持ちの沈んだ被災者に対するサービスの一環ではないかとすら疑いたくなってしまうが、何となく元気が出てきたことは確かだった。

「神仏を信じて吉」か…、よし、じゃ時間も早いし、今年は天気も良いし、せっかく出て来たんだから、今から前から行きたかった“泊の八幡サマ”に御参りに行ってくるべかな!!。

肥ノ田の新山神社からほど近い所にある、「泊の八幡サマ」こと越喜来字小泊にある八幡神社は、以前からその存在と入口自体は人から聞いたり、資料を読んで知っていたが、新山神社同様、越喜来の歴史を語る上で重要な神社であるにも関わらず、なかなか機会がないのと山の奥にあるのを理由に、これまで御参りに行かずじまいになっていた。

御神籤は結ばす、御守りにするため、落とさないよう大事に財布にしまい、早速、軽トラを神社のある泊の館(たて)へと走らせる。元旦の陽光は眩しく、道路から臨む海は比較的穏やかで陽の光を写し込みキラキラと輝いていた。新山神社での撮影は今回こそ上手くいかなかったが、泊の八幡サマへの参拝と撮影は、何だか上手くいきそうな気がしていたのである…。

(次回へ続く)

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西寄りの風、海上では北西の風がやや強く、粉雪が舞い散る小正月の朝。

窓の外を見れば、薄暗くなった上甫嶺(かんぼれい)の山間から下ろしてきた雪の白が、何度も越喜来湾を覆い隠す。
まだ、取り換えていなかった車の普通タイヤを、スタットレスタイヤに交換しに行ったら、馴染みのお地蔵さまたちが、河内(かわうち)から吹き下ろす雪交じりの風に晒されて、寒そうにしていた。
お地蔵さまには悪いが、お地蔵さまにうっすら積もった雪の白に、赤い布のよだれ掛けとほっかぶりの対比が綺麗だったので写真を撮らせてもらう。

帰りのついで、去年新築したばかりの浪板にある叔父の家に昨日搗いた餅をお供えに。
まだ社の入っていない神棚にふたつ重ね餅が並んでいる姿はちょっと不自然?。

お昼過ぎ、今夜食べる餅をまた搗く。今日は手間をかけて胡桃餅(くるみもち)を作る。
去年買った新しい餅つき機は、蒸す、搗く、捏ねるの機能が付いているので、とても簡単。
昔から、下ごしらえや搗きあがった餅を手で丁寧に丸めるのは女の仕事。
固い胡桃の殻を金槌で割ったり、胡桃の実をカァラケ(擂り鉢)で擂るのは昔から男の仕事とされている。
昨日のうちに綺麗に殻を選り分けた胡桃の実を摺り漕ぎ棒で搗いて潰し、擂り鉢に胡桃の油がにじむくらいよく擂ったものに砂糖、醤油で味を付け、湯、または緑茶でのばして出来たタレに丸餅を和えたのが胡桃餅で、小豆餅と共に祝い事や仏事などにも供される御馳走だ。
最近はスーパーなどでパック入りの中国産の胡桃の実が売られていて、そちらを用いる方が安くて手軽なのだが、やはり胡桃餅には天然の鬼胡桃の方が風味も良く、美味しく仕上がる。

そういえば、眼鏡を海に落として私は見てなかったが、胡桃餅といえば、元旦にやっていた「秘密のケンミンSHOW」(日本テレビ系)で、大船渡市出身の新沼謙治が、三陸沿岸に住む岩手県民は、雑煮の餅をクルミダレに付けて食べるとか紹介していたらしい…。
一応、私もそんな食べ方、ずいぶん昔見た記憶はあるけど、年寄りぐらいしかやってないんじゃないかな、たぶん。

雪も小止みになり、天空が開けて太陽がオレンジ色に輝く夕方。

父親と一緒に桟橋に下がる際、祖母から風呂敷包みで持たされたのはお供え用の小さな重ね餅三つと小瓶に入った御神酒。それと一緒にビニール袋に包まれたのは、小正月などに大漁と航海の安全を祈願して船に掲げる三枚の富来旗(大漁旗)。

