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いよいよ、山菜採り真っ盛りの季節が到来です。
どこの産地直売所でも、多種多彩な山菜が所狭いと棚を飾っていて、連休中の産直所巡りを楽しむお客さんで大繁盛のようです。
自分で採ると、どうしても欲張ってどっさり採ってしまい、また沢山食べ過ぎてしまうことになります。
そんな時には、三浦さんの顔には小さな吹出物が出るのだそうです。
家族たちは、その吹出物を〈山菜にきび〉と呼んでいて、それがあらわれると、もう限度だから残りは捨てましょうということになるのだと、随筆『山菜にきび』という作品に書いています。
この作品にはタラッポのことや、カンショ、オコギについて、見分け方や呼び名、調理の仕方などについて、詳しく説明してくれているので、山菜採りの参考になりますよ。
カンショのことを、私のところでは「キャンショ]と呼んでいましたよ。
確かに、マンサクは「福寿草」のことだと覚えていたので、木のマンサクを言われた時には戸惑いました。
同じ地方でも、ところ変れば呼び方も少しづつ違うものなのですね。
それでは、休日のひと時を割いて、皆さんにもこの名随筆に親しんで頂けるように、特別スペシャルで、全文を紹介することにしましょう。
山の幸と共に味わってみて下さい。
■『山菜にきび』(昭和58.6「婦人画報」 『春の夜航』講談社、『文集 母』世界文化社 に掲載)より
《先日、所用で郷里へ帰った折りに、野遊びの仲間に誘われて郊外の山へカンショを取りにいって来た。
カンショといえば、大方の人は、砂糖キビか、それともサツマ芋かと思うだろうが、私の郷里でカンショというのはそのどちらでもなくて、薮萱草(やぶかんぞう)の若葉のことだ。カンゾウをみちのく風に訛ればカンジョになるが、それがいつしかカンショになったのだろう。
薮萱草は、春先にフキノトウなどと一緒に小川のほとりや堤などに芽を出して、夏に濃いオレンジ色の八重の花を咲かせるユリ科の多年草だが、この若葉は食用になる。まだ日陰に雪が消え残っているころに、生えて間もない若葉を摘んできて、さっと湯掻いてしばらく水に浸しておいてから、酢味噌で和えると、たいそう旨い。
以前、郷里の老人から、春先にこれを食えば一年中悩みを忘れていられるそうだと聞いたことがある。昔からそういう俗信があるのだろう。私は、いまのところカンショの助けを借りたいほどの悩みがあるわけではないのだが、ひさしぶりにカンショの酢味噌和えで地酒が飲みたい一心で、さいわい用事が早く片付いたので、誘いに乗ってついていった。
山といっても、町はずれから車で十分ほどの農家が点在する谷間だが、日当たりのいい土手や林の縁の枯草の間から、取りきれないほどのカンショが目の醒めるような緑の頭を覗かせていた。蕾の膨らんだマンサク(郷里では福寿草をそう呼んでいる)も見つかったので、ついでにそれもまわりの土ごと掘り取ってビニール袋に入れた。
長いこと?默を屈めていたので、腰が痛くなった。日溜まりに寝そべって一服すると、煙草を挟んだ指先から初々しい草の汁が匂った。
野遊びの仲間のひとりは鮨屋の主人だから、収穫の調理はお手のもので、店に戻れば立ちどころに皿小鉢に盛られて目の前に出る。口に入れると、つんと山の薫りがする。馴れない人にはちょっと刺激的な匂いだが、この匂いがなければ山菜とはいえない。近頃は、人の手で栽培した見てくれだけの山菜が出回っているようだが、山の薫りのしない山菜などうらなりの野菜にも等しい。やはり山菜は、山から取ってきたものを、香りがうせないうちに手早く調理して食べるに限る。
これからの北の地方は、桜をはじめ春を待ちかねていた樹木の花々と山菜の季節を迎えるが、私は花よりむしろ山菜に、とりわけオコギとタラッポに惹かれて、毎年五月の連休が過ぎたあたりに、いちど郷里へ帰ることにしている。
オコギというのは、あまり人に知られていない、パセリに似た濃緑の山菜で、若いところは湯掻いて灰汁を抜いてから、包丁で叩くようにして微塵に刻み、胡桃と、とろ火で焼いた味噌も同様にこまかく刻んで、混ぜ合わせる。これを熱い御飯に振りかけて食べると、何杯目かのお代わりを思い留まるのに苦労する。
振りかけにするには育ちすぎたところは、やはり灰汁を抜いてから適当な長さに刻んで白和えにするといい。これにも、郷里の家では白ゴマの代わりに胡桃を擂って入れている。
五月になると、まず大概の山菜が町の八百屋の店先に並ぶが、このオコギだけはどこを探しても見つからない。それで、郷里の家では懇意にしている近所の婆さんに頼んで、その人がどこからか摘んできてくれるものを食べていたのだが、先日帰郷したとき、その婆さんが中風で倒れたから今年のオコギは諦めなければならないと聞かされて、落胆した。このまま婆さんが寝たきりになれば、オコギは幻の山菜になってしまう。私は婆さんの再起を願わずにはいられない。
タラッポというのは?追(たら)の芽のことで、これは山にいくらでもあるから、野遊びの仲間たちと車で取りに行く。若い芽も、伸びた若葉も、ビニール袋にどっさり取ってきて、芽の方は酢味噌和え、若葉の方は天ぷらにする。どちらもカンショに劣らす旨い。
残った分は土産にもらって、生のまま東京へ持ち帰るが、いくら自分の好物だからといって、タラッポばかりを何日もつづけて家族に勧めるわけにはいかない。それで、一と通り食べたあとは冷蔵庫に貯蔵しておいて、すこしずつ酒の肴にすることになるが、何日かすると、私の顔のどこかに、一つか二つ、小さな吹出物があらわれる。
家人たちは、その吹出物を〈山菜にきび〉と呼んでいて、それがあらわれると、きまって、もう限界だから残りは捨てましょうという。仕方がない。私も、いい歳をして、にきび面になるのはみっともないから、冷蔵庫のタラッポたちに。また来年、と分れを告げる。》
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