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先日、東京の遠藤さんから頂いたコメントが切っ掛けで、『自作への旅』=『雪の音 雪のかおり』の『おろおろ草紙』の章を読み返してみた。
その中で、改めて、三浦さんが師と仰ぐ井伏鱒二氏から受けた影響を認識させられた。
全国に散在する歴史的な旧街道を訪ねて紀行文を書くという仕事を雑誌に連載していた井伏氏に、久慈街道の取材を勧めたのは三浦さんだったそうだ。
早稲田大学の学生だった昭和30年頃のことで、夏休みで一戸町に帰省中の出来事だったというから、まだ結婚する前のことになる。
八戸まで行って井伏氏を出迎えて、宿泊先・鮫の石田家に案内して、郷土史家の中里進さんにも立ち合って貰ったと書いている。
三浦さんはこの中里さんとは、やはり以前から懇意にしていたことがここで判明された。
これで、以前に紹介した「北方春秋」に関連付けられることになる。
●過去ブログ記事【「北方春秋」の情報】2010/9/29
http://blogs.yahoo.co.jp/onikosato/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%C3%E6%CE%A4%BF%CA&sk=1
〈となると、昭和35年6月1日発行された『北方春秋』第13号の「非望の群れ」(連載第1回)の方がより確かに思えてくる。
この題名も初めてお目にかかる作品であるが、内容は、何と、三戸南部藩の内紛と九戸政実を題材にした作品になっているではないか。
掲載ページの脇に中里進氏の「連載のはじめにあたって」という文章が添えられていている。
それによると、中里氏は、一戸町に滞在していた三浦さんとの交流を深めていたそうで、5年前に井伏鱒二氏を久慈街道に案内したのがご縁だったという。
その時、九戸合戦の多彩さと九戸政実という人物に惚れ込んでいた中里さんが、秀吉が天下統一をした最後の戦いとなった九戸合戦とその主将である九戸政実のことを小説化しないかとすすめたそうだ。
この文中にも、九戸政実のことがとても詳しく書かれていて、内容からすると当時にしては相当詳しく研究されていた人だったと想像できる。
すると、後に『贋まさざね記』(1963.S38.歴史読本2〜3月号掲載)を書くに到った起因は中里氏の助言によるものだったのか。〉
中里さんが井伏氏のために集めてくれた資料の中に有った高山彦九郎の『北行日記』という本を井伏氏が三浦さんに読むよう勧めたのである。
この本には、天明年間の大飢饉の時の人の共食いがあったという話しが書かれていて、三浦さんが後に『おろおろ草紙』を書くことになる出来事だった。
ここには、三浦さんを岩手県の人か青森県の人か、扱いに戸惑うという場面が紹介されているのが大変興味深い。
井伏氏の『久慈街道』が当初〈別冊文藝春秋〉に発表になった時には、
〈 岩手県の三浦君という人から、もし都合がついたら久慈街道を見物に来ないかと云って来た〉
という書き出しになっていた。
この文章は、のちに他の紀行文と一緒に「七つの街道」として出版された際にも、〈岩手県の三浦君といふ人から…〉という書き出しになっている。それで、岩手県の郷土史家たちの間では、この三浦君というのはいったいどこのどいつだろうと、大分話題になったそうである。
ところが、その後、この「久慈街道」の書き出しは時が経つにつれて少しずつ変化している。いつから変りはじめたのかは不明だが、たとえば、昭和三十九年から四十年にかけて筑摩書房から刊行された井伏鱒二全集では、〈岩手県に帰省中の三浦哲郎君から〉と変っている。また、昭和六十年から六十一年にかけて新潮社から刊行された井伏鱒二自選全集では、〈青森県に帰省中の三浦哲郎君から〉となっている。
いずれにしても、これで岩手県では、三浦君という人についての論議が絶えてしまうに違いない。
今でも同じようなことが起きているが、三浦さんは違和感を覚えていたに違いない。
今は、岩手県の人として一戸町の広全寺の墓に眠っている、
ここに、『おろおろ草紙』や『少年讃歌』は、井伏鱒二氏が長年暖めてこられた素材を、三浦さんが代わって書くことになったということが書かれている。
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