ちなみに、三陸沿岸の漁師たちが大漁旗のことをフライキ(富来旗)と呼ぶのは、英語のフラッグ(flag)に由来するんだとか。

大晦日から正月にかけて揚げる所もあるが、越喜来の浦浜や泊地区の場合は小正月の十五日から十六日にかけて大漁旗を持ち船、または自宅や番屋の庭先に掲げるのが一般的。

奇数枚の旗を掲げるのが仕来たりとされ、旗を揚げる順番もきちんと決まっている。
一番上に掲げるのは、白地に赤く日章旗(日の丸)。
二番目は、赤地に自分の船の名を白く染め抜いた船名旗。
一番大きな三番目は、目にも鮮やかな色取り取りの大漁旗。

民俗学的考察をすれば、大漁旗を揚げる青い笹の葉を天辺に残した竹竿は、神霊の宿る依り代であり、それに船名の付いた旗を掲げるのは、合戦に出陣する武士の旗指し物と同じで、神様に自らの船の名を誇示するため。小正月に旗を揚げるのは、恐らくは冬の枯れ木に餅で作った花実を咲かせて豊作を祈願する餅花と同様に、豊漁の際に大漁旗を掲げて帰港する船を模し、今年一年の豊漁を願った予祝儀礼か。

この漁業習俗も今では行う人も少なくなったが、浜に降りてみるとちらほら旗を掲げている船も見える。
雪交じりの風が吹いているので、今回揚げるのは略式で船名旗一枚のみ。本来は十六日の夕方まで掲げるのであるが、明日も早くからホタテ出荷の仕事なのでその前に下ろしてしまうことになる。

旗を掲げ終わると父親がオフナダマ(御船霊)が納められるオモテのタツにお神酒をそび、そび、ばびの要領でかけて清め、二拍手。私も桟橋からオフナダマを拝する。家から持ってきた餅は船の中へ…、あっ!、餅と一緒に納めるオヘソク(御幣束)忘れた。

テンマ(※伝馬船・磯用の小舟)も同様の要領でオフナダマを神酒で清めて餅を供え、あとは船曳場のオエベス(恵比須)サマに御参り。以前はこの時、オエベスサマの前の松の枝に大漁満足や海上安全、家内円満の願い事を書いた赤手拭いを結んで奉納していたんだけど、我が家も何年か前に辞めて今では納める人もいなくなってしまった。

山向こうに陽の光が隠れようとしている。最後に牡蠣長屋の神棚に餅とお神酒を供え、あとは我が家の神棚と仏壇に餅と御神酒を供えて小正月の恒例行事は終わり。

今日の夕飯は、さっき摺った胡桃ダレに丸餅を和えた胡桃餅と、もらいものの牡蠣と豆腐のお吸い物に、冷凍して保存していた去年獲った鮑の刺身。

盃に注いだ御神酒を供え、神棚を見上げると、去年私が買い集めたアンティークの恵比須様たちがニコニコ顔で笑っているのが見える。

来年も無事に小正月を迎えられるといいな。あ、来年はこそはブログ用にうちのミズキダンゴも復活できればいいんだけどなぁ…。そんなことを考えながら一礼した。

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雪こそ降らなかったが、先一昨日から一昨日にかけての冬の嵐は例年になくすごかった。一夜明けてみるといろんな物が風に飛ばされて散らばっていて、まだ残っていたお正月気分も一緒に風にさらわれた気がした。

正月二日、三十三歳の年祝いに行っている間に父親が大晦日に海に落とした眼鏡を引き上げてきてくれた。
眼鏡がないと眼のピントが合わずボヤっとしか見えない。翌週火曜日に新しい眼鏡が出来るまでテレビもパソコンも見れず、今年は寝正月だと諦めていたが、眼鏡が復活したおかげで車の運転もできるようになったので、家族が用事で市外に出るついでに、かねてより計画していたデジカメでの「お正月のカミサマ撮影」を実行に移すことに。

