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今日、文集が1冊郵送されてきた。
以前に紹介した「第34回(平成24年度)一戸町読書に関する作文コンクール 入賞作品集」である。 今回、『忍ぶ川』を書いて一般の部で最優秀賞を受賞した中村ツワさんが、わざわざ印刷所にお願いして余分に分けて頂いたそうで、それを送って頂いた。 作家三浦哲郎と一戸町のことについて、とても上手く表現してくれている感想文になっているので、多くの人に紹介して読んで貰いたくて、本人から承諾を得られたので、ここに掲載させて頂くことにする。 |
愛読者
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「三浦哲郎文学の旅」を終えた神奈川県の川村さんから、無事に帰宅したと、丁寧なあいさつをメールで頂いた。
金田一温泉郷と一戸町の文学散歩をした他に、青森経由で帰る途中で、八戸市に立ち寄り、市内のゆかりの場所も訪れて帰られたとのこと。 読む会発行の「文学散歩ガイドマップ」をフルに活用して楽しんで頂けたようである。 もちろん、青森県近代文学館で特別展の原稿や雑誌「平凡」などの展示物も堪能されたそうだ。 川村さんは、隣の三戸町にある〈繭子の像〉にも興味を持っていたようなので、それは、今度の楽しみになることだろう。 鞄に詰めて持ち帰った林檎を、八戸の文学碑の前で、碑を眺めながら昼食代わりに、また、野辺地の宿と寝台列車の中でも美味しく戴いたそうだ。 鞄の中に入れておいたら、鞄の中がほんのりと林檎の香りがして、食べてしまうのが勿体ないほどだったという。(菅原会員のところで分けて頂いた新種の岩手林檎〈はるか〉で、特急品「冬恋」は一個5,000円もの値が付くほどの高級品である。) 今回の旅を経験したことで、これから三浦文学を読むときに、実際に、情景を目の前に浮かべることができ、また、新たな視点で、三浦文学を体験できそうで、とても楽しみだという。 生まれも育ちも神奈川で、故郷というものを持たない彼女は、三浦文学を読むことで、又、実際に舞台を訪れたことで、これからは、金田一や一戸を〈こころの中の故郷〉と位置づけ、彼の地に思いを馳せたい。そして、思いを馳せるだけでなく、ぜひぜひ、再訪したいと思ってくれているそうだ。 「読む会」の例会にも参加して、会員たちと交流を持てたこともあって、会の活動への協力も頂けることになった。 川村さんには、文学散歩途中で宣伝しておきながら、手渡せなかった冊子「作家生活50年 三浦哲郎の世界」を、注文されたので送り届けることにしている。 今回は、全国の数多の三浦文学愛読者の中から、一人の勇気ある人に出会い、そして、ふれあい、このような充実した「三浦哲郎文学の旅」を体験して頂けたことを、大変嬉しく思っている。 こちらも良い体験をさせて頂いた。 今度は、寒くない季節に再訪頂けることを楽しみに待ちたい。 先日の「割烹旅館おぼない」で、別の遠来のお客さんが、来宿してから三浦哲郎ゆかりの場所であることを知って、とても残念がって発っていったそうだ。 三浦哲郎の愛読者たっだそうで、散策する時間が無かったので、今度、改めてゆっくり訪れて見たいと話していたという。 又、同じく一戸町の広全寺でも前日に、神奈川から来たという中年夫婦が、三浦さんのお墓を訪ねて来たと話していた。 そして、九州から毎年わざわざ訪ねてくれる熱烈な三浦文学ファンもいるというから、頭が下がる思いがしている。 |
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神奈川県からの来訪者川村様の2日間の文学散歩のガイドを終えた。
金田一温泉郷〜一戸町の散歩は、お天道様が見え隠れする穏やかな天気で幸いだったが、真冬の2月の雪の中の文学散歩もガイドも初めての経験をさせて頂いた。 川村様には、寒さをものともせず、転倒も無く最後まで楽しんで頂けて安堵している。 昨日は、午前中に金田一温泉郷の散歩を終えてから例会に参加して頂いて、夜は居酒屋「きばらし」に場所を移して交流会。 そして、今日は午前中に一戸町の文学散歩をしてから、二戸のそば工房「そばえ庵」でそば打ち体験と、打ち立ての自分のそばを食べて、パックに詰めた残りのそばを農産物産直所と物産館で買ったお土産と纏めて宅配便で送った。 最後に、菅原会員宅に招かれて、いろりでじゃが芋の炭火焼きを頬張りながら、抹茶などをごちそうになってから、宿の「割烹旅館おぼない」へ戻ったのだった。 これで、私のガイドは終わったが、明日は宿でゆっくり持参した三浦作品の読書をして、野辺地経由でもう一泊してから、青森発上野行きの日本海廻り夜行寝台列車で帰路につく予定とのこと。 