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「忍ぶ川」情報

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栗原小巻と加藤剛が出演した映画「忍ぶ川」をご覧になっていない方には、ほんのお触り程度ですがYouTubeに掲載されているので紹介しよう。
観た人も懐かしく思い出しながら鑑賞して下さい。



他にもありました。

人気急上昇中の野路由紀子 忍ぶ川をガイド。三浦哲郎の映像や写真を交えてどこより も詳しく解説。

映画「忍ぶ川」1972年(昭和47年)製作 原作は三浦哲郎の小説「忍ぶ川」(1960年芥川賞受賞) 加藤 剛(哲郎) 栗原小巻(志乃)
曲 作詞:吉田 旺 作曲:渡辺岳夫 編曲:松山祐二

残念ながら私はテレビドラマは見ていませんが、この歌が主題歌だったテレビドラマの方は、主演が上村香子­と横光克彦(現国会議員)だったそうです。原作にぴったりの時代を感じさせるいい歌ですね。

熊井啓監督が敢えて白黒映像に拘った思いが分かるような気がします。

当ブログの過去記事  

聞記事:コマキスト生んだ名作『忍ぶ川』   2010.9.9

を読めば場面の見方がまた変わります。

この記事の詳細について知りたい人は、是非監督の著書をお読み頂ければよろしいでしょう。


※この記事は、信州「市民タイムス」http://www.shimintimes.co.jp/ の『熊井啓への旅』を、許可を得て掲載するものである。

熊井啓への旅

忍ぶ川-9(最終回)

執念が実り名作誕生
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kumaikei/kuma26.html

 熊井啓の「忍ぶ川」は仕上がった。封切りを前に昭和四十七(一九七二)年五月十六日夕、熊井は東宝本社に、尊敬する黒澤明監督と原作の三浦哲郎夫妻を招いて特別試写会を開いた。黒澤監督とは「私の次回作を見てください」「わかった。必ず見る」と約束を交わしており、黒澤は熊井の連絡を受けて快く来てくれた。
 三浦夫妻には長年心配をかけてしまったため、映画評論家や新聞記者たちの試写会に同席してもらうつもりでいたところ、夫人が「皆さんと一緒に見るのは気恥ずかしい。封切り後にどこかの映画館でこっそり見ます」と伝えてきて、それでは失礼にあたると、この日の特別試写会となった。
 試写の「長い長い二時間」が終わり、熊井が心配げに立っていると、黒澤が近づいて来て「おめでとう」「良かったね」と大きな手で握手を求められた。三浦とも手を握り合った。夫人の顔には温かいほほ笑みがあり、熊井はほっと胸を撫(な)で下ろす。
 三浦はそのときのようすをこのように述べている。「私が嬉(うれ)しかったことは、熊井さんが暗さを厭(いと)わず主人公の『私』を原作以上に掘り下げてくれたことである。映画の『私』のセリフの一つ一つは、私の胸には、画面から唸(うな)りを立てて飛んでくる手裏剣(しゅりけん)であったが、試写が終わったとき、私は熊井さんと無言で固い握手をした」。三浦の満足感が伝わってくる。
 「忍ぶ川」は見事なまでに支持を得た。映画雑誌『キネマ旬報』の選考委員五十人の総得点で選ぶベストテンで、昭和四十七年の一位に輝いた。
 栄(は)えあるキネマ旬報ベストテン日本映画作品賞だ。同監督賞、脚本賞に加え、読者選出のベストテンも一位。専門家、読者双方で文句なしの年間ベスト作品だった。ほかに毎日映画コンクール日本映画大賞、同女優演技賞、音楽賞、録音賞を受け、さらに熊井は芸術選奨文部大臣賞も受賞した。(日本アカデミー賞はまだ創設されていない)
 四十七年は日活「ロマンポルノ」が話題を呼び、大躍進した年。映画界全体がピンク色に染まったのだが、モノクロの純