ここで私の言うところの「カミサマ」とは、まあ神社でもかまわないのだが、野辺に苔むす石のお地蔵さまと同じで、街角や峠道などに佇む神様や仏様、神社、神体山、講などの名前を記した石碑、所謂文字塔(もじとう)のこと。

三陸沿岸の石仏は地蔵尊を除き、神や仏の像容を表したものは少なく、代わりに神名や仏号を自然石の表面に見事な筆さばきで大書陰刻した文字塔がほとんどで、これらの石塔が集落の境などに数多く建立されているのは、古くからの日本人の石そのものに神秘の力を認める石神の信仰と、神や仏の名を記した文字や言葉そのものにも霊力、呪力が宿るという言霊(ことだま)信仰の考え方に基づいている。

このような大小の碑が神社やお寺の境内の隅や木立の下の暗がりなどに群立する姿は、知らぬ人や漢字を読めない子供が見れば不気味な古いお墓が並んでいるように見える(※実際古い時代の墓地の場合、故人の戒名も彫っていない自然の石が墓石として田畑の畔道や木陰にお地蔵さまと一緒に並んでいることもあり、遠目には見分けが付かないことも多い)。そう思っていたものが、正月になって注連縄が張られ、地元の人たちが「オヘソク」と呼んでいる白い紙で出来た御幣が、石碑の前にいくつも供えられているのを目にして、初めて、ああ、あれはカミサマだったのかと気が付くのだ。

柳田國男の『遠野物語』に「路の傍に山の神、田の神、塞の神の名を彫りたる石を立つるは常の事なり。また早池峰山六甲牛山の名を刻したる石は、遠野郷にもあれど、それよりも浜にことに多し。」とあるごとく、月山、湯殿山、羽黒山といった出羽三山や早池峰山、鳥海山、金華山、秋葉山そして地元の五葉山といった修験道の霊山の名を記した山岳信仰に基づく供養塔は、江戸時代から平成の建立のものまで数多くみられ、今回掲載した写真にも出羽三山供養塔などが何基か写っているので気付いた方もいるだろう。

またこの他にも、日本各地に分布する庚申塔や三陸地方に多い巳待塔、金毘羅講供養塔(金刀比羅神社)、念仏塔や馬頭観音、駒形神社供養塔(蒼前神)、古峰ヶ原講供養塔(金剛山古峯神社)、愛宕講供養塔、鹽竃講供養塔(塩竃神社)、山の神塔、雷神塔、水神塔(八大龍王)、蚕神供養塔など、一口に言っても様々な形態の文字搭があり、中でも庚申塔(コウシントウ)や巳待塔(みまちとう・キシトウ)、この二つを折衷した庚申巳待塔(コウシンキシトウ)は、三陸地方の神社や寺院の境内、道路端に数多く祀られていて、今ではすっかり忘れ去られてしまった「庚申待ち(守庚申)」や「巳待ち(弁天日待)」といった日待ち行事が、江戸時代の中頃には文字通り、全国各地津々浦々まで深遠し、民衆の間で盛んに行われていたことを物語っている。

庚申待ちや巳待ちについて説明する余裕がないので、今回は割愛するが、これら石造物の多くは江戸時代、庚申講や金毘羅講、最上詣り(三山詣り)といった地域の講(こう)の人たちの寄進によって造立されたもので、当時の地元庶民の信仰形態を知る上で貴重な資料でもある。

「講(コウ)」とは講じること、転じて経典の講義をする会。元々講とは平安時代に仏典の購読・研究する僧の集団を指すものであったが、後に仏典の講読を中心とする仏事を指すようになり、さらに各種の仏教儀式一般に講という名称をつけるようにもなった。

この「講」が中世ごろから民間に浸透する過程で、様々な信仰的集団に「講」という名称がつけられるようになる。信仰集団としての講には、地域社会の中から自然発生的に生まれたものと、外部からの導入によるものとがあり、前者の講は、氏神、産土(うぶすな)、山の神、田の神といった地域の神仏を信仰する氏子によって、その神祠の維持のために運営されるものである。

