三浦哲郎文学を読む会

三浦哲郎文学ファンの輪を拡げましょう

ゆかりの場面

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

イメージ 1

■画像:八戸市三日町に新設された地域観光交流施設「はっち」 … Wikipedia「はっち」より転載


三浦さんの生地である青森県八戸市三日町に建設中の地域観光交流施設「はっち」が2月11日に開業するそうだ。
この建物の正式名称は「八戸ポータルミュージアム」で、略して「HPM」とも呼ばれている。

空洞化が進む八戸市中心市街地を活性化するために、八戸市民や観光客の交流の拠点として建設されたそうで、シンボルマークは8の字をモチーフに、名称は2009年8月に公募で「はっち」と決定され、八戸の「はち」とhatch(ハッチ。卵の孵化を意味する)から来ているとのこと。

■はっち - Wikipedia
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%A3%E3%81%A1


この建物の隣に旧伊吉書院があった。そこが三浦さんの生家だった所である。
反対の三春屋側隣地駐車場・空地はお母さんの実家が在った所で、小説『おりえんたる・ぱらだいす』の舞台にもなっている、正に三浦哲郎文学ゆかりの地まっただ中に位置する所なのである。

そんな中で、一時はこの施設の中に三浦哲郎記念館を設ける案も持ち上がったようである。
その経緯を書いているブログ記事を見掛けたので紹介する。


■日本救護団(青森県公認政治結社)のブログ
 【三浦哲郎の文学館は出来なかった】
  2010-09-23
http://kyugo.exblog.jp/tags/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%93%B2%E9%83%8E%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%A4%A8/

場所性は重要で魅力的だが、外観や施設の雰囲気からして三浦さんという文学者にあった施設には私は思えない。
もっと三浦哲郎という人の持味を彷彿させる、環境を大切にした三浦文学記念館であって欲しいと願っている。

市民感情として、更にゆかりの深い一戸町での記念館建設への危惧を抱いているようでもある。
記念館はゆかりの深いそれぞれの場所にできるのも悪くないと思う。それぞれの描かれている作品の舞台をクローズアップして、来訪者に回遊してもらえば良いことで、それぞれにカラーを出しあって相乗効果を増して行けるのでは無いだろうか。
問題は魅力ある運営方法であるのだから。
今のところ、その力は一戸町に軍配が上がるように私には思われる。

当地金田一温泉にも多くの魅力が有るのだから遠慮しないで活かして行って欲しい。


人々を吸い寄せるような魅力が「はっち」に生まれることを望みたい。
そのためにも人を引きつける魅力を持った象徴性のある外観であっても良かったように思うのは私だけだろうか。

思いもよらないブログ記事を目にして、そんなことを思ったりしている。

イメージ 1 イメージ 2

イメージ 2

■画像:岩手日報新聞掲載記事
    【写真=宮古市の浄土ケ浜にある宮古港海戦の記念碑】

以前にもこのブログで取上げたことがあるが、三浦さんの作品『暁闇の海』の舞台となっている宮古海戦に関連した新たな記事が新聞に掲載されていたので紹介する。

●過去のブログ関連記事
  【『暁闇の海』と宮古湾海戦】
  2008/4/17
   http://blogs.yahoo.co.jp/onikosato/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%B1%DD%CB%DC%C9%F0%CD%C8&sk=1

宮古市の浄土ケ浜には宮古港海戦の記念碑が建立されているとのこと。
日本が大きく生まれ変わる間際の、歴史的な海戦として、地元では今も語り継がれていることが分かる。

八戸藩での明治2年3月23日〜4月9日の実際の出来事として『八戸藩日記』に記載されているという。
三浦さんがこのことを調べて小説の題材にして残してくれているので、皆さんも是非読んでみて下さい。

『暁闇の海』(初出:別冊文藝春秋 1971.S46. 117〜119号に発表)
○収録本
  単行本:『おろおろ草紙』     (講談社 1982.S57.6発行)
      『暁闇の海』       (文藝春秋 1983.S58.6発行)
  文庫本:『おろおろ草紙』     (講談社文庫 1986.S61.10発行)
  全 集:三浦哲郎自選全集 第9巻  (新潮社 S1988.63.5発行)
      昭和文学全集 23      (小学館 1987.S62.8発行)

