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一ヶ月ほど前にこのBlogで紹介した、三浦ファンで「アルビノについての(略)ブログ」運営の武器屋さんが、『三浦哲郎の遺伝の知識』と題して新たな記事を書いているので紹介したい。
一人の作家のことを一つの観点に拘って紐解いてみるということは貴重だが、大作家ともなれば多くの作品があるから大変な作業になるだろう。三浦さんの場合は「アルビノ」が作風に大きく影響しているから、重要なテーマなので武器屋さんの取り組みには大いに感心が高まるのである。 武器屋さんの「アルビノについての(略)ブログ」より 三浦哲郎の遺伝の知識 ・2013.1.29三浦哲郎⇒は、遺伝について、なかでも特にメンデルの法則についてどこでどのように知識をえたのか気になってたので、簡単に調べてみました。 1977(昭和52)年に『海』に発表した、そのものズバリ「メンデルの春」という随筆があります。単行本の『おらんだ帽子』に収録されてますが、文庫版の『おらんだ帽子』には入ってません。高校生だった三浦の長女がコタツで『生物I』の教科書を読んで復習している場面から始まり、様々な回想が続きます。娘との会話のなかで、三浦はメンデルの法則について学校で習ったと話しています。 「お父さんたちも習った?」 「勿論、習った。」 「今でも憶えてる?」 「……自分に関係のあることだけはね。」(三浦 1977: 221-2) 三浦は、1943(昭和18)年、12歳のときに旧制の青森県立八戸中学校に入学し、学校制度がめまぐるしく変わるなかで中等教育を受け、戦後の1949 (昭和24)年、18歳のときに新制の青森県立八戸高等学校を卒業し、早稲田大学に進学しています。学んでいるとしたら中等教育だと思います。 旧制中学の教授要目では、1911(明治44)年の改正から生物の進化にふれるようになり、教科書によっては遺伝を扱うものもありました。教授要目に「遺伝」が明記されるようになったのは1931(昭和6)の改正からで、一般理科の生物通論のなかに「遺伝・変異・品種改良」という項目が加わっています。さらに1942(昭和17年)の改正では、旧制中学の5年生の生物の「遺伝法則」においてメンデルの法則を通じて遺伝の原理を理解させることが示されたほか、新たに「優生」という項目も加わります(鈴木・原田 1990b: 76-7)。 また戦後、1948(昭和23)年に文部省が新制高等学校用の教科書として『生物の科学』I〜IV巻を出していて、そのIII巻に遺伝のしくみが含まれています(鈴木・原田 1990c: 55)。この年から1955(昭和30)年までに出された高校生物の教科書では、多くが人の遺伝について節を設けて解説しています。また優生学について紹介し、具体的な遺伝性疾患の名前をあげているものも結構ありました。でも、昭和30年代になると身体障害に関する露骨な表現は控えめになって、具体的な遺伝性疾患としてあげられる名前も少なくなったようです(鈴木・原田 1990c: 57)。このへんの移り変わりは遺伝学啓蒙書と似てますね⇒。 三浦が、中等教育のなかでメンデルの法則を学んだのは間違いなさそうです。三浦が実際に使った教科書まではわかりませんが、優生学的な関心から具体的な遺伝性疾患の名前をたくさん列挙したものだったと思われます。1960年代頃までの遺伝学の啓蒙書において、アルビノは常染色体劣性遺伝の代表格のように扱われていましたから⇒、教科書にも同様に登場したのではないでしょうか。中学生・高校生だった三浦少年にとって、自らに流れる「亡びの血」が、遺伝現象という科学的な知識によって裏付けられたと言えるかもしれません。 ついでに三浦の次姉についても簡単にふれておきます。 「メンデルの春」では、次姉と同じ女学校に通っていた従姉についての回想があります。その従姉が三浦に、次姉が女学校でメンデルの法則の「劣性遺伝のことをおそわって、ひどいショックを受けたみたい」と告げたことがあるそうです(三浦 1977: 209)。また、『白夜』においても、次姉をモデルにしたれんが、夏休みに行われていた進学希望者のための補習講座の最終日にメンデルの法則について学び、知り合いの女医に遺伝に関する本を借りに行く場面があります(三浦 1989: 214-40)。三浦自身も、次姉が自ら命を絶った動機は、失恋や受験の失敗などもあるかもしれないが、「一番の原因というのは、やっぱり遺伝に関する恐怖だと思います」と述べています(三浦・武田 1986: 129)。 次姉が中等教育を受けたのは大正末から昭和初期なわけですが、そこでメンデルの法則を学んだかどうかはよくわかりません。まず明治から大正にかけては、学校教育において遺伝の取り扱いはかなり小さく、ダーウィンは紹介してもメンデルはあんまり出てきませんでした(鈴木・原田 1990a: 20-1)。1903(明治36)年に制定された高等女学校教授要目では、理科は中学の教授要目に比べて内容も簡単で遺伝については扱われていません(鈴木・原田 1990b: 76)。先に見たように、中学の教授要目に遺伝が明記されたのは1931(昭和6)年です(ただしこれは、中学の教授要目であって、高等女学校の教授要目がどうだったかは不明です)。 で、三浦の次姉が自殺をしたのも1931年です。正規の学校教育で次姉がメンデルの法則を学ぶ可能性は、弟の哲郎に比べればずいぶんと小さかったはずです。でも、進学希望者のための補習講座ならばありえたかもしれません。また、個人的に知人から本を借りることもできたでしょうから、知っていたとしてもおかしくはありません。 歴史的な、あるいは科学的な事実と、作品としての整合性とが一致しなくてもいいと思うし、事実に固執するあまり作品としてのよさが損なわれるようでは、なんだか本末転倒な気がします⇒。重箱の隅をつつくような議論をしておいて、アレなんですけど。 参考文献 三浦哲郎, 1977,『おらんだ帽子』新潮社. 三浦哲郎, 1989,『白夜を旅する人々』新潮社. 三浦哲郎・武田勝彦, 1986,「白夜をゆく家族たち」『知識』50: 124-31. 鈴木善次・原田智代, 1990a,「遺伝教育の歴史(1) 中等教育における遺伝・進化」『遺伝』44(3): 18-21. 鈴木善次・原田智代, 1990b,「遺伝教育の歴史(2) 中等教育における遺伝・進化」『遺伝』44(4): 76-9. 鈴木善次・原田智代, 1990c,「遺伝教育の歴史(3) 中等教育における遺伝・進化」『遺伝』44(5): 55-8. |
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こういう研究は貴重ですね。
ご紹介ありがとうございます。
2013/2/7(木) 午後 8:19 [ pap*k*man ]
記事の転載を快諾して頂けるので有難いです。
何しろ、Blogは記録に残るし、何よりもデータ検索ができるのが便利で有難いツールなので、できるだけ文字に起こして残すように心がけています。
2013/2/8(金) 午前 0:05 [ oki*_ ]