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三浦哲郎氏は私小説作家として有名である。
このことは終始一貫している。
そのことについて葛藤している自分を書いた随筆が『熱い雪』の中に『私と私小説』と言う題で掲載されていた。
『忍ぶ川』で芥川賞を受賞した翌年の昭和37年12月に書かれたものだから、随分初期の頃のことである。
昭和29年に、始めての小説『誕生記』を同人誌〈非情〉創刊号に発表してから8年経っていた。
それまで三浦さんが発表した作品の大部分は〈私〉を主人公にして書いてきた。
周りからはそれを私小説と言われ、賛否の批評を受けるのだが、自分はなにも私小説に拘って書いている訳では無い。自分の書きたいことを自分の気持ちに最も即した方法で書こうとしているので、自分の取るべき道は、それ以外に考えられないのである。
当時、新人作家が世に出るには、戦後青年の行状を荒いタッチで描出する小説のような、人の度肝をぬく作品を書かないと売れないのに、それでも〈私〉に拘った作品を書き続けているので、周りから色々と言われ、自己問答するのである。
《…私は、先ず書きたいことを力して書きたい、鬼面人を驚かすくらいの作品なら、その気になればいつだって書けるという肚で、相変わらず頑固に〈私〉とつきあっていた。そのために私は収入の道は全く閉ざされ、極度の貧窮に陥って都落ちを余儀なくされたりしたが、どうするわけにもいかなかった。それほどかたくなに、私は〈私〉にこだわっていたわけではなく、それほど深く私を捕らえた〈私〉から遁れることができなかったのである。私は六人きょうだいの末弟で、兄が二人、姉が三人あったが、私の子供のころ、兄の一人が失踪し、姉の二人は自殺した。そんな生立ちの環境が、子供心にも染みたのである。私は町の人たちに見つめられている自分を感じた。そして、彼らのまなざしのなかに〈私〉をみた。〈この私〉とわたしは思い、そんな〈私〉を嫌悪し、呪った。〈私〉との無邪気な闘いがはじまった。すでに私は〈私〉に捕らわれていたのである。
けれども、私にはまだ救いがあった。次兄がのこっていたからである。私は心から彼を頼っていた。父母も、姉の一人も、この兄を頼っていた。ところが、この兄が私の二十のとき、突然原因不明の失踪をした。
〈私〉は、もはや心にあまった。〈このきょうだいたち〉と深く想う反面、〈この私〉という意識も強まって、それが〈のこされた者〉の自覚につながった。のこされた者はどう生きねばならぬかに、私は思いをこらした。私には、彼等とおなじ血が流れている。しかし、私には彼等とちがって、もはや血にいざなわれて逸脱する自由もないのである。そして、私は自分の血を手懐けなければならない一方、彼等の無惨な生涯に到底無関心でおれないとすれば、いっそ彼等を抱き寄せて、彼らの滅びざまを仔細に点検しながら、その生ぐさい収穫を私が生きのびるための糧にしようと私は思った。
私は、厳密な意味で私の書くものが〈私小説〉といってよいかどうか、自信がない。私は切実な問題を語るに逸って、私小説の方法を借りているだけではないのかという気もする。この疑いは、自分の安易さを戒めるためにも、つねに心に置いている。実際、私小説の先輩たちの澄んだ名品に接するたびに、私は自分が永久に私小説志願のままで終わるのではないかという気がするのである》
この信念が、その後の多くの作品に引継がれているのであり、三浦さんの原点なのである。
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