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短篇小説『でんせつ』も、金田一温泉郷にゆかりの作品と思える。
《まことに唐突なこってすが、おおむね辺鄙な地方を郷里に持つ者ほど、尾籠な話を好む傾向がありゃんすようで。
(と、東北もずっと北の方の、これまた草深い谷間の村の出身で、そこを出てきてからそろそろ二十年にもなろうというのに、いまだに時として言葉尻に田舎訛が顔を出したりするM君が、好物の、蕎麦湯で割った焼酎をちびりちびりとやりながら、訥々と語る。)
もちろん、かくいう私とて、例外ではありません。私は、幼児からこの種の話に馴染んでいました。といいますのは、私の郷里に語り継がれている昔話には、どういうものか、おならや糞尿に関わるものがすくなくないからです。話好きの祖母に可愛がられた私は、いわばそんな尾籠な話にまみれて育ったようなもので、いつの間にやら、話に出てくる鬼や、妖怪や、山姥や、野放図な人間たちがしばしば排泄するおびただしい汚物にも、それほどの不潔さは感じなくなっていました。
北の谷間では、大人も子供も糞尿譚(スカトロジー)が好きでした。それは、最も自然な哄笑の種として年中これといった話題もない単調な村の暮らしにはなくてはならないものだったのです。
こんな齡になってからは、さすがに関心は薄れましたが、いまでも嫌いではありゃんせん。もう口にはめったに出しませんが、正直いって糞尿譚には相変わらず祖母のふところのようなぬくもりと親近感を抱いております。何年か前、谷間の幼友達のひとりと偶然ひさしぶりに再会し、まずは一献傾けながら思い出話に耽っているうちに、いつしか尾籠卑猥の領域へ足を踏み入れていたことに気がつき、二人ともどぎまぎしながら、ほんに三つ子の魂百までとはよくいうたのう、と苦笑を洩らしたことでした。…》
そして、かつて禄高二万石の城下町だったという在所の隣町に語り伝えられている陰気な怪談もどきの薄気味悪い糞尿譚を紹介している。
それが〈赤手コの話〉という、でんせつなのである。
《現在の隣町の中心部にある高等学校のグラウンドの隅に、樹齢百数十年といわれるサイカチの巨木があって、葉の乏しさが目立つようになった大枝小枝が柵の外の街道の空を広く覆っていたのですが、地面に接している幹の部分はもはや子供なら三人は同時に入れるくらいの空洞(うろ)になっていて、実は、赤手コはその空洞のなかに出没するのです。……》
と、このでんせつの話を展開しているので、あとは、本を読んでのお楽しみとして、ここに登場する隣町の高等学校とは福岡高校とも思えるが、果たしてグラウンドの隅に、このようなサイカチの大木はあるのだろうか。
そしてこの〈赤手コの話〉でんせつも実在するのだろうか。
昨日の『お菊』につづいて怪談の話になった。
このような話に「祖母のふところのようなぬくもりと親近感を抱く」のは同感である。
因みに、『でんせつ』〈赤手コの話〉は『短篇集モザイク-2 ふなうた』に収録されている。
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