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明日からまた大雪になるらしい。
東京などの都会に雪が降ると、まるで日本中が大雪になったかのように大騒ぎするが、その様をテレビ画面で見せられる度に三浦作品の一場面が思い出される。
雪国に暮らす我々は雪道を歩く時に知らず知らずのうちに、転ばない足運びが身に付いていて、足の裏を雪に馴染ませながらソロリソロリと歩いているから、転ぶことは滅多にないのである。
それが、一昨日の気温上昇と2月の思わぬ雨降りにより、積もっていた雪も大分融けて、方々に出来た水溜まりが、元の寒さに戻ったらテカテカに凍りついて、雪の上を歩くのとは大違いで、ビクビクしながら道を歩くことになる。
この季節には、空から舞い降りてくる雪を見ながら、同郷人の三浦さんの「雪」への思いを痛く感じる名場面をよく思い浮かべる。
私にとって印象深い「雪」の場面といえば、先ずはこの作品になる。
私の妻は、東京の深川の生まれだが、私が初めて東北の郷里へ連れて帰ったとき、雪をみてちょっと変わった振舞いをした。
たとえば、道を歩いていて、雪しぐれに遭ったとする。すると妻は、歩きながら雪が降ってくる空に向かって、あんぐり口を開けるのである。どうしてそんなことをするのかと訊くと、空から落ちてきたばかりの雪はどんな味がするのかと思って、と言う。みっともないから、よしなさいといったが、雪が降ってくると反射的に口を開けてしまう。
私の郷里では、白痴の女でもこんなことはしない。
また、たとえば、朝、起きてみると、きのうまでの薄汚れた積雪の上に、夜中に降った新雪がふっくらと降り積んでいることがある。すると妻は、丹前のまま縁側の雨戸を細目に開けて、素足でそっと雪を踏むのである。
若い嫁が、雨戸の隙間から裸の脛をにゅっと出して雪を踏むとは、尋常ではない。もしもそんなところを、近所の早起きの人に見つけられたら、東京からきているあそこの嫁は、どうやら露出狂らしいなどと言い触らされるかもしれない。それで、そんな真似はよせといったが、妻は何度かおなじことを繰り返した。
私の郷里では、まだ聞き分けのない子供でも、女の子ならそんなあられもない格好はしないのである。………。
私は、雪降りに傘もささずに、眉毛や睫毛や無精髭に雪を積もらせながら歩き廻るのも好きだが、凍てつくように寒い夜、家のなかで炭火をどっさり置いた炬燵に入って、外を通る人の足音に耳を澄ましているのも好きである。
雪を踏みしめる音は、履物によって、また、それを履いている人によって、みな違う。若い女性のレインシューズは、リ、リ、である。男のゴム長は、リュイ、リュイ、である。農夫のツマゴ(藁で作った雪靴)はリャッ、リャッ、である。年寄の高下駄は、リーン、リーンである。
誰も通らなくなると、じいんと耳の奥に静寂の音が湧いてくる。
雪の降る晩の静けさは、まるで地の底にでもいるかのようだ。
(『おふくろの妙薬』の「郷里の雪」より抜粋)
このように雪を楽しむことが出来るとは。子供の頃に初雪が降ると同じような思いでいたことを思い出す。
確かに雪を踏みしめる時に色々な音になるが、このように文章に表されると、とても新鮮に思えてくるのが不思議でならない。
今は、高気密高断熱の造りの家になってきていて、家の中から外の音が聞こえ難くなっているので、このような情緒を感じる環境が失われていくのが残念である。
次に印象深いのは、あの名作『忍ぶ川』の一戸と思われる郷里での場面になる。
ふるさとは、さらさらとした粉雪であった。汽車をおりて、屋根のないホームをあるいてゆくと、それが油をひいてつやつやとした志乃の髪へ、銀粉のようにふりかかった。………
「おお、おお、よくまあ、こんな雪深い田舎までおいでなしゃんした。」
母はいいながら、志乃のコートの肩に降った雪を手のひらで払ってやった。志乃は、頬をそめて、素直に母のするままにまかせていた。
(『忍ぶ川』から抜粋)
何とも美しい「雪」の表現だろう。
この2作品は、奥さんを初めて自分の郷里に連れて帰るところを描いているので、共通している場面になる。
他にも「雪」の表現に拘っている作品が見受けられるが、同じ雪国育ちの所為か、このような三浦文学の「雪」への表現の拘りに引きつけられるのである。
『熱い雪』や『雪の音 雪の香り 自作への旅』などのように、書籍のタイトルに「雪」を好んで用いていることから、「雪」は三浦さんにとって大切なテーマだったのではないだろうか。
テレビを見ながら思い出す、東京に雪が降るとパニック状態に陥る様を、雪国から上京した者の視点で滑稽に描いている作品を探せないでいる。
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