●岩手日報Webサイト

 【宮古で11月、新撰組サミット 模擬海戦や仮装行列も】  (2011/01/11)
  http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20110111_13

 宮古観光協会(沢田克司会長)は11月、宮古市内で第12回全国新撰組サミットin宮古を開催する。全国の新撰組や幕末の歴史ファンが集うサミットは県内初の開催。副長の土方歳三らが参戦した宮古港海戦にスポットを当て、ファンが新撰組の羽織を着る仮装パレードや隊士の子孫による講演会などを計画。宮古を歴史ロマンで盛り上げる。

 サミットは、全国の新撰組ファンの交流促進とまちおこしなどを目的に年1回開催。第1回の東京都日野市から京都市、福島県会津若松市など新撰組にゆかりのある全国各地で開かれ例年、全国の新撰組ファン約100人が集う。

 宮古港海戦は1869(明治2)年、宮古市の宮古港で榎本武揚率いる旧幕府軍と明治政府軍が戦った。日本初の洋式海戦として知られ、旧幕府軍には土方らが参戦した。

 住民有志が宮古港海戦を研究し、サミットの開催地に立候補。日野市の日野新撰組同好会(峯岸弘行名誉局長)などのアドバイスを受けて先月、開催地に決まった。

 サミットは11月の2日間開催し、隊士の子孫らによる講演や、市中心部を新撰組の羽織を着て練り歩く仮装パレード、客船を使った模擬海戦などを計画している。浄土ケ浜にある宮古港海戦の碑などゆかりの史跡巡りも予定する。

 今後、サミットに参加する市民ボランティアを募集。5月には、浄土ケ浜でPRイベントを計画している。沢田会長は「宮古の閉塞(へいそく)状況を打破するために、市民も巻き込んだ面白いサミットを開催したい」と意気込む。

 宮古港海戦とは 1869年5月6日に明治政府軍と旧幕府軍が争った海戦。土方歳三が戦艦「回天」に乗り込み、宮古港に停泊していた政府軍の最新鋭艦「甲鉄」奪取を決行したが、失敗した。回天を甲鉄に接舷させて斬り込むアボルダージュ作戦は、映画「ラストサムライ」のモデルといわれるフランス陸軍士官ジュール・ブリュネらが授けたとされる。


宮古の関係者の人達にも是非三浦さんの『暁闇の海』を読むことをお薦めしたい。

開く トラックバック(1)

太公望たちは、地元馬淵川の7月1日の鮎の解禁日を間近にしてヤキモキしていることだろう。
金田一温泉には鮎の養魚場があり、春に沢山の鮎を放流しているので、これからのシーズンはアユ釣り客で賑わう。

三浦さんは、短編小説を書く時にいつも〈一尾の鮎〉を念頭に置いているという。

今度発売になった『おふくろの夜回り』には「鮎風呂」という作品が載っている。
これは、一戸町の萬代橋の袂に在った松乃湯へ、父親と銭湯通いをした時の思い出を綴った随筆である。
松乃湯は既に廃業してしまったが、ここでの思い出は短編小説『わくらば』にも書いている。

先日、鮎の養殖に取り組んでいる南部馬淵川漁業協同組合の組合長に、三浦さんの鮎への拘りについて話したら、大変興味を示してくれたので、作品を紹介して読んで貰う約束をしていたので、お父さんの特技だった打ち釣りに関する作品も合わせて選んでみた。

■馬淵川の鮎と魚釣りに関する作品

金田一温泉  …『時のせせらぎ―若き日の追想紀行』
簗の鮎    …『冬の雁』…(新潟県小千谷市で見た簗の鮎の思い出。鮎に魅かれる切っ掛けか?)
わくらば   …『わくらば』
鮎風呂    …『おふくろの夜回り』
一尾の鮎   …『一尾の鮎』

