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今年も真夏の強い陽射しが照りつける終戦記念日を迎えた。
例年のごとくテレビでは、多くの国民が終戦を伝えるあの玉音放送を聴く場面が映し出されている。
それを見ていると《たった一度だけ、遺書を書いた経験があります。…》で始る『十五歳の周囲』(『遺書について』を改題)のことを思い出さずにいられない。
この作品には、三浦さんが終戦を迎えた時のことが描かれているのである。
それは15歳の時のことだった。
八戸が艦砲射撃に遭い、九死に一生を経て遺書を認めた。それから10日して終戦を伝えるラジオ放送を聞いたという。
その時には、お母さんとお姉さんは金田一の湯田に疎開していた。
終戦を迎えたあとのことは『おりえんたる・ぱらだいす』に詳しく描かれている。
三浦さんは戦争を御国のために華々しく死んで行くものだと思っていて、戦闘機に乗る夢を抱いて少年時代を送ったという。
戦争を経験したものとして多くの作品に戦争のことを描いて残してくれている。
『剥製』(1970.S45.7.15.河出書房新社発行)という本にはそのような作品が5題収録されている。
『冬の狐火』(『白い断章』を改題)
『青い断章』
『火の中の細道』(『娼婦の腕』を改題)
『非情の海』
『剥製』
である。
この本の〈あとがき〉にその思いを次のように綴っている。
《 終戦のとき、私はかぞえ年十五で、旧制中学の三年生であった。兵士として戦場へは出なかったが、戦時教育で鍛えられた筋金入りの軍国少年であり、軍事教練で武器に親しみ、勤労動員で要塞構築に参加し、米軍機の空襲下で一再ならずこれが最期かと観念した経験をもつ。戦中派というには稚なすぎ、戦後派というには戦争の匂いを知りすぎている、谷間の世代の一人である。
戦争中、私は飛行兵志望で、終戦のその日まで受験の準備に没頭していた。もしも戦争が後3年長引いていたら、私もまた「青い断章」の桂のように、蕎麦の花のまぼろしを抱いて死地へ赴くことになったかもしれない。そのころの私は、いずれ飛行兵にはなれなくとも、自分には二十三歳以後の人生などありえないと思っていた。二十になれば徴兵検査がある。たとえ、兵士になって23歳まで生き得たとしても、あるいは「冬の狐火」の音次や「火の中の細道」の櫟のような運命を辿ったかもしれない。
私は今でも戦争中の夢を見ることがあるが、そんな夢といえば、どれも決まって自分が死場所へ向って駆け出すところで終るのは、あのころ、毎晩のように寝床のなかでさまざまに思い描いた自分の死にざまの残像が、いまだに私の中に生き延びているせいであろうか。
この本には年少の兵士たちや、女子挺身隊員たちの束の間の春を描いた作品を集めたが、私には、彼らの辿った生涯がとても他人事だとは思えない。彼等は、もしあの突然の終戦がなければ私自身が辿ることになったかもしれない短い生涯を生きたのであり、そういう意味では、彼等の一人一人が、まぼろしの私自身に他ならないからである。…》
他にも私のお気に入りの『ある外套の話し』など、戦争のことを後世に伝え残す記録として受け継がれて行くものを書いてくれているのである。
いったい「日本も核兵器を持つ国にする」と言うような総理大臣をだれが選んだのか。
戦争は絶対にやってはいけないのである。
三浦さんが書き残しているこのような作品のことを思い出しながら、このところ毎日続いている戦争を語るテレビ番組を見て過している。
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