青森では県立近代文学館に寄って、三浦哲郎コーナーで草稿を見て帰りたいと話していた。 帰りの列車まで三浦作品の雰囲気を味わうという、充実した「三浦哲郎文学の旅」とは、何とも羨ましい。 今回の「三浦哲郎文学の旅」を川村さんはどのように感じたか、後で感想を伺い、今後の活動に生かしていきたいと思っている。 以下は、川村さんに失礼して、文学散歩の一コマの写真である。 一戸町は丁度市日で、中心街「野田の坂」では、近在農家のおばさんたちも出店を出していた。 串餅や味噌田楽の焼く臭いを漂わせ、手作りの農産物やお菓子などを、元気な南部弁訛りで売っていた。 これも、三浦哲郎文学の雰囲気にひと味加えて貰える良い機会となった。 試食を進められて一口入れてみると、手作りの風合いが美味しいくて堪らない。 昔ながらの製法に拘って作ったと聞くと、他所では買えないものに思えて、ついつい「栗団子」と「豆しとぎ」を買ってしまうのである。 帰宅途中で他所に上げてしまったので写真でお見せできないのが残念だが、大きく握って作られた「栗団子」は珍しくて本当に美味しかった。 |
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一ヶ月ほど前にこのBlogで紹介した、三浦ファンで「アルビノについての(略)ブログ」運営の武器屋さんが、『三浦哲郎の遺伝の知識』と題して新たな記事を書いているので紹介したい。
一人の作家のことを一つの観点に拘って紐解いてみるということは貴重だが、大作家ともなれば多くの作品があるから大変な作業になるだろう。三浦さんの場合は「アルビノ」が作風に大きく影響しているから、重要なテーマなので武器屋さんの取り組みには大いに感心が高まるのである。 武器屋さんの「アルビノについての(略)ブログ」より 三浦哲郎の遺伝の知識 ・2013.1.29三浦哲郎⇒は、遺伝について、なかでも特にメンデルの法則についてどこでどのように知識をえたのか気になってたので、簡単に調べてみました。 1977(昭和52)年に『海』に発表した、そのものズバリ「メンデルの春」という随筆があります。単行本の『おらんだ帽子』に収録されてますが、文庫版の『おらんだ帽子』には入ってません。高校生だった三浦の長女がコタツで『生物I』の教科書を読んで復習している場面から始まり、様々な回想が続きます。娘との会話のなかで、三浦はメンデルの法則について学校で習ったと話しています。 「お父さんたちも習った?」 「勿論、習った。」 「今でも憶えてる?」 「……自分に関係のあることだけはね。」(三浦 1977: 221-2) 三浦は、1943(昭和18)年、12歳のときに旧制の青森県立八戸中学校に入学し、学校制度がめまぐるしく変わるなかで中等教育を受け、戦後の1949 (昭和24)年、18歳のときに新制の青森県立八戸高等学校を卒業し、早稲田大学に進学しています。学んでいるとしたら中等教育だと思います。 旧制中学の教授要目では、1911(明治44)年の改正から生物の進化にふれるようになり、教科書によっては遺伝を扱うものもありました。教授要目に「遺伝」が明記されるようになったのは1931(昭和6)の改正からで、一般理科の生物通論のなかに「遺伝・変異・品種改良」という項目が加わっています。さらに1942(昭和17年)の改正では、旧制中学の5年生の生物の「遺伝法則」においてメンデルの法則を通じて遺伝の原理を理解させることが示されたほか、新たに「優生」という項目も加わります(鈴木・原田 1990b: 76-7)。 また戦後、1948(昭和23)年に文部省が新制高等学校用の教科書として『生物の科学』I〜IV巻を出していて、そのIII巻に遺伝のしくみが含まれています(鈴木・原田 1990c: 55)。この年から1955(昭和30)年までに出された高校生物の教科書では、多くが人の遺伝について節を設けて解説しています。また優生学について紹介し、具体的な遺伝性疾患の名前をあげているものも結構ありました。でも、昭和30年代になると身体障害に関する露骨な表現は控えめになって、具体的な遺伝性疾患としてあげられる名前も少なくなったようです(鈴木・原田 1990c: 57)。このへんの移り変わりは遺伝学啓蒙書と似てますね⇒。 三浦が、中等教育のなかでメンデルの法則を学んだのは間違いなさそうです。三浦が実際に使った教科書まではわかりませんが、優生学的な関心から具体的な遺伝性疾患の名前をたくさん列挙したものだったと思われます。1960年代頃までの遺伝学の啓蒙書において、アルビノは常染色体劣性遺伝の代表格のように扱われていましたから⇒、教科書にも同様に登場したのではないでしょうか。中学生・高校生だった三浦少年にとって、自らに流れる「亡びの血」が、遺伝現象という科学的な知識によって裏付けられたと言えるかもしれません。 ついでに三浦の次姉についても簡単にふれておきます。 「メンデルの春」では、次姉と同じ女学校に通っていた従姉についての回想があります。その従姉が三浦に、次姉が女学校でメンデルの法則の「劣性遺伝のことをおそわって、ひどいショックを受けたみたい」と告げたことがあるそうです(三浦 1977: 209)。また、『白夜』においても、次姉をモデルにしたれんが、夏休みに行われていた進学希望者のための補習講座の最終日にメンデルの法則について学び、知り合いの女医に遺伝に関する本を借りに行く場面があります(三浦 1989: 214-40)。三浦自身も、次姉が自ら命を絶った動機は、失恋や受験の失敗などもあるかもしれないが、「一番の原因というのは、やっぱり遺伝に関する恐怖だと思います」と述べています(三浦・武田 1986: 129)。 次姉が中等教育を受けたのは大正末から昭和初期なわけですが、そこでメンデルの法則を学んだかどうかはよくわかりません。まず明治から大正にかけては、学校教育において遺伝の取り扱いはかなり小さく、ダーウィンは紹介してもメンデルはあんまり出てきませんでした(鈴木・原田 1990a: 20-1)。1903(明治36)年に制定された高等女学校教授要目では、理科は中学の教授要目に比べて内容も簡単で遺伝については扱われていません(鈴木・原田 1990b: 76)。先に見たように、中学の教授要目に遺伝が明記されたのは1931(昭和6)年です(ただしこれは、中学の教授要目であって、高等女学校の教授要目がどうだったかは不明です)。 で、三浦の次姉が自殺をしたのも1931年です。正規の学校教育で次姉がメンデルの法則を学ぶ可能性は、弟の哲郎に比べればずいぶんと小さかったはずです。でも、進学希望者のための補習講座ならばありえたかもしれません。また、個人的に知人から本を借りることもできたでしょうから、知っていたとしてもおかしくはありません。 歴史的な、あるいは科学的な事実と、作品としての整合性とが一致しなくてもいいと思うし、事実に固執するあまり作品としてのよさが損なわれるようでは、なんだか本末転倒な気がします⇒。重箱の隅をつつくような議論をしておいて、アレなんですけど。 参考文献 三浦哲郎, 1977,『おらんだ帽子』新潮社. 三浦哲郎, 1989,『白夜を旅する人々』新潮社. 三浦哲郎・武田勝彦, 1986,「白夜をゆく家族たち」『知識』50: 124-31. 鈴木善次・原田智代, 1990a,「遺伝教育の歴史(1) 中等教育における遺伝・進化」『遺伝』44(3): 18-21. 鈴木善次・原田智代, 1990b,「遺伝教育の歴史(2) 中等教育における遺伝・進化」『遺伝』44(4): 76-9. 鈴木善次・原田智代, 1990c,「遺伝教育の歴史(3) 中等教育における遺伝・進化」『遺伝』44(5): 55-8. |
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金田一温泉観光りんご園収穫祭に合わせて「三浦哲郎文学散歩」の実施を予定している明日の天気予報は、先日来の雨マークが消えて何とか持ちそうなのでホッとしている。
今日、その文学散歩開催について一般の方から問合せの電話を頂いた。 実は、電話に出た時に聞き覚えのある声だったので、もしかして十和田の人ですか?と尋ねると、その通りだった。 今回は、ほとんど宣伝をしていないのに、どうして分かったのかと尋ねると「いつも今頃にやっていたので、今年もあったら参加したいと思って、予定を確認したくて電話をしてみた」とのことだった。 その方は、これまでも何度かわざわざ十和田市から参加して頂いている三浦ファンのご婦人で、いつも先頭について熱心に聞いてくれる方だったので印象深く記憶に残っていた次第である。 昨日から何度か電話を頂いていたようで、やっと電話に出ることができて、この偶然のタイミングと熱意に頭が下がる思いがしている。 本当に励まされるなぁ。 お母さんの介護があるけどと言いながら、都合を付けて明日は参加したいと話していたので、有意義なガイドになるように、精一杯案内して上げたいと思っている。 このように熱烈な三浦ファンが他にもいる筈なのに、宣伝が行き届かいのが残念でならない。 明日は、収穫祭のイベント会場でも文学散歩開催のアナウンスをお願いして、関心のある方に一人でも多く参加して頂けるようにしたい。 |




