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『タンパ眼の誘惑』という作品は、青森県八戸市で発刊されていた「北方春秋」という月刊誌の昭和35年1月号に掲載されている原稿用紙60枚の小説である。
三浦さんが、早稲田大学を1957年(昭和32年)に卒業し、就職を断念して作家活動に入るが、2年後の1959年(昭和34年)2月に、原因不明の高熱に悩まされて衰弱し、止むなく所持品を売払って帰郷し、翌1960年(昭和35年)2月までの一年間を一戸町で過している。
この時のことを本人は「都落ちした」と言っているが、就職口が見付かり、再起を決して上京する際に、背広を買うお金を得るために、久々に小説を書いて、八戸の雑誌に持ち込んだとある随筆に書いている。
当時の三浦作品が掲載された《生まれ故郷の雑誌》はどうもこの『北方春秋』のことのようである。
『北方春秋』に三浦作品が掲載されたのは、
第8号(S33.11.1発行) 「ブンペと湯の花」掲載 …初出は大学時代の『非情2
号』(S30発行)
第12号(S35. 1.1発行) 「タンパ眼の誘惑」掲載 …60枚
《創作・タンパ眼の誘惑・60枚 郷土が生んだ作家が久方に発表した力作》
第13号(S35. 6.1発行) 「非望の群れ」(連載第1回)掲載 …第14号が確認できていな
い。その後の連載が見当
たらない。
で、第8号の「ブンペと湯の花」は、新潮同人雑誌賞を受賞後に寄稿を依頼されたようだが、後の第12、13号は一戸に都落ちして過した昭和34年2月から翌35年2月までの1年の間に書いた作品になるのか。
第12号(昭和35年1月1日発行)に掲載された「タンパ眼の誘惑」は、今まで一切発表されていなかった作品で、大変興味を引く小説で有る。しかし、三浦さんが2月に上京する際に納めたとすると、発行時期の方が早いので、〈背広に代えた原稿〉とするには時期が合わない。それに、〈30枚の短篇〉より多い 60枚となっていて、文末に〈昭和31年2月〉の記載があるなどからして、どうやら、この作品ではなさそうである。
そうすると「非望の群れ」ということになろうか。
「非望の群れ」については、またの機会に触れるとして、今回は、先日東奥日報の吉田記者から電話問合せを戴いた「タンパ眼の誘惑」について探ってみることにしよう。
吉田さんの話では、早稲田大学で同人誌「非情」の仲間だった竹岡準之助さん(2011/8/22(月) の当ブログ記事中の連載三浦哲郎特集No.21(8.21)『文学的自叙伝』に写真が載っている。http://blogs.yahoo.co.jp/onikosato/33464630.html)から、三浦さんが大学の時に「タンパ眼の誘惑」という作品を書いていたが「タンパ眼」とはどういう眼のことなのか知りたいと電話問合せを頂いたとのことだった。
方言ではないかとも言われたそうだが、吉田さんはこの作品を知らなかったので、出所を知りたいと私に連絡をくれたのだった。
それで『北方春秋』に掲載されている作品で、中にそのことについて説明が書かれていることを教えた。
「タンパ眼」とは三浦さんの造語だった。
呉服屋を営むわが家に大の仲良しだった丹八という住み込みの手代がいて、彼の特技の寄り目を「タンパ眼」と名付けた。
この「タンパ眼の誘惑」は「私の履歴書」(「母の微笑」に掲載)の5〜8章に記載されている内容とほぼ一致する。
このことから、実在した手代の忠さんのことを描いた作品ということが分かってきた。
『北方春秋』はこの第13号の後、5年経って第14号がヤッと発行されていて、第17号まで発行後途絶えたという。
「非望の群れ」は連載第1回目として13号に掲載されたのに、残念ながらその後は連載されることはなかったようだ。
●過去の関連記事
■『北方春秋』 2010/9/24(金)
http://blogs.yahoo.co.jp/onikosato/32390410.html
■「北方春秋」の情報 2010/9/29(水)
http://blogs.yahoo.co.jp/onikosato/32406765.html
■北方春秋ーその後 2010/10/6(水)
http://blogs.yahoo.co.jp/onikosato/32435264.html
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