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先日の3月例会に参加できなかった栗山会員が、今月の例会の研究テーマである『春』について、自分の思いを私宛にメールに綴って送ってくれていたので、例会の時に代読させて貰った。
その文をここに公開します。
「春」と言えば
2008年3月7日 20:53:43:JST
会員:栗山
春と言えば、直ぐに浮かぶのが「春は曙。やうやう白くなりゆく山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」に始まる『枕草子』を思いだしますが、三浦哲郎文学の中から春を見つけるとなると、全作品を読まなければならない。
しかし、三浦文学の中に、沢山の春が書かれている。特に書き始めの文章の中に、その傾向が強いと
感じる。勿論春ばかりでなく、その季節季節を織り交ぜていて、読み方にしては非常に季節感を感じる文章であると思います。
「みちずれ」の中の『ひがん・じゃらく』の文頭に、
《この春もまた、彼岸の入りは、夜明け方から蒼黒い雲が低く垂れこめて生暖かく、どうやら例のじゃらくの気配で、いまのうちに、凍てついた道が解けてぬかるみにならないうちにと、早起きして墓参を済ませることになります。北の地方では、毎年、春の彼岸
になると、きまって一夜の風雪に見舞われるのがならわしである、なんでも、シベリアに居座っていた寒気団の衰えに乗じてやってくる温帯低気圧とやらの仕業だといういうことが、日中の雨が暮れ方から霙に変わり、夜には濡れ雪になり、東南の風も募って一と晩中吹き荒れるという、まるで年中行事のような春の嵐で、土地ではそれを昔ながらに、「ひがん・じゃらく」と呼んでいます。》と書かれている。実に観察が細やかで、実体験していなければ表現出来ない文章だと感じました。
最近は、気象の変化や舗装がなされていて、このような条件にはなかなか行き当たらなくなりましたが、この言葉は、この辺の方なら誰でもが識っていた、気象条件でありました。つまり、死語となりゆく言葉の一つでしょうか。
もう一つ、『みちずれ』の中で、「ハルリンドウ」の文頭に《今朝、起きぬけの散歩の折りに、近くのほとりの日溜まりでハルリンドウの群落を見つけた。水路に添った細道の、うっかりすれば踏み潰してしまいそうなすぐそばに、ひとかぶに十センチほどの茎を数本立てて、淡い紫色の花弁十枚の可憐な花を咲かせている。》とある。このハルリンドウは、信州八ヶ岳の
もので、私たちの雑木林の日当たりの良い場所にも、よく見られますが、半分の5センチにも満たない小さな丈で、可憐に咲いています。
春からずれますが、『じねんじょ』の中に、山繭紬のことが出てきます。私も山繭のことを山野を歩いて採取したことがある。もう20年以上も前のことです。
山繭と称する「山繭」には、数種類があるが、三浦文学の山繭は、本当の山繭です。浅黄色をもっとやわらかした色合いの「大和繭」より、ほんの少し大きくして、「天蚕繭」位の大きさで、芽吹いたばかりの山毛欅の薄浅黄色を、もっと柔らかくした透きとおるような、色合いです。この辺の山野にも探すことが出来ますが、個体数が非常に少ないので、探すのは大変です。三浦文学の中の「山繭」は、長野県での養殖繭であると思います。最近岩手県のある町(東和町だったか忘れましたが)でも、この山繭を養殖していると聞いております。
ちなみに、山繭の仲間には、俵繭、烏繭、イラガ繭、ウスタビガ繭等がありますが、紡ぐことは出来ません。春の芽吹く前まででしたら、簡単に見つけることが出来ます。
道を大きく外れてしまい失礼しました。
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