講は講社ともいい、講の構成員を講員という。講の運営にあたっては講元(こうもと)、副講元、世話人などの役員を置き、講員の中から選任され、講の信仰する社寺から委嘱されるのが通常である。

外部からの導入による講は、当初は山岳信仰に関するものであり、越中立山などの修験者が霊山への登山を勧めて全国を廻り、各地に参拝講が作られた。それにならって伊勢神宮や讃岐の金刀比羅宮、信濃の善光寺など各地の有名神社・寺院へ参拝するための数多くの講も作られるようになった。これらの参拝講では、講の全員が参拝に行く「総参り」もあったが、多くは資金を徴収して講の中から数人を選び、代表して参拝する「代参講」が行われていた。

これら講の人たちによって建てられた石塔は、講の結成や講員全員が総参りや代参を完了したなどといった、所期の目標が達成された折に、講の人たちがお金を出し合って造立されたものが多い。

だが、それも昔の話。庚申講や巳待講など、江戸時代には各地であれほど隆盛を極めていた講もほとんど途絶え、苔むした石碑に往時の面影を僅かに留めるのみである。それでも恵比寿講や地蔵講、観音講、山の神講、オシラ神講など、現在も僅かながら三陸地方でもほそぼそと続けられている地域密着型の講もあるにはあるのだが、特定の宗教団体によって運営されている大規模な講を除き、講員の高齢化や過疎による少子化、生活環境の多様化など、様々な要因によりこれらの信仰形態もいずれは消滅する運命にある。

私も子供の頃、正月や小正月ともなれば、地元の神社や海の神や山の神などの小祠を巡ってお賽銭と共にオヘソク(御幣束)を奉幣するのが習わしであったが、よく回っていた祖母が老齢なこともあり、我が家でも最近は不幸事が重なった事もあって、参拝も漁港のオエベス様や近郊の観光地化された大型の神社に行くぐらいになってしまった。

私はブログに使うという名目で、これらカミサマの今の姿を写真に撮り集めている。子供の頃から慣れ親しんだこの風景が何時の日にか、いや今日明日中にも消えてしまう気がするのが怖いのだからかも知れない。

三箇日を過ぎていたが私の狙い通り、道端のカミサマたちには、暮れや元旦に上げられ、飾り付けけられたたであろうオヘソクや〆縄、松飾りが冷たい風に揺れていた。

どういう目的で建てられたかは忘れられてしまっていても、昔の人が守ってきたカミサマに日々の幸せを祈る姿は残っていた。写真を撮り始めると曇りがちだった空も、雲間から暖かな陽の光が差し込んでいい感じに。

もちろん撮影の前にはきちんと柏手を打ってお辞儀して、御賽銭の小銭を…、あれ?十円玉も五円玉も無い。‥百円はちょっときついので一円玉でご勘弁。

写真を撮っていると、自転車に乗った小学生らしい一団が私を横目で物珍しそうに眺めて行く。

厳密にいえば、道端のカミサマの中には馬頭観音や青面金剛、地蔵菩薩、不動明王、弁才天、念仏供養など、仏教思想に基づく仏様のものも混じっているのだが、そこは明治以前の神仏習合時代の名残なのか、それとも神も仏も皆同じという日本人の大らかさなのか、面倒な教義に縛られず神も仏も同じように餅や注連飾り、参拝者の持ってきた御幣束が沢山供えられ、一円玉や五円玉、十円玉が白米に交じって散らばっている正月の姿は、子供の頃から私の眼にはとても美しく輝いて見えるのである。

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小正月に生る花っこ

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国道沿いのコンビニに今日のお昼を買いに行ったら、隣の駐在所の入り口付近に、子供たちが作ったらしい小正月のミズキダンゴが冷たい風に揺れながら、色取り取りの鮮やかな華を咲かせているのが目に付いた。

