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※この記事は、信州「市民タイムス」http://www.shimintimes.co.jp/ の『熊井啓への旅』を、許可を得て掲載するものである。

熊井啓への旅

忍ぶ川-8

原作に劣らぬ味わい
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kumaikei/kuma25.html

 映画「忍ぶ川」はすべてのカットの撮影を終え、完成に近づいた。一つ一つのシーンに熊井啓を始め、俳優、スタッフの力が込められ、神経が配られているが、いかに熊井が細かいところまで気を遣い、完璧(かんぺき)を目指したかがわかる個所がある。
 主人公の哲郎が学生寮の自分の部屋で夜、手紙を書く場面。本棚が一瞬映し出される。そこに『吉江喬松(たかまつ)全集』が収まっているのだ。吉江は塩尻村(現・塩尻市)長畝(ながうね)の旧家出身の詩人でフランス文学者、号を孤雁(こがん)と称した。フランスに留学し、帰国後、新設された早稲田大学仏文科の教授を務めた。
 小説『忍ぶ川』を書いた三浦哲郎は早稲田大学を中退後、郷里に帰って中学教師になるものの、早稲田に再入学し、仏文科を卒業している。映画の主人公も早稲田仏文科の学生と思われるから、本棚に吉江喬松の本はふさわしいのである。
 吉江家の現当主は、熊井啓の松本中学(現・松本深志高)の一年後輩で、元高校教諭の吉江嘉教(よしのり)さん(77)。吉江さんは松本の映画館で「忍ぶ川」を見たとき、あっと思った。「全体のカメラワークがきれいで、最後の馬橇(ばそり)の鈴の音(ね)なんかは詩的で良かったけど、あそこに吉江の本を入れるところなんか、さすが熊井さんだ」と脱帽した。
 「忍ぶ川」完成から二年、熊井は、すでにかなり取り壊され、残りも壊されようとしていた旧制松本高等学校校舎の保存運動に取り組む。その際、残った校舎を見て回るのだが、近くの松本県ケ丘高校に勤めていた吉江さんはお供をした。「熊井さんは校舎のあちこちを写真に撮って、何が貴重か教えてくれた。研究熱心で、繊細で、思いやりのある人だった」と懐かしむ。
 「忍ぶ川」は、哲郎と志乃が裸のまま一枚の毛布にくるまり、廊下の雨戸を細めに開けて馬橇の鈴の音を聴くクライマックスが確かに印象深い。
 雪国の静けさの果てから鈴の音が響いてくる。志乃は「何の鈴?」と聞き、哲郎が「馬橇の鈴」と答えると、さらに志乃は「馬橇ってなあに?」と尋ねる。「馬がひく橇のことだよ。在(ざい)のお百姓が町に出て、焼酎(しょうちゅう)飲み過ぎて、いまごろ村へ帰るんだろう」「あたし、見たいわ」となって、ふたりは起き上がり、廊下に出る。馬橇はりんりんと、月の光が冴(さ)え渡る雪の上をこちらに近づいてくる。
 映像は雪を蹴(け)る馬の足や激しく揺れる鈴をアップでとらえ、高まる鈴の音が二人の真情にこだまする。今日からは一人ではない、愛する人と一緒に歩む、歩めるという幸福感。原作は志乃が寒さで震え出し、主人公の私が「さ、もう寝よう」と促して眠るが、映画はここから再びふたりの営みが光芒(こうぼう)の中で美しく描かれる。
 合間合間に、海猫が声もなく群れ飛ぶシーンがはさまり、営みは次第に激しいものになってゆく。海猫の荒々しい乱舞が、ふたりの愛と再生をイメージしているかのようだ。

 「忍ぶ川」は、ふたりが一泊の新婚旅行(温泉)に行く汽車のシーンで締めくくられる。山間(やまあい)の寂しい雪景色の中を汽車が走り、トンネルを抜け、再度雪景色となったとき、志乃が「あっ、見える、見える」と大きな声を出し、哲郎が「何だ、何が見えるんだ」と問うと、「家(うち)が! あたしの家が!」と言う。志乃は生まれてこのかた家らしい家に住んだことがなく、好きな男と結婚して持てた家を見つけて心底うれしかった。
 映画ではふたり頬(ほお)を寄せてそれを眺めるが、原作の最後はこうである。「ふと気がついてみると、初荷をはこぶ行商の人たち、年始まわりの着飾った人たちが、口をつぐんで、私と志乃にものめずらしそうな目を注いでいて、私は、うんうんと志乃にうなずきながら、身のまわりがやたらにまぶしく、赤面した。」
 原作を読んだ後に映画を見ると、失望することが多い。原作のきめ細かさ、作品全体からにじむ味わいが、二時間の映像では表現し切れず、平板なものになってしまうからだ。だが、映画「忍ぶ川」は原作に劣らず味わい深い。
 日本がまだ貧しかった時代の、自分自身に正直に生きようとする若い男女の一途(いちず)な愛がモノクロームで端正に彫り込まれ、清らかでありながら甘美、慎(つつ)ましくも熱い。
 熊井啓十九作品の中で「忍ぶ川」が一番好き、という人は多い。


 文\赤羽康男




熊井啓の経歴
 熊井 啓(一九三〇−二〇〇七) 映画監督。豊科町(現・安曇野市)に生まれ、松本市で育った。松本中(現・松本深志高)から松本高等学校に入学、新制の信州大学理学部を卒業した。独立プロの助監督を経て日活撮影所監督部に入社、助監督後、「帝銀事件・死刑囚」で監督デビュー、骨太な社会派監督として活躍した。「海と毒薬」でベルリン国際映画祭審査員特別賞(銀熊賞)、松本サリン事件を題材にした「日本の黒い夏−冤罪」でベルリン国際映画祭特別功労賞など受賞多数、紫綬褒章も受けた。主な監督作品に「黒部の太陽」「忍ぶ川」「サンダカン八番娼館・望郷」「深い河」ほかがある。



二人が汽車で新婚旅行に向った温泉が、ここ金田一温泉郷なのである。

この物語りは小説『初夜』に続けて描かれていて、泊まった宿は、3年前に廃業して今は無い「神泉館」(通称:古湯)のことで、この宿のことは『白夜を旅する人々』など多くの作品に描かれているのである。

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