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一昔前には、先日の『駅からハイキング』のように、IGRいわて銀河鉄道の「金田一温泉駅」から温泉郷までは、歩いて通っていたものです。
三浦さん家族が湯田に住んでいた昭和20年から28年頃は、旧金田一村の「金田一駅」で、木炭や家畜などの荷積用の貨車置場がありました。
軽米方面や青森県境の名川の人々や湯治客などもこの駅を利用していて、バスの発着も頻繁で、県北の主要駅として賑わいを見せていたようです。
三浦さんは、昭和二十年の冬休みに初めて、この金田一駅に降り立ち、暗くなった道を湯田の家族が住む家に向かって一人歩きました。馴れない道なので心細くて、何度も後ろを振り返りながら歩き、とても遠く感じられたそうです。
15歳頃のことですから、家族の住む家の明かりが見えた時の心境はどんなものだったでしょうか。
当時、家族と離れて八戸で下宿生活をしていた三浦さんは、休みには列車に乗って金田一まで帰ってきていたのでした。
大学受験のために上京する時にも、この駅で夜行列車の切符を買い、その足で郵便局に寄って東京の兄に乗る列車を知らせる電報を打ったそうです。
兄が失踪したために父親から言われて東京から戻った時もこの駅に降り立ったのです。
文学の道を志し、再び早稲田大学の受験に向かう時も、合格して再入学のために旅立つ時も、この駅から列車に乗って行きました。
『忍ぶ川』の終わりに新婚旅行のまね事の一泊旅行に向うために一戸の駅から列車に乗り、近くの鄙びた温泉場へ向かいます。その物語は『初夜』へと続き二人はこの駅で下りると、馬一頭やっと通れるほどの道を通って湯宿に向うのです。
今は鉄筋コンクリート造りで、昔の木造の駅舎の時の面影は無くなりましたが、三浦さんは幾度もこの駅から旅立ち、この駅に降り立ちました。その時々の思いは強く心に刻まれているのでしょう。
出稼ぎ家族の駅での別れや出迎えの情景描写などが出てくると、私にはこの駅舎での情景が浮かんできてなりません。
有難いことに、その他にも数々の作品に、この駅を題材にした場面や情景が描かれています。
IGRいわて銀河鉄道の大内部長さんたちにも、この価値を知って頂いて、『金田一温泉駅と三浦文学』の確立に努めて頂けることを期待したいと思うのです。
私が子供の頃の駅舎の脇には、大きな合歓木(ネムノキ)があり、夏の日差しに奇麗な花が揺れていたのを思い出します。
いつの日か、小っちゃくて良いから、出稼ぎ家族が送り迎えをしたころの木造の田舎の駅舎を再現できたら良いなぁと思うこの頃です。
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