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■画像:熊井啓監督著『映画を愛する』(近代文芸社 1997.H9.10.10発行)
以前に、八戸の立花さんの所で見せて頂いてから、ずーっと読んでみたいと思っていた本を年末にネットで見つけて購入した。
それは、映画『忍ぶ川』の監督熊井啓さんが書いた『映画を愛する』という本である。
この本には、他に手掛けた映画のことも書かれているが、『忍ぶ川』の映画ができるまでのことが、写真入りで詳しく書かれている。
巻末にはシナリオや映画の場面表、撮影日録、スタッフ、キャスト、シネマノートまで付いているから、映画『忍ぶ川』の全てが分ると言っても良い。
2007年5月に他界された熊井監督は、生前に命を失いかけたことが4回あったそうだ。
そうした中で作った多くの作品の中で、一番思い出ぶかいのは『忍ぶ川』だったという。
監督がそんな病気で入院中に三浦さんの本に出会って、取り憑かれたように脚本を書き上げてから、映画化に行き着くまでの長い間の紆余曲折の道程の話しにも感動させられる。
そして、この映画の撮影中にも4度もダウンして入退院を繰り返しながらの撮影だったと言うから、熊井監督のこの作品にかけた執念を感じる。。
この映画は、信じがたいほどの低額予算で、大変苦労して作られたそうだ。
吉永小百合が降板して、三浦さんが推薦した栗原小巻になった話しや、撮影時のさまざまな苦労話しや、出来事など、大変興味深い話しが一杯詰まっている。
試写会の時の印象深い出来事も書かれているので紹介しよう。
《 5月6日より連日試写会、キャンペーンが始った。実は8日に、松本にいる私の母が脳軟化症で倒れ、入院した。だが、キャンペーンをやめるわけにはいかなかった。封切りまでが、監督の仕事なのだ。
5月16日、午後6時、東宝本社試写室で、黒沢明監督と三浦哲郎ご夫妻に「忍ぶ川」を見ていただいた。黒沢氏とは、「どですかでん」のころ、私の次回作は必ず見てくださるとの約束があったので、撮影所製作宣伝課長の林醇一氏をわずらわしてお願いすると、快く出てきてくださった。
とくに、この夜を選んだのは、三浦夫人が、「おおぜいのジャーナリストや批評家のみなさんといっしょに見るのは気恥ずかしいから、封切り後にどこかの劇場の隅でこっそり見ます」とのことだったので、それではあんまりだと、特別に宣伝担当の黒沢英男氏の計らいで、試写したのであった。そのときのことを三浦氏は、つぎのように述べている。
熊井さんは、私たち夫婦のために二人だけの試写会をしてくれた。よく、会う人に映画の感想を訊かれるが、自分の本名がそのまま主人公の名になっているような作品の感想など、とても自分の口からいえるものではない。ただ、私が嬉しかったことは、熊井さんが暗さを厭わずに主人公の「私」を原作以上に掘り下げてくれたことである。映画の「私」のセリフの一つ一つは、私の胸には、画面から唸りをたてて飛んでくる手裏剣であったが、試写が終ったとき、私は熊井さんと無言で固い握手をした。
映画「忍ぶ川」がよい作品であると同時に、熊井啓の最高の作品のひとつであることを私は祈らずにはいられない。
(RCA「忍ぶ川」レコード解説書)
私と妻の右側には少し離れて、黒沢明氏がじっと画面を見つめている。さらに離れて三浦氏と夫人が並んでいる。三浦氏は〈映画の「私」のセリフの一つ一つは、私の胸には、画面から唸りをたてて飛んでくる手裏剣であった〉と書いておられるが、私にとっても実に長い長い二時間であった。だが、映画が終ったとき、黒沢氏はさっと近づいてきて、「おめでとう、よかったね」と大きな手で私の手を握ってくださった。さらに、三浦氏の思いのこもった固い握手に、そして三浦夫人の温かい微笑に、私たち夫婦はやっと生返った気がしたのであった。》
『映画を愛する』(近代文芸社 1997.H9.10.10発行)より
八戸の立花先生も、熊井監督の訪問を受けて色々話をしたことがあると、教えていただいたことがある。
この本を読んで、会えるものなら是非会ってみたい人に思えてならくなるのだが、それは、叶わないことなので、生前に、青森市で行われたフォーラムに出演した熊井監督のビデオが有った筈だから、この本のことを噛みしめながら、もう一度見てみることにしよう。
■熊井 啓 ウィキペディア(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E4%BA%95%E5%95%93
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