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先日紹介した『ふるさと文学館 第四巻 岩手』の中に気になる作家の名前を見つけた。
掲載されている『宗次郎は跛だ』という小説の作者の鈴木彦次郎という人である。
三浦さんの師・井伏鱒二が盛岡市に講演に訪れた時に、三浦さんも一緒に来る切っ掛けを作ってくれたのが、盛岡在住の鈴木彦次郎という人だと『師・井伏鱒二の思い出』の中に書かれていたのを思い出した。
三浦さんは、作品『師・井伏鱒二の思い出』で、井伏さんと一緒に講演旅行に出かけたいくつかの思い出の中に次のように書かれているところがある。
《二度目は、ある日、先生からのお呼びで荻窪のお宅へ出向いてみると、盛岡在住の鈴木彦次郎氏から、当地の印刷会社が創業何十周年かの記念に講演会を催したい意向だから協力して欲しいという要請があった由で、
「彦ちゃんはね、きみを連れてきてくれっていってるんだ。一緒に行くかい?」
と先生はいわれた。
鈴木彦次郎といえば、東大在学中、級友の川端康成らと第六次〈新思潮〉を発刊した俊英で、戦後は盛岡に帰郷して長く県の教育界の要職にある人だが、その人が私を連れておいでなどと発言するとは思えないから、実際は、講師を依頼された先生が同じ東北育ちの私を旅の道連れにすることを思いつかれたのだったろう。…》
ここに出てくる鈴木彦次郎は、「盛岡市ウェブ―盛岡の先人たち」に次のように紹介されている。
http://www.city.morioka.iwate.jp/dtl/senjin.nsf/MainView/30AC6D0964D7747049256E25001A5AF6?OpenDocument
鈴木(すずき) 彦次郎(ひこじろう)(1898〜1975) / 作家・新感覚派を興した人
先人記念館のページへ [ 掲載日:2006年12月25日 ]
鈴木彦次郎は1898(明治31)年12月27日、東京市深川区島田町(現:東京都江東区)にて当時東京朝日新聞の記者だった鈴木巖(いわお(、ハナの次男として生まれた。幼少のころ父母とともに帰郷し、1911(明治44)年4月、盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)に入学、学生時代を盛岡で過ごした。
1920(大正9)年9月に東京帝国大学文学部英文科へ入学し、在学中に川端康成、石浜金作、今東光らとともに第6次『新思潮』を継承、新感覚派と呼ばれる文学活動を開始した。『文芸春秋』、『文芸時代』などを発表の場とし、戯曲(ぎきょく(「マウントヴーノンの昼」や小説「7月の健康美」などを執筆する。1932(昭和7)年ごろからは相撲小説、時代小説などの大衆文学に移行し、「土俵」や「両国梶之助」などの作品を残した。1944(昭和19)年3月、鈴木は盛岡に疎開する。以降はそのまま盛岡に住み続け、郷土を題材とした「常磐津林中(ときわずりんちゅう(」や「自由の征矢(そや(」などの長編を発表した。また岩手県立図書館館長、岩手県教育委員長、岩手県文化財愛護協会会長として郷土文化の向上に尽くす一方、文芸誌『北の文学』やタウン誌『街』の発行に関わり、地元の後進指導に務めた。
1968(昭和43)年1月、『街』の創刊号に“この「杜の都」社の小冊子も、はではでしくはなくても、そうした盛岡の味が、行間に、しっとりにじみ出てくればいいが―と念願している。”と鈴木は書いている。『街』は創刊から38年を数えて、今も続いている。
どうやら『北の文学』復刊の際に三浦さんが選考委員になったことにも関係していたのではないだろうか?
今後、この鈴木氏と三浦さんとの親交についても知りたいところである。
盛岡講演会が行われた周年記念事業の印刷会社はどちらの会社なのかも知りたい。
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