|
前回からのつづき。
三
彼は、ついでにだれもいなくなった階下の戸締まりを見て回ってから、また二階の自分の部屋へ戻ってきた。すると、それを待っていたようにパジャマ姿の三女が来て、一つ頼み事をしてもいいかと言った。
「もしもね、これから雨がやんで、晴れてきて、月食が見えるようになったときは、忘れないで起こしてほしいの。」
「小姉ちゃんもか?」
「あたしだけでいいの。ぐっすり眠っていても構わないから。」
「分かった。ただし、気が付いたらだよ。一晩じゅう、なんにもしないで空ばかり見張っているわけにはいかないからね。」
彼は、今夜はもう月が顔を出すことはあるまいと思っていたが、それでも念のために、そばの出窓の障子を開けておいて、時々窓の外へ目をやっていた。しばらくすると、雨が上がった。何度目かに、雨にぬれた隣家の屋根が蒼白く光っているのに気が付いた。壁に庭木の影も映っていた。彼は、首をかしげるような気持ちで南向きの板の間へ出ると、そこの窓を開けてみて、ちょっと驚いた。
雲の切れ間に、まさかと思った月が出ている。彼は、その月が縁の所から内側へ丸く欠け始めているのを見て、(分かり切ったことなのに)思わず、
「月食だ。」
とつぶやいた。すると、不意に、月食だとは知らずに月食の月を仰いだ少年時代の一夜の記憶が、思い掛けなく鮮明に彼の脳裏によみがえってきた。
空に月が出ていたが、あれは真夜中だったか、夜明けだったか。彼は道を歩いていた、戦闘帽をかむり、肩から救急袋と防空頭巾を斜めにつるし、すねにはゲートルを巻き、編み上げの靴を履いて。
けれども、彼は兵隊ではなかった。旧制中学の三年生で、警戒警報が発令されたら直ちに市の警察署へ駆け付けて署長の指揮下に入る少年報国隊の隊員であった。
彼は、同じいでたちの級友と二人で市の裏通りを歩いていた。街々は暗く静まり返って、道には犬ころ一匹見当たらなかった。市には、既に警戒警報が発令されていた。けれども、彼と級友とは警察署とは反対の方向へ歩いていた。
あのときは、二人でどこへ行こうとしていたのだったろう。集合が遅れている仲間を迎えに行くところだったろうか。
彼は、歩きながら、何気なく空の月を見上げた。すると、月が異様な欠け方をしていた。家を出るとき見た月とは、はっきり形が違っていた。目をこすってみても、同じことであった。彼は、訳が分からずに、ただそのいびつな月に不吉なものを感じた。仲間に黙っていようと思ったが、やはり話さずにはいられなくて、
「おい……あの月。」
と彼は小声で言った。あ、と仲間は小さく叫んで、立ち止まりそうになった。
「……月食だ。」
彼は、あれが月食かと、改めていびつな月を仰いだ。ふと、今夜の空襲で死ぬな、という気がした。けれども、死の恐怖は全くなかった。これで自分の一生もおしまいか、という感慨もなかった。ただ、飛行兵志望だったのに、一度も飛行機に乗ったことがないままに死んでしまうのを、残念に思った。
彼は、指を鳴らして、
「ちくしょう。」
と独り言を言った。すると、仲間も何を考えていたのか、
「ちくしょう。」
とつぶやいて、指を鳴らした。
それから、二人は月食の月を浴びながら黙って歩き続けた。
ずいぶん昔のことだ、と生き延びた彼は、あれから三十数年後のいびつな月を眺めながら思った。今から思えばうそのような記憶だが、あんな夜が自分には確かにあったのだ。毎日が、月食どころではなかったころのことだ。
子供たちの寝室のやみは、夕食の餃子のにおいがしていた。そういえば、あのころは餃子なんて知らなかったな、この世に餃子みたいな珍味があるということも知らなかったな、と彼は思った。三女は、戸口にいちばん近いベッドで、荒い寝息を立てて眠っていた。彼は、何度か三女の名を呼んでみた。それから、肩を何度も揺さぶってみたが、三女の寝息はやまなかった。
彼は、約束に反することだが、このまま眠らせておこうと思った。子供たちはもう焼き殺されることなどないのだから、この先、月食ぐらいは何度でも見られる。
彼は、ついでに子供たちの寝相を直してやろうかと思ったが、よしにした。彼は去年の夏辺りから、夜更けに娘三人の寝室に点灯するのを、つい、ためらうようになっている。彼は、そのまま足音を忍ばせて餃子のにおいのするやみの外に出た。
|