これらの作品を組合長の工藤さんに読んで貰って、馬淵川と三浦文学を関連した展開に結びつけて頂けないものかと期待している。

メドツ(河童)の話

メドツについて、早速、三戸町の栗山会員から情報のメールが届いたので、掲載します。
やはりメドツは河童のことだったようです。


河童(メドチ)の話

町の中央を流れる熊原川にまつわる伝説がある。
昔、熊原川の川原で放し飼いの馬がのんびり若草を食べていた。この川には、いたずら好きのメドチが住んでいた。川の中から馬の様子を見ていたメドチは、この馬を川の中へ引きずり込んでやろうと手綱を身にまきつけて川へ飛び込もうとした。馬は驚いて、馬小屋へいっさんにかけだした。さらに驚いたのはメドチである。メドチは頭のてっぺんが皿のようになっていて、この皿に水気があれば怪力がでるが、水気がなくなれば、さっぱり駄目である。
メドチは引きずられて怪力の出る条件は全く失われ、馬小屋に引き込まれたメドチは、ようやくのことでトナ舟をかぶって身をかくした。馬小屋の妖しい物音や馬のただならぬ様子に家の人が飛び出して来た。
トナ舟にかくれたメドチを見つけ、こいつとばかり棒でめちゃめちゃに打ちのめした。
メドチは苦しまぎれに、ありったけの力をふるしぼって暴れ出した。
あわてた家人は、かねて紫の麻布は魔除けだ、と聞いていたので、それを持ち出して叩いた。メドチは急におとなしくなって、手を合わせ「もう二度といたずらはいたしません」と涙を流して詫びた。
主人もかわいそうになって「もう二度といたずらしなければ許してやる」t、きつく言って放してやった。
それから熊原川ではメドチのいたずらがなくなったということです。(三戸町通史)

メドチ(メドツ)の話しは、青森県南、岩手県北の地域では、どこにもこのような内容が少し違うがある話です。


座敷わらしや河童は、遠野で有名になっているが、本来はこの南部地方一体に言い伝えられている伝説だったのだ。
それが同じ南部藩だった遠野にも伝わり、宣伝力のあるあちらの方が、全国的に知られるようになってしまったのだ。

そうなると、金田一にもメドツの話がある筈だから捜し出してみたいと思う。
これは「よりゃんせ金田一」の得意分野なので、相談に乗ってもらうことにしよう。

どうやら小説『駱駝の』もこの地にゆかりが出て来そうだぞ!

ナヤトヤラ

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

昨日、「金田一温泉まつり」の様子を見に行ったら、「なにゃとやら競演」のイベントが丁度始まるところだった。
4組のナニャトヤラ保存会が出演すると言うので、三浦さんの作品に出てくる「ナニャトヤラ」を思い出しながら、観て見ることにした。

出演団体は金田一、一戸、田子、二戸の各保存会だったが、それぞれの地域でリズムや踊り、それに太鼓の敲き方の違いがハッキリ分かった。

一戸の太鼓のリズムや踊り方は、盛岡のさんさ踊りではないかと間違えるほど違っていた。

踊り手の若さもあるが、田子町のナニャトヤラはリズムや踊りがズバ抜けて上手くて、思わず拍手を送ってしまったほどであった。

ナニャトヤラの唄は即興でも歌えるようで、それぞれによその民謡を入れたりして、楽しんでいた。

ナニャトヤラ踊りのポイントは、三浦さんが作品に書いてある通り、足の払い方にあるようだ。
軽くのけ反るように浮かせた腰から下の、脚のスピードが早まったり遅くなったり、軽く足踏みしたりと、足の動きも実に優雅で、前後左右に払うように動くのである。
太鼓の打ち手たちも、踊子の足払いに合わせて、踊るようにして敲いているのである。

田子の人たちの踊りを見ていて感心させられたのは、手と顔の動きが綺麗に合っていて、その手の動きが、まるで蝶々がヒラヒラと舞っているかのように、優雅に見えたことである。
ナニャトヤラの踊りは、顔、手、腰、足それぞれの動きが独特なのだ。

金田一と田子はよく似ていて、よそに比べて優雅な踊り方をしていると思っている。私には、子供の頃に盆踊りでよく踊っていた金田一のナニャトヤラの踊り方とリズムが染みついているせいか、これが本物のナニャトヤラだと思えてならないのである。

作品「ブンペと湯ノ花」に描かれている隣村の盆踊り大会では、作者も踊りに参加している。
金田一の踊りを習ったであろう三浦さんが描いている「ナニャトヤラ」は果たしてどちらのものだろうか?

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
oki*_
oki*_
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
検索 検索

過去の記事一覧

三浦哲郎文学愛読者

三浦哲郎情報

登録されていません

二戸のブロガー

登録されていません

旧南部藩の住人

登録されていません

友だち(2)
  • ooh*ra*
  • よしO
友だち一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事