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やはり当地では「キャンショ」と言っている。
今朝、早起きラジオ体操会の帰りに、高齢の会員の人達に「カンショ」のことを話したら、「サツマ芋のことかい」と、三浦哲郎さんが書いてたのと同じことを言われた。「甘芋(かんしょ)」と書いてこの辺でも、サツマ芋のことを「カンショ」と言っているそうだ。
山菜の「カンショ」だと、みんなに聞き直したら、口を揃えて「したら、キャンショのごどだべぇ」と言いながら、一人の老婦が道端に目をやり、「そら、そごさある草っ子ぁ、ほんだべぇ」と言って、中学校通りの坂道の道端なのに。思わず見つけた山菜を勿体なさそうに、採って持ち帰って行った。
思いもよらぬところで「キャンショ」の実物を見ることができた。
確かに、この手の山菜は産直所や店ではお目に掛かったことが無い。
年寄りの人達は物知りで、今は殆ど使わなくなった山菜の呼び名も、思い出したように次から次へと話題になる。
「あんた、スキャンコは知っているべぇ?」と聞かれたが、それは子供の頃、野道で見つけては、生のまま噛って遊んでいたことがあるので分かったが、この「スキャンコ」の正式な呼び名は判らない。
昨日の『山菜にきび』と同じような内容の随筆が『春の匂い』という題で『一尾の鮎』に掲載されている。
とても味わいのある名随筆なので、連休スペシャル第2弾として、全文を紹介しよう。
■『春の匂い』…『一尾の鮎』(1990.平成2.11.30講談社発行)より
ゆうべ、カンショで一杯やった。
カンショには、北の春風の匂いがする。その匂いに誘われて、つい、酒をすごしてしまった。
カンショといっても、なんのことだかわからぬ人が多いだろう。サツマイモのことかと思う人がいるかもしれない。また、カンショはサトウキビの別名でもあるらしい。
けれども、よほど物好きなひとでなければ、サツマイモやサトウキビを肴にして酒を飲んだりはしないだろう。
北の私の郷里では、春、雪解けが済んだ野山の、日当たりがよくて、しかもいくらか湿り気を帯びている土地に自生する萱草(かんぞう)のことを、訛って、カンショと呼んでいる。この萱草(多分やぶかんぞうという種類だと思う)の若葉は、私の郷里では春の山菜の一番手だということになる。
残緑の、縁にぎざぎざのない細長い木の葉を縦に二つ折りにしたような柔らかい数枚の葉が、外側のものから順に相手を包み込むようにしながら地面に低く生えている。ちょうど若い葱の先っぽに似ている。
そいつを小刀のようなもので根元から切り取ってきて、よく水洗いをし、さっと湯掻いてから、芥子(からし)をすこし入れた酢味噌で和えると、いかにも春らしい、こざっぱりとした酒の肴になる。
ゆうべは、カンショの次に、ヒロが出てきた。これもまた田舎流の呼び名で、ヒロとは野蒜(のびる)のことである。野蒜は、道端や畑のふちに生える葱の子供のような山菜だが、これはビー玉ほどの白い球根と緑色の細い茎に、身欠き鰊(にしん)を刻んで入れて、味噌と少々の砂糖で煮詰めると美味しい。
断っておくが、私はいくら山菜好きでも、人工栽培のインチキは食べない。山菜は、なんといっても香りが命だが、山に自生したものが正真正銘の春風の匂いを誇らしげに発散するのに対して、人工栽培の山菜の弱々しい色彩、おずおずとした匂い、それに、あの面目なさそうな姿は、どうだろう。
私がゆうべ酒の肴にしたカンショも、ヒロも、北国の春山に自生したものであることはいうまでもない。それでは、なぜ東京の我が家の台所に本物の山菜があるのかというと、郷里に山歩きの得意な知人がいて、その人が四季折々の山の幸を時々慰問袋のように送ってくれるからである。
おかげで、私は、都会で暮らしていながら、春は彼が送ってくれる十数種にも及ぶ山菜から、郷里の春風の匂いを存分にかぐことができるのである。
今年の山菜の第一陣には、おまけとして、彼が山の日溜まりから自分で掘ってきたという蕾ばかりの福寿草が、十株ばかり混じっていた。私は、それらを日当たりのいい食事室の窓の下に植えたが、数日すると、十株すべてが鮮やかな黄色の花を咲かせた。
そこから本物の春が匂ってくる。私はそっと窓を開けさえすればいい。
今度は野蒜のことで、三浦さんは「ヒロ」と書いているが、当地ではもっと訛って「ヒョロンコ」と呼んでいる。緑の茎を持って、ビー玉状の球根に甘味噌をこすり付けて生のまま御飯と一緒に口に入れると、もっと澄んだ春の味と匂いがするのです。
三浦さん宅では、今年も郷里の春風の匂いを存分に嗅ぐことができたのだろうか。
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