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昨日は二戸市商工会臨時総会に出席してきた。
懇親会の席では多くの知人に『三浦哲郎文学を読む会』について声を掛けられた。
そこで、宣伝をさせてもらいながら、又色々な情報を戴いてきた。
三浦さんのお姉さんが福岡で琴の教室を開いていた所の家主だったよと声を掛けてくれた人もいました。
三浦哲郎氏のまぼろし(?)の歴史小説『贋まさざね記』(作家が九戸城に向かう途中で戦場にタイムスリップするファンタジックなストーリー)を提供してくれた田代さんとも色々情報交換できた。いつかゆかりの家でお茶の先生や琴の先生たちとお茶会をやりたいと話していた。
それなりに関心を持ってくれている人がいることは励みになる。
二戸ローズさん、コメントありがとうございます。
三浦哲郎と金田一温泉の関係は、三浦さんが随筆の中で触れている文章があるので、それを引用した「ゆかりの家」の説明板の内容を掲載します。
芥川賞作家三浦哲郎ゆかりの家【父の実家・壇沢(ダンジャ)】の説明板より
昭和二十年七月下旬、八戸市に艦砲射撃の噂がしきりにあり、馬車の荷台に家財道具を積んで、母と姉は父の生まれ在所へ疎開して行った。
父の生まれ在所というのは、隣の岩手県との県境を越えたところにある湯田という鄙びた温泉村だと聞いていたが、私はまだいちどもその村へ行ったことがなかった。
私が初めて湯田の村を訪ねたのは、その年の暮も押し詰まってからであった。
戦争はすでに終わっていて、父は敗戦の衝撃で店をつづける気力を失い、一家は疎開先の湯田に引き籠って、中学生だった私だけが八戸市内の叔父の家に預けられていた。
冬休みになると、私は早速ボタンのとれたシャツや綻びた衣類を風呂敷包みにして、独りで湯田を訪ねていった。
父の実家では、両親と姉と次兄の四人が、縁側から林檎畑の見える広い二間つづきの座敷を借りて暮らしていた。
それ以来、私は休暇のたびに湯田へ帰るようになった。
次兄はやがて上京した。私は、八戸の高校を出ると、次兄の世話で東京の大学へ進学することになるが、一年ほどして、その次兄が突然行方知れずになった。
私は、絶望して、大学に退学届を出して帰郷した。高校時代の恩師に請われて、漁師町に新設された中学校の助教諭になったが、二年後に本気で文学を志願し、教職を辞して湯田へ帰ると、そこで再起の準備をしながら一年暮らした。後年、私はこの時の一年間を『ブンペと湯の花』という作品に書いた。
実際、私自身にとっても、また私たち一家にとっても、どん底の辛い一年ではあったが、いま振り返ってみると、その思い出の一齣々々が、まるで、風景画のように淡く、静かで、懐かしい。
そのころは、私たちは父の実家の林檎畑のなかの小屋を改造した家で暮らすようになっていた。
湯田は、その後、金田一温泉と名を変えて、いまは温泉旅館が二十数軒も立ち並ぶ歓楽境になっている。雨の日、私たちが難渋した泥んこ道もすっかり舗装され、冬、窓の隙間から吹き込む雪に肌を焼かれた古い湯小屋も、すでにない。あのころと変わらないのは林檎畑と川の流れだけである。
「青春記ー風景の一年」(昭和五六・一一・二 読売新聞に掲載) より抜粋したものを、この度壇沢のゆかりの家前に設置した説明板のために三浦哲郎氏が改めた文章です。勿論、三浦さん直筆のサイン入りですよ。
この作品は、随筆集『春の夜航』・文集『母』等に収録されています。
三浦氏の家族はこの地で八年間暮らし、その後、隣の一戸町に移住した。当地は、後に血縁者の手から離れ、現在は玉川家の所有となっている。
『ゆかりの家』は金田一温泉文学散歩コースの「ダンジャ坂」を登って行った所に有り、この説明板が在りますので、どうぞ現地を訪れて見て下さい。
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開設者さん私のためにたくさん情報いただきありがとうございます。説明板のあるところに行こうと思いますが、全く場所が解りません。金田一温泉センターの近くですか。「贋まさざね記」は九戸まさざねの物語なのですね。すごーく興味があります。
2007/1/28(日) 午前 10:05 [ 二戸ローズ ]
こちらから、スタートすべきなんでしょうが・・・(^−^)
とにかく、拝読してみなくちゃ始まらないわよね。
介護の合間の読書だけど、楽しめそうです(*^_^*)
2009/5/4(月) 午後 5:11
この本は随筆集ですが、三浦さんの作品は随筆とも短篇小説とも区分けが付かないものが多いのです。どれも一作品が短く、とても読み易い文章で書かれているので、介護のあい間に詠むには持ってこいだと思いますよ。他に母の看病のことを書いた作品があり、介護の参考になるかも知れないので、詠むことをお薦めします。
2009/5/5(火) 午前 1:07 [ oki*_ ]