三陸地方では、この小正月のだんご飾りを「だんごならせ」(大船渡市三陸町吉浜地区)、あるいは「さく作り」(三陸町越喜来浦浜・泊地区など)と称し、一月十四日の日にだんごをミズキの枝に刺して、台所のウシモチ柱、または表座敷の鴨居の長押などに飾りつけられる。

私の家ではいつのころからか、ミズキではなく青い葉のついた椿の木の枝に紅白のだんごを刺し、ミカンやお菓子などを吊るして台所の長押に飾るのが慣例だったが、不幸事が重なったのと、この小正月のだんごを毎年作っていた祖母が老齢なこともあり、最近はほとんど飾らずじまいとなっている。

平成十二年(2000)の「国民の祝日に関する法律」の改正(改悪という声も少なくない)によるハッピーマンデー制度の施行により、一月十五日が旗日(※はたび・祝日の意。戦前の旧祝祭日に各家庭で国旗を掲げることが義務づられていたことからの俗称)、即ち「成人の日」では無くなってからしばらく経つ。現在は一月第二月曜日に定められている「成人の日」が、旧法で一月十五日と定められたのはこの日が小正月であり、かつては元服の儀が小正月に行われていたことによるといわれている。

私が高校生の頃ぐらいまでは、県内のほとんどの学校が、十五日の「成人の日」の翌十六日前後が冬休みの最終日で、紅白のだんごが家の台所に飾られると「もう冬休みも終わりだな…、ああっ宿題ちっとも終わってない!!!」などと大慌てしていた。

一年の初めである一月一日(元旦)を「大正月(おおしょうがつ)」というのに対して、正月の望の日、つまり満月の旧暦一月十五日を「小正月(こしょうがつ)」と称する。
月の満ち欠けを日付の基準とした太陰暦では、一年の最初の満月の日、つまり一月十五日が正月であった。しかし中国から新たな暦方が伝来すると、新月の一月朔日を一年の初日とした。そこから元旦を大正月。十五日を小正月と呼ぶようになったのである。
新暦に変わった現在でも、一月十五日前後には正月の松飾りや古くなった注連縄、御神札などを燃やす「どんと焼き(左義長)」や作物を荒らす害鳥を追い払い、その年の五穀豊穣を祈る「鳥追い」など、各地で様々な民俗行事が執り行われる。

『三陸町史・民俗一般編』によれば、三陸地方では一月十四日から二十日までを小正月といい、「おなご(女)の正月」、また「船の正月」「お船玉さまの年越し」と言って、十五日に船主が餅やお神酒を船に持って行って「お船玉さま」にあげ、大漁旗も掲げられる。その他「道具の年越し」と称し、釣り道具(漁師)、大工道具(大工・左官)等と、餅・お神酒を神棚の前に供えて拝む。生産用具を休ませ、これに感謝し、新しい年への備えとする。「牛馬の年取り」の日でもある。大正月に続いて小正月にも餅が搗かれるが、大正月より小正月の方が盛大で搗く餅の種類も多く、ごぼう餅をはじめ、アワ・キビ・米・小豆・豆等を入れた餅を搗く。

残念ながら私もまだ直接見たことがないのだが、越喜来の隣の地区である大船渡市三陸町吉浜では小正月の十五日の夜、蓑を着て血の付いたキリハ(包丁)を持ち、鬼とも竜ともつかぬ恐ろしい面を被って家々を回り、カバネヤミ(気仙地方の方言で怠け者の意)を懲らしめるため、長い冬の間、炉端にうずくまってばかりいると出来るスネ(脛)のヒガタ(火斑)を引き剥ぐ「スネカ」と呼ばれる魔人が現れる。これは全国的にも有名な、秋田県男鹿半島の「ナマハゲ」などと同じもので、引き剥ぐことをこの地方の方言で「タクル」と言うことから「ヒガタタクリ」とも呼ばれるが、吉浜では「スネカ」と呼んでいる。「スネカ」は「脛かっちゃぎ」、あるいは「脛皮たくり」が略された語と考えられており、岩手県を代表する来訪神行事として、平成十六年(2004)に国の重要無形民俗文化財に指定されている。また、三陸町越喜来崎浜地区でも「タラジガネ」と称する蓑笠を着た異形の者がやってきて、怠け者を懲らしめるという行事が行われる。

