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今日は、遠路神奈川県相模原から参加してくれたKさんを交えての第81回2月例会を開催したので、報告させて頂く。
第81回・三浦哲郎文学を読む会【2月例会】開催報告 日 時:平成25年2月10日(日)14:00〜16:00 場 所:金田一コミュニティセンター・アツマランカ 出席者:沖野、田中、沼野節、田口、菅原、熊谷、川村(オブザーバー) …計7名 1.活動報告 ・1.13(日)1月例会開催 於アツマランカ14:00〜 …沖野、田中、沼野節、田口、菅原、中屋、、黒澤、桂山(オブザーバー)…計8名 第1部 三浦哲郎文学と太宰治 文学に目覚める切っ掛け、墓参り、共通の師匠井伏鱒二 作品紹介 その他 第2部 情報交換 1.参加者からのひと言 …全員(三浦文学や日常の出来事など) 1)『忍ぶ川』と浅草界隈について …沖野 2)東京駒込「思い川茶房」探訪報告 …沖野 3)加藤剛は吉永小百合の意中の人だった …沖野 4)その他 ・1.30(水)青森市在住の青柳隼人様より青森県近代文学館特別展、講話の資料届く。 ・1.31(木)一戸町小鳥谷在住の中村T様から読書感想文コンクール入賞の知らせ届く。 ■各部会報告 ・ゆのはな文庫 「我が思い出の冬の旅 夜汽車の思い出」が掲載の雑誌「鉄道歳時記 冬」(小学館発行)をネ ットの古本を探して購入する予定。 5.例会行事 〜14:30 ・第1部 作品紹介 1)三浦哲郎文学まぼろしの作品 三浦さんが自分の著書に掲載していない作品が存在するようです。 「我が思い出の冬の旅 夜汽車の思い出」 …雑誌「鉄道歳時記 冬」(小学館発行)に掲 他にも、青森県近代文学館所蔵 草稿『さすらいびと』、『雪の宿にて』など 2)(株)十文字チキンカンパニーに関係した作品 『出刃』…『木馬の騎手』() ・第2部 情報交換 1.参加者からのひと言 …全員(三浦文学や日常の出来事など) 1)青森県近代文学館の新収蔵資料展 「十人点描―資料が語る作家のこころ」について …沖野 2)一戸町読書感想文コンクール入賞作品『忍ぶ川』について …沖野 3)『お銀さんと夜ふけの道』の主人公について …沖野 4)その他 |
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一昨日、八戸在住の詩人・圓子哲雄さんから電話を頂いた。
青森県近代文学館のHPデータにも掲載されている方なのでご存じの方も多いと思うが、この方は、三浦さんと高校時代の同級生で、同じ名前だったために仲良しだった人である。 村次郎さんと親しかった方で、三浦さんと村さんとの関係について明らかにされていない事実を知っているようなので、今度お会いして、色々取材をさせて貰うことにした。 私は、未だお会いしたことはないのだが、電話の話では、身内が市立病院に入院した際に、同じ病室に金田一の方が入院していて、三浦哲郎の話題が縁で親しくさせて頂いたと、嬉しそうに話していた。(相手は私を知っているそうだが、どなたかは不明…) 圓子さんも、三浦さんからサイン入りの著書を贈って貰っていたという。 三浦さんと親しい方々の多くは高齢のために、貴重な話しを伺う機会を失わないように努めて行きたいので、いつでもお会いして頂ける約束を得て光栄に思っている。 |
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新入会員の弘前在住・鼻和さんから、会員になる以前に雑誌「鉄道歳時記 冬」(小学館発行)に掲載された三浦さんの随筆のコピーを送って頂いた。
「我が思い出の冬の旅 夜汽車の思い出」 という、東京と郷里を行き来した幼いときからの思い出を綴った、私たちにも通じる味わいのある内容になっている。 今度の例会でも、この作品を披露することにしている。 このように、三浦さんが自分の著書には掲載しなかった、色々な雑誌に載っている作品がどれぐらいあるのだろうか。 鼻和会員から頂いたこのコピーは、私たち読む会の「ゆのはな文庫」にファイルして所蔵されることになる。 今、それらの埋もれている作品を、どうやって探し当てるか模索しているところである。 先日、青森県近代文学館から頂いたメールで、 「 本展が始まってから、来館された研究者の方から、雑誌は大宅壮一文庫の方がそろっているので問い合わせてみてはどうかと教えていただきました。」 と、耳寄りな情報を頂いた。 ホームページによると、この文庫には膨大な雑誌のバックデータが揃っていて、記事の作者名から検索できるようなので、是非、探し出して見たいものである。 