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※この記事は、信州「市民タイムス」http://www.shimintimes.co.jp/ の『熊井啓への旅』を、許可を得て掲載するものである。
熊井啓への旅
忍ぶ川-3
吉永小百合が候補に
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kumaikei/kuma20.html
昭和四十一(一九六六)年夏、熊井啓は「忍ぶ川」のシナリオを懸命に書き上げ、それを受けた日活契約プロデューサーの大塚和は江守清樹郎(えもりせいじろう)専務に映画化の旨(むね)を申し入れた。しかし、経営不振にあえぐ日活にあって江守は「駄目だ」と認めなかった。
一方、社員プロデューサーの横山実が、「忍ぶ川」を吉永小百合主演でやりたいと考え、シナリオ作家協会から借り出してきた松山善三の脚本を江守に読ませたところ、江守の意に沿うものだったらしく許可が下りた。プロデューサー同士のこうした競争やトラブルは日常的にあった。
熊井は苦慮した。なぜなら大塚とのつきあいは助監督時代を含めて長く、前作「日本列島」を一緒に完成させた仲、『忍ぶ川』の三浦哲郎(てつお)宅にも一緒に伺(うかが)い映画化を申し入れていた。横山とは深いつきあいはない。したがって大塚の顔を立てたいのはやまやまだが、実現の道は、横山と組んで吉永小百合の「忍ぶ川」を作るほかない。熊井は彼女の「忍ぶ川」をイメージしていなかった。
吉永小百合は当時二十一歳、それまでの「清純派」路線がマンネリに陥り、打開策が模索されていた。彼女自身も大人への脱皮に悩んでおり、「忍ぶ川」をきっかけにしたいと思っていた。
熊井は熊井で「日本列島」の監督料二十万円を使い果たし、わずかな基本給で生活していた。子どもも生まれる。追いつめられたまま「忍ぶ川」に挑もうとした。十一月と十二月、横山に連れられて世田谷梅ケ丘の吉永家を訪れ、小百合の両親と面会する。
だが、この出会いは双方いい印象を残さずに終わった。とりわけ小百合の母和枝は、悪酔いした熊井が突飛な言動をしたため、あきれてしまったようだ。(吉永和枝『母だから女だから』)
明けて昭和四十二年一月、日活に“激震”が走った。江守専務ら六人の役員の退陣、幹部クラスの大幅異動が断行され、十四億八千万円に上る累積赤字からの脱却が打ち出された。江守という「たが」が外れた日活が、超低額予算の「ロマンポルノ」に走るのはこのあとである。(ちなみに、この手の映画は六十二年までに千百本乱造され、ピーク時には年間延べ一千万人が見て、配給収入三十九億円を記録した)
「忍ぶ川」も揺れに揺れた。四十二年二月、熊井宅を訪れた横山が「小百合のスケジュールがいっぱいで、あまり時間をかけられない」「(初夜のシーンで)どこまで裸にするのか」などと言い出した。
四月十日、熊井は築地の小料理屋で吉永小百合本人と会う機会を得た。サユリストたちの会誌『さゆり』創刊号の対談が企画されたのだ。熊井は彼女が「忍ぶ川」出演を熱望していることを直(じか)に知った。
だが熊井は、「忍ぶ川」で最も大事な雪のシーンの撮影時機をすでに逃していたうえ、石原プロモーションからもたらされた「黒部の太陽」の監督要請を引き受けていた。「忍ぶ川」は必然的に先送りされる。
「黒部の太陽」がさまざまな困難を克服し、この年夏にクランクイン、翌年完成し、大成功を収めたのはこれまで書いたとおりだ。それは映画会社間の「五社協定」という厚い壁を石原裕次郎、三船敏郎と組んでぶち破り、風穴を開けた画期的な出来事となったと同時に、「帝銀事件・死刑囚」「日本列島」後、二年間一本も撮らせてもらえなかった熊井が監督人生を懸け、蘇生(そせい)した作品であった。
「黒部の太陽」完成直後の四十三年二月、熊井ら日活関係者は、あらためて「忍ぶ川」を実現すべく六本木の吉永プロに出向いた。吉永側は父の芳之(よしゆき)が応じた。その芳之はことごとく熊井の構想に異を唱える。
熊井が「忍ぶ川」は男女ふたりのドラマゆえ、画面はきめ細かさが出るスタンダードサイズで撮りたいと言ったのに対し、芳之はワイドな「シネマスコープ」を求めた。熊井が白黒フィルムにしたいと言うと、芳之はカラーを主張して譲らない。
安曇野、松本育ちの熊井は、雪がただ白いだけのものではないことを小さいころから知っていた。降る雪は空を見上げれば灰色をしているし、積もれば純白、朝日にオレンジ色に輝くかと思えば、月光には青く光る…。こうした微妙な雪の色合いは、実はカラーより白黒フィルムのほうが深みが出る。
「忍ぶ川」は雪に限らず、光と影が織りなす静かな、ふたりだけのモノクロ世界なのである。
文と写真\赤羽康男
熊井啓の経歴
熊井 啓(一九三〇−二〇〇七) 映画監督。豊科町(現・安曇野市)に生まれ、松本市で育った。松本中(現・松本深志高)から松本高等学校に入学、新制の信州大学理学部を卒業した。独立プロの助監督を経て日活撮影所監督部に入社、助監督後、「帝銀事件・死刑囚」で監督デビュー、骨太な社会派監督として活躍した。「海と毒薬」でベルリン国際映画祭審査員特別賞(銀熊賞)、松本サリン事件を題材にした「日本の黒い夏−冤罪」でベルリン国際映画祭特別功労賞など受賞多数、紫綬褒章も受けた。主な監督作品に「黒部の太陽」「忍ぶ川」「サンダカン八番娼館・望郷」「深い河」ほかがある。
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