これに似た古い小正月の行事で「カシオドリ」、あるいは「カセドリ」と称し、地区の青年たちが蓑笠などを付けて扮装して各戸を訪れる。家人はこれに銭を与え、用意しておいた水をかけるが、溜めの水をかけたりすると、怒ってその家に「かぶり物」を置いていく。置かれた家は良くないことが起こるとして忌まれたというが、こちらは三陸地方ではすでに絶えてしまった行事である。

また、柿や梨木、桃木などの実のなる木に、一人が鉈を振り上げて、「なるが、なんねえが、なんねァばどんがり切っ付けァすぞ(※きんなぐるそ、とも。今年も実が沢山生らなければ切り倒してしまうぞという意味)」と樹皮に傷をつけて威嚇すると、他の一人が「なり申す、なり申す」と答える。新年の豊作を成木に誓わせるという「成木責め(なりきぜめ)」。

地区の子供たちが釣り竿や包丁、セァバン(俎板)などを持って、網元やスルメ船(※イカ釣り船のこと。三陸沿岸ではスルメイカをスルメ、マイカのことをマスルメなどと呼ぶのが一般的である)のある家を訪れ、座敷などで「スルメ釣り」や釣ったスルメを捌く仕草を模擬的に行って、その年の豊漁を祈願し、駄賃として金銭や餅を貰う「スルメ割り」。

その他、胡桃の殻や炭火、餅の焼け具合などでその年の天候や吉凶を占う「世の中だめし(世中見)」。子供たちが蓑を着て、ブリキ罐などを叩きながら「もののものの、鳥カッシャ(頭)割って塩つけて、からげぁで、鬼ヶ島に流した、しゃおしゃお(越喜来ほか)」と唱えて歩く「鳥追い」や「ヤラグロ」。権現様が家々を回って踊り悪霊を払う「悪魔払い(あくまんばらい)」。干した魚を庭先に吊るす「掛け魚(浜がけ)」などなど、この夜は早く寝ると「早くトショル(年老いる)」といって、子供たちも夜遅くまで起きて様々な行事が執り行われていたことが記されている。

これらはかつては近隣一帯で行われていた行事らしいが、国の重要無形民俗文化財に指定された「吉浜のスネカ」を除き、過疎化の進行やそれに伴う少子高齢化、生活環境の変遷などによりほとんどの行事が衰退、或いは途絶えてしまったりしており、私もこれら小正月の行事は祖父母の昔語りや本を読んで知っているのみである。それでも「ミズキダンゴ」や崎浜の「タラジガネ」など、地域の子供たちや有志の手によって復活や保存継承が試みられているものもある。

今年は喪中なので正月は出来なかったが、代わりに小正月に神棚を掃除して、餅を搗き新しく歳神を迎え入れる事は許されるらしい。
先日、小正月に合わせ市内の家電量販店で、新たに蒸す・搗く・こねるの三役をこなす自働餅つき機を購入したので、以前に比べれば餅搗きは楽になったが、結局今年も我が家のだんご飾りは作らずじまい。
しかも、間の悪いことに、私の歯の治療の予約時刻が遅かったため、今年は桟橋のオエベスサマや船には父親一人でお参りに…。風か強かったので大漁旗を揚げている船もあまり無く、十五日の小正月の行事もこうやって廃れて行くんだろうなと実感しているが、せめて我が家でも小正月のだんご飾りぐらいは孫子の代まで伝えていけたらなと思う。


え・・、それよりまずは好い人見つけて結婚することが先決だって?うん、それはもっともな意見です。じゃ、神様、仏様、どうか今年こそは、運命の人が現れますように…、なんか最近はこればっか願っているような気がする…。

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ブログを開設してそろそろ一年。マイペースでも、せめて月一回以上は更新しようと思いつつ、本業の忙しさを理由に、先月は挨拶程度の更新しかできなかったので今年こそは、…と思ってはいるのだが。

どうなるかはさておき、喪中の人は神社の鳥居をくぐってはいけないとか何とかで、今年の初詣は出来ないらしい。

「神社に行ったらブログ用に撮りたい写真がいっぱいあったのになー、でも喪中だし、来年までお預けだなー」と年明けからいろんな意味でもんもんしていたが、せめて今頃は華やかにおめかししているであろう「想いびと(笑)」にアタックすべく、正月も三が日を過ぎ、暮れからの寒気が緩んで暖かな日差しが照りつけた今日。昨年中にやり残していた午前中の一仕事を終わらせ、お昼を食べたあと、以前から正月になったら撮ろうと思っていた近場の石塔や祠、お地蔵さんなどを撮影するためデジカメ片手に車を走らせた。

白く苔むした古碑群。屋根に囲われているにもかかわらず目鼻のはっきりしない六地蔵。正月を迎え、クレヨンで新たにカラフルに彩色された恵比寿様。石塔の脇に置かれた、折れてバラバラになったペンキの剥げた古い鳥居。真新しい注連飾りや神前に幾つも供えられたオヘソク(御幣)や御賽銭。
「さて、あと一ヶ所撮ってから帰っぺな」と考えながら車を走らせていると、道路を隔てた田圃の向こうの大きな杉の木の根元に、粗末な作りの白い鳥居が見える。

「多分あの辺りに祠でもあるんだべ。せっかくだからあれも撮って帰っかな…」と、車を道路の脇に寄せ遠くから二、三枚。「うーん、あんまり思ったような写真が撮れながったな」と呟きながら車を発進させ、横目でさっきの鳥居の方をちらりと見ると、鳥居の手前に突き出している一本の笹竹が上下に揺れ、私に向かっておいでおいでをしているように見える。

「周りに人影は見えねえし、揺れていたのはあの一本だけ…、もしかして良かったらこっちに来なさいって誘われてる?…なんてね(笑)」

すると目の前に、タイミングよくあの鳥居の傍に向かって続くらしい脇道が現れた。
路は車一台が通れるほどの幅しかなく、鳥居の周りに民家も人影も見えないが、きちんとアスファルトで舗装されている。「対向車が来る様子も無さそうだし、時間もあるし、せっかく誘われたんだから行ってみっかな」と右にハンドルを切ってみた。

辺りは静かで人の気配も他の車も来る様子が無い。鳥居の傍のすれ違い用のスペースに車を寄せると鳥居の手前でこちらを見つめている一匹の赤茶色の猫と目が合った。カメラを構えようとしたら、猫はそそくさと笹藪の中へ‥。

「さっき竹が揺れたのはこいつ(猫)のせいかな…」

近くで見た鳥居は思ったよりも細い。
鳥居の奥からは小川のせせらぎが聞こえ、覗き込むと水神らしい木で作られた小さな祠がこちらを向いていた。

道幅が狭く車の転回が出来そうにないので、田圃の中の道をしばらく進むと見知った景色の道に出た。結局ぐるりと一周して元の道に戻って来たらしい。

もしかしたら、なにか不思議なことが待っているんじゃないかと、ちょっとだけドキドキして行ったが別に変わったこともなかった。まぁ早々そんなことある訳がないのだが、でも、私のところにもちょっと寄っていかない?なんて呼ばれたんじゃないかな、そうと思えた時なんとなく口元がほころんできた。

車を自分の家の庭に止めエンジンを切ると、それまで辺りを照らしていたオレンジ色の陽の光が消えたので、ふいと空を見上げれば、銀鼠色の雪雲が山間に傾きかけた太陽を覆い隠さんとしている。

「今夜かだは雪だと天気予報が言ってだったっけな…、さ、お日さまのあるうちに仕事すっか」

またいつもと変わらない日常が始まる。平凡な、なんてことのない普通の一日のたわいのない話。

ふと気づくと服の周りにアメリカせんだん草の実がいっぱい付いて来ていた。

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