東京に上京する機会も滅多に無いので、色々な方面から協力頂いて、手分けして収集できたら有難い。 同じく青森県近代文学館からの情報によると、「週刊平凡」の連作読み切り短篇「恋愛百景」について国立国会図書館にあるもので確認したところ、以下の通りだったそうだ。 第八話「抱きしめてほしいの」 第16話「星空が目にしみる」 第20話「涙なんか見せたくない」 第24話「ひとりぼっちの街」 第28話「赤ちゃんができた」 第32話「星空の下は孤独」 第36話「もの悲しい過去」 第40話「泣きだした彼女」 第44話「結婚する前…」 第48話「さらば東京」 第52話「奥さんに悪い…」 第56話「結婚申し込み」 第64話「まさかあの彼が・・・」 第68話「外泊してから」 第72話「姉の恋人」 第76話「若い母親」 第84話「芳江の芝居」 第88話「冷たいリンゴ」 第92話「消えた恋人」 第96話「ふたりの秘密」 第100話「小枝子の嫉妬」 これらの内容も知りたい。 |
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山陽新聞社から2月3日発刊の山陽新聞が送られてきた。
岡山市真備町で、金田一耕助でお馴染みの作家横溝正史ゆかりの地を生かした街づくりに取り組んでいる山崎隆夫さんが、金田一温泉郷と二戸市のことについて書いた記事が載っている新聞で、わざわざ山陽新聞社に頼んで送らせたようである。 以前にも、藤萬菓子店のジャンボ饅頭を取り寄せて販売して頂いたり、遙か遠くから「金田一」繋がりで、この地を宣伝して頂いていることに、頭が下がる思いがする。 これからも交流を深めていけるように、情報の交換を続けて行きたいと思っている。 山陽新聞 2013.H25.2.3 岩手・二戸の温泉郷 「金田一」縁にPR 作家横溝正史ゆかりの資料を展示する倉敷市真備町岡田の真備ふるさと歴史観は、岩手県二戸市・金田一温泉郷の観光リーフレットを館内に置き、「金田一」を縁にしたPRに一役買っている。 同温泉郷のリーフレットと、市全域の観光案内が記載されたパンフレットを、施設やイベント資料を並べるコーナーに設置。東日本大震災からの復興を目指す東北を応援する思いも込めた。 同温泉郷は盛岡・南部藩の指定湯治場とされた名湯で、「座敷わらしの里」としても売り出している。横溝が生んだ名探偵金田一耕助命名のきっかけになったという言語学者金田一京助の文学碑も立っている。 二戸市商工観光課物産交流室は「金田一のつながりで多くの人に温泉を知ってもらい、ぜひ来訪を」と呼び掛けている。(山崎隆夫) ■写真:真備ふるさと歴史館に置かれている金田一温泉郷のシーフレットと二戸市の観光パンフレット ところで、このリーフレットやパンフレットには、芥川賞作家三浦哲郎ゆかりの地のことが載っているのだろうか? 気掛かりである。 |
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一ヶ月ほど前にこのBlogで紹介した、三浦ファンで「アルビノについての(略)ブログ」運営の武器屋さんが、『三浦哲郎の遺伝の知識』と題して新たな記事を書いているので紹介したい。
一人の作家のことを一つの観点に拘って紐解いてみるということは貴重だが、大作家ともなれば多くの作品があるから大変な作業になるだろう。三浦さんの場合は「アルビノ」が作風に大きく影響しているから、重要なテーマなので武器屋さんの取り組みには大いに感心が高まるのである。 武器屋さんの「アルビノについての(略)ブログ」より 三浦哲郎の遺伝の知識 ・2013.1.29三浦哲郎⇒は、遺伝について、なかでも特にメンデルの法則についてどこでどのように知識をえたのか気になってたので、簡単に調べてみました。 1977(昭和52)年に『海』に発表した、そのものズバリ「メンデルの春」という随筆があります。単行本の『おらんだ帽子』に収録されてますが、文庫版の『おらんだ帽子』には入ってません。高校生だった三浦の長女がコタツで『生物I』の教科書を読んで復習している場面から始まり、様々な回想が続きます。娘との会話のなかで、三浦はメンデルの法則について学校で習ったと話しています。 「お父さんたちも習った?」 「勿論、習った。」 「今でも憶えてる?」 「……自分に関係のあることだけはね。」(三浦 1977: 221-2) 三浦は、1943(昭和18)年、12歳のときに旧制の青森県立八戸中学校に入学し、学校制度がめまぐるしく変わるなかで中等教育を受け、戦後の1949 (昭和24)年、18歳のときに新制の青森県立八戸高等学校を卒業し、早稲田大学に進学しています。学んでいるとしたら中等教育だと思います。 旧制中学の教授要目では、1911(明治44)年の改正から生物の進化にふれるようになり、教科書によっては遺伝を扱うものもありました。教授要目に「遺伝」が明記されるようになったのは1931(昭和6)の改正からで、一般理科の生物通論のなかに「遺伝・変異・品種改良」という項目が加わっています。さらに1942(昭和17年)の改正では、旧制中学の5年生の生物の「遺伝法則」においてメンデルの法則を通じて遺伝の原理を理解させることが示されたほか、新たに「優生」という項目も加わります(鈴木・原田 1990b: 76-7)。 また戦後、1948(昭和23)年に文部省が新制高等学校用の教科書として『生物の科学』I〜IV巻を出していて、そのIII巻に遺伝のしくみが含まれています(鈴木・原田 1990c: 55)。この年から1955(昭和30)年までに出された高校生物の教科書では、多くが人の遺伝について節を設けて解説しています。また優生学について紹介し、具体的な遺伝性疾患の名前をあげているものも結構ありました。でも、昭和30年代になると身体障害に関する露骨な表現は控えめになって、具体的な遺伝性疾患としてあげられる名前も少なくなったようです(鈴木・原田 1990c: 57)。このへんの移り変わりは遺伝学啓蒙書と似てますね⇒。 三浦が、中等教育のなかでメンデルの法則を学んだのは間違いなさそうです。三浦が実際に使った教科書まではわかりませんが、優生学的な関心から具体的な遺伝性疾患の名前をたくさん列挙したものだったと思われます。1960年代頃までの遺伝学の啓蒙書において、アルビノは常染色体劣性遺伝の代表格のように扱われていましたから⇒、教科書にも同様に登場したのではないでしょうか。中学生・高校生だった三浦少年にとって、自らに流れる「亡びの血」が、遺伝現象という科学的な知識によって裏付けられたと言えるかもしれません。 ついでに三浦の次姉についても簡単にふれておきます。 「メンデルの春」では、次姉と同じ女学校に通っていた従姉についての回想があります。その従姉が三浦に、次姉が女学校でメンデルの法則の「劣性遺伝のことをおそわって、ひどいショックを受けたみたい」と告げたことがあるそうです(三浦 1977: 209)。また、『白夜』においても、次姉をモデルにしたれんが、夏休みに行われていた進学希望者のための補習講座の最終日にメンデルの法則について学び、知り合いの女医に遺伝に関する本を借りに行く場面があります(三浦 1989: 214-40)。三浦自身も、次姉が自ら命を絶った動機は、失恋や受験の失敗などもあるかもしれないが、「一番の原因というのは、やっぱり遺伝に関する恐怖だと思います」と述べています(三浦・武田 1986: 129)。 次姉が中等教育を受けたのは大正末から昭和初期なわけですが、そこでメンデルの法則を学んだかどうかはよくわかりません。まず明治から大正にかけては、学校教育において遺伝の取り扱いはかなり小さく、ダーウィンは紹介してもメンデルはあんまり出てきませんでした(鈴木・原田 1990a: 20-1)。1903(明治36)年に制定された高等女学校教授要目では、理科は中学の教授要目に比べて内容も簡単で遺伝については扱われていません(鈴木・原田 1990b: 76)。先に見たように、中学の教授要目に遺伝が明記されたのは1931(昭和6)年です(ただしこれは、中学の教授要目であって、高等女学校の教授要目がどうだったかは不明です)。 で、三浦の次姉が自殺をしたのも1931年です。正規の学校教育で次姉がメンデルの法則を学ぶ可能性は、弟の哲郎に比べればずいぶんと小さかったはずです。でも、進学希望者のための補習講座ならばありえたかもしれません。また、個人的に知人から本を借りることもできたでしょうから、知っていたとしてもおかしくはありません。 歴史的な、あるいは科学的な事実と、作品としての整合性とが一致しなくてもいいと思うし、事実に固執するあまり作品としてのよさが損なわれるようでは、なんだか本末転倒な気がします⇒。重箱の隅をつつくような議論をしておいて、アレなんですけど。 参考文献 三浦哲郎, 1977,『おらんだ帽子』新潮社. 三浦哲郎, 1989,『白夜を旅する人々』新潮社. 三浦哲郎・武田勝彦, 1986,「白夜をゆく家族たち」『知識』50: 124-31. 鈴木善次・原田智代, 1990a,「遺伝教育の歴史(1) 中等教育における遺伝・進化」『遺伝』44(3): 18-21. 鈴木善次・原田智代, 1990b,「遺伝教育の歴史(2) 中等教育における遺伝・進化」『遺伝』44(4): 76-9. 鈴木善次・原田智代, 1990c,「遺伝教育の歴史(3) 中等教育における遺伝・進化」『遺伝』44(5): 55-8. |




