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三陸海岸の名物「海鞘」が最もおいしい季節がやって来た。
特にも岩手県洋野町(旧種市町)は、「南部もぐり」と呼ばれる潜水技術による天然の海鞘の収穫高が多いことで有名だ。 昨年3月11日の大津波で養殖場や海岸沿いの漁場が壊滅状態になったというのに、漁業の人達の努力によって、名産地の収穫が戻ってきたそうだ。 ヘルメットを使う伝統の潜水技法を守り続けている潜水夫は今は二人だけになってしまったという。 このところ、その様子をNHK−TVや岩手日報新聞などの特集で報じられている。 いつものことであるが、「海鞘(ほや)」を見ると、大の海鞘嫌いだった三浦さんが、ある時から海鞘中毒にかかってしまったという話を思い出す。 そのことについて書かれている「海鞘(ほや)の話」という作品は、『狐のあしあと』(1999年講談社刊)、『おふくろの夜回り』(2010年文芸春秋刊)に所収されている。 海鞘(ほや)の話 三浦哲郎 食物で嫌いなものはと訊かれれば、「ホヤとカキ」と答えていた。カキの方は、アクセントで容易に柿のことだとわかって貰えるが、ホヤの方は、そうはいかない。二度も三度も訊き返されることが多い。 ホヤというのは、酒をたしなむ人なら誰でも知っている。肴には持ってこいの海産物で、漢字にすれば海鞘になる。海のパイナップルなどと呼ばれていて、海中の岩肌に付着しているところはなるほどそれに似ていなくもないが、色や中身は、似ても似つかない。 ホヤ好きにも、小料理屋や居酒屋などで、きれいに調理されたものしか見たことがないという人がすくなくないが、もとの姿はといえば、体長十五センチほどのいびつな球形、疣々(いぼいぼ)のあるセピア色の固い袋のような皮をかぶっている。見るからにグロテスクで、初めはちょっと手を触れるにも勇気がいる。 酒の肴に最適なホヤの身は、この固い皮袋のなかにあるのだが、私がホヤを味わうこともなく強い嫌悪感を抱くようになったのは、先にそのグロテスクな外形を見てしまったからである。 まだ郷里の旧制中学の生徒だったころ、家族が敗戦後も父の村へ疎開したままになっていて、私だけが叔父のところに寄食して通学していたのだが、週末に両親の許へ帰るとき、よく汽車で漁の行商人たちと一緒になった。私は、その短い汽車の旅で、初めてホヤのありのままの姿を見た。姿を見たばかりではなく、行商の女のひとが両手でホヤを持ち、仰向いて、口を大きく開け、ホヤの口腔からほとばしる無職の液体を、喉を鳴らして飲むのも見た。私は嘔吐を催してデッキへ出た。 ところが、ホヤ好きによれば、この皮袋に詰まっている、つんと鼻を刺すような独特なかおりを持つ体液こそ、ホヤの命で、この味をおぼえると、あるとき発作的にホヤを食わずにはいられなくなる、一種の中毒症状を呈するようになるという。 実際、戦争中、ホヤ中毒が兵隊にとられたが、とても我慢できずに兵営を脱走して魚市場へ直行し、ホヤをむさぼりくったという話を聞いたことがあり、私はホヤをいちども食ったことがないのにその脱走男を小説に書いたことを憶えている。 おかしなもので、私はいい齢になってから、ほんのちょっとしたことがきっかけでホヤが大好物になった。いまでは脱走男の気持ちがよくわかる。こうしてホヤの話を書いていると、口中にじわりとつばきが湧いてくるから、もはや私も中毒者のひとりなのかもしれない。 (平成七年九月) どんなきっかけだったか?、脱走男の出てくる小説は何だったか? 思い出しながら作品をひもといて見ることにしよう。 八戸近隣では、この魚の行商の女の人達のことを「イサバのカッチャ」と呼んでいて、この辺りでは今はもう居なくなったが、私達が子供の頃に、三浦さんが列車で見かけたであろうカッチャが金田一駅からリヤカーに商品を積み替えて家々を売り歩いていた姿が、ホックホクのコロッケの味と共に懐かしく思い出される。 近頃のホヤは養殖ものばかりで、天然ものは中々手に入らなくなっている。 歯触りや味の濃さが違うらしいので、病みつきになった人は、天然の海鞘を求めてわざわざ種市まで車で出かけるのだという。 私の口の中にもつばきが湧いてきて堪らなくなるのは、やはりホヤ中毒か? |

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