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二戸市にゆかりのある三浦哲郎氏にとって同じ文壇界の直木賞作家・渡辺喜恵子さんや瀬戸内寂聴さんは古くからの友人で、共にこの二戸にご縁のある人達である。
瀬戸内寂聴さんは二戸市名誉市民、天台寺名誉住職である。そしてこの度、2006年度の文化勲章を受章したので、祝賀会が12日に二戸市内のホテルで開催された。約270人が出席して瀬戸内さんを祝福し、天台寺復興や地域振興に尽力した功績に感謝した。それに先立ち8日には都内のホテルで祝う会が開かれ、1,000人もの人たちが集まったそうだ。
岩手日報社 記事→ http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20070213_5
文化勲章は作家にとって最高の栄誉の一つであり、普通は、まず日本芸術院会員になり、数年後に文化功労者、更に数年後に文化勲章というステップを踏むのだそうだが、瀬戸内さんは芸術院会員では無いのに今回受賞できた。野間文芸賞を受けたこともある瀬戸内さんが会員になれないのは、芸術院の会員から入会を拒まれているかららしい。どうもそれは、新人時代の作品「花芯」が“ポルノ小説”と批判を受けたことに起因するらしい。
三浦さんが東銀座の歌舞伎町裏にある雑誌社に勤めていた頃に、瀬戸内晴美(寂聴)さんの原稿を貰いに何度か行っていて、その時のエピソードを随筆に書いている。
《瀬戸内さんの原稿は、何度か新橋の第一ホテルへ貰いにいった。実をいえば、瀬戸内さんとわたしとは、おなじ新人賞を貰った仲間なのである。わたしは、その新人賞の第2回の受賞者で、瀬戸内さんは第3回の受賞者であった。ところが、すでに瀬戸内さんはホテルで仕事をするような売れっ子の作家で、わたしの方は、ちっぽけなPR雑誌社の社員であった。
瀬戸内さんは、わたしの名前は知っているはずであった。だから、わたしが会社の名刺を出したとき、すぐにわたしの正体がわかったはずであった。けれども、瀬戸内さんは、すこしもそんな様子は見せずに、知らぬ顔をしてくれていた。それは、いってみれば武士の情けのようなものだろう。わたしも新人賞のことは一言も口にしなかったが、心のなかでは瀬戸内さんの思いやりを有り難く思っていた。》(『恩愛』〈わたしの白夜:一万三千五百円の頃 その一〉より)
その頃、三浦さんは会社から調布のアパートへ帰ると3畳間の机代わりの飯台で夜な夜な『忍ぶ川』を執筆の最中で、後に芥川賞を受賞したのであった。
又、瀬戸内さんからはその頃の思い出を『三浦哲郎短編小説全集 全3巻』の月報に『美青年』という題で書いていて、
《その頃、私は中野の野方に住んでいた。…そんなある日、何かのPR誌の編集者という人が私を訪ねてきた。なんの雑誌か、今はすっかり忘れているが、四,五枚の随筆を頼まれた。その編集者は見るからに若若しく、まだ学生っぽい人で、どきんとするほどの美青年であった。自分が不器量なので、とかく私は面喰いで美男に弱い。その場で私は原稿を引き受けた。…三浦哲郎というすっきりした名前が、いかにもその人物にふさわしいと感心したことを覚えている。恥ずかしがりやのようで要件を言うのがやっとという感じであったが、その人は私が引き受けるともう話がなくなり、すぐ席を立った。まだ学生でアルバイトにこの仕事をしていると言ったように思う(記憶違いだろうか)。何れにしろ、その仕事がアルバイトというのだけは印象に残っていた。…その原稿は、私が新橋の第一ホテルにいる時、取りに来てくれた。…それから、半年ほどして、私は芥川賞をとった若い新人の名前と写真を見て飛び上がった。
それがあの美青年の三浦さんだったのである。
何となく、私はだまされたような気がしたが、嬉しかった。考えてみれば、私は芥川賞の候補にもなっていないで新潮同人雑誌賞をもらっただけの時だったから(田村俊子賞はもらっていたかしら)大いに嫉けて、悶えてもいい筈なのに、ほんとに心から嬉しかったのを覚えている。 云々…》
と、お互いの出会いの場面を語っているのである。
瀬戸内さんのその後の文面で、三浦さんの人柄をとても上手い文章で現してくれているが、それについては何れ又の時に紹介することにしたい。
因に小説『夜の哀しみ』(文庫本)の解説は瀬戸内寂聴さんが書いている。
ブログ訪問者のki1ta2 さんが、それについて触れているので覗いて見て下さい。
blog【文藝と哲学的随想】 喜多圭介
三浦哲郎著『夜の哀しみ』
作成日付 2007/2/14(水) 午前 8:04
http://blogs.yahoo.co.jp/ki1ta2/44794709.html
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