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「水仙」

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■写真:金田一温泉郷・木橋とダンジャ坂


金田一温泉郷は今、春の日溜まりの中に黄や白の水仙が咲き誇っている。
ダンジャ坂の木橋のたもとの桜の木も薄紅色の花を咲かせている。
ここは小説『水仙』の舞台。
その桜の枝の下に、N会員によって植えられた水仙が年々増え続けている。

《 私は、まだ父のぬくもりの残っている石の腰掛けにひとりになると、急に心細くなって、竿を振る腕にも力が入らなかった。こんなときに兄がいてくれたらと、行方が知れなくなってからちょうど一年になる次兄のことをそう思ったりした。私は、その兄から学費を貰って大学へ通っていたが、途中でやめて帰ってきて、いまは郷里に新しくできた中学校で代用教員を勤めていた。兄の最後の手紙にはかならず帰ると書いてあったが、当てにはならない。このまま兄が帰らなければ、六人きょうだいが姉と私の二人きりになってしまうが、その姉もまた、あんなただならない鼾をかいて眠りから醒めない…。
 私は、村の家には休みに帰ってくるだけだったが、帰ったところで何もすることがなくて、父に打ち釣りを教わっていた。けれども、その朝は、竿の先で川面を叩いて、せっかく集めた魚を散らしてばかりいた。
 それに、口のなかが変に乾いて、撒き餌の荏胡麻を口に入れて噛みたくなかった。
 それでも、私は、家に帰りたくない子供が棒切れでいつまでも水溜まりを叩いているように、靄がすっかり消えて日が昇るまで、釣るでもなしに川べりにいて、それから大部分は父が釣った小魚を魚籠に拾い集めて引き揚げてきた。すると、家の方へ登る坂道の登り口にある土橋のたもとに、小野木さんの錆びた自転車が横倒しに乗り捨ててあった。
 私は、家へ帰ってくるのが早すぎたのか、それとも遅すぎたのか、判断に迷った。つい坂道を登る脚が鈍って、立ち止まっていると、上から誰か人が降りてきた。私は、それが小野木さんだとわかると、それっきり坂道を登ることを忘れてしまったが、小野木さんの方も私を見て、ちょっとためらうような足取りになった。けれども、小野木さんは立ち止まらずに、朝日に眼鏡を光らせながら、膨らんだ手提鞄のほうへすこし体を傾けるようにして降りてきた。
 私たちは、お互いに何ごともなかったように朝の挨拶を交わした。小野木さんは顔を力ませるようにして笑っていた。
「釣りですか。いいですね」
 口髭が赤かった。それがゆっくりそばを通り過ぎようとして、やはり立ち止まった。
「夕方、むこうへお帰りですね。」
 そういわれて、私は急に、きょうが日曜日だったことを思い出した。むこうというのは、私の勤め先のある町のことだ。
「今度は、いつ、こっちへ?」
「…多分、来月になると思いますが。
「じゃ、もうお会いできないな。」と小野木さんはいって、せわしく目をしばたたきながら私を見た。「実は僕、もう二、三日もすると、東京へ引き揚げるんですよ。僕はずっとここにいたいんですが、いろいろ事情があってそうもいかなくなりましてね。それに、僕は戦時中の医専出身ですから、いまのうちに、もういちどしっかり勉強し直しておかないとね。じゃ、これで……。どうぞお元気で。」
「先生もお元気で。」
 急なことで、私は面食らいながらそういってお辞儀をしただけであった。坂道の途中までくると、小野木さんの自転車が土橋を渡って軋む音がきこえた。》


小野木先生が好きな花は水仙だったからと言う姉に、亡くなった小野木先生の東京のお宅への訪問に水仙を託されたのだった。

お姉さんが好きな花でもあった。

もう一つの『白水仙』という作品の末尾にそのことが書かれている。

《上の姉の亜矢さん。
 中の姉の美那さん。
 あなたたちの墓は、やがてこの町に移されることになりましょう。寺は、町の背を走る小高い山なみの中腹にあって、橋のたもとの銭湯の窓からみると、寺の赤屋根は川むこうの火見櫓より高く見えます。墓地は山門までの長い石段の両側の斜面にひろがっていて、空を杉木立に覆われた静かな墓地です。
 香世さんは、あなたたちの墓の周囲に、白水仙を植えたいといっております。いま、庭の花壇で栽培中です。白水仙は香世さんの好きな花ですが、それは「番町の家」の庭に咲き乱れていた花でもあります。》


今は、姉達や両親と共に三浦さんも眠る菩提寺のお墓の周りには、今頃白水仙が咲き乱れていることだろう。

三浦さんの描く「水仙」に接してから、春の今頃に咲き乱れる水仙が愛おしく感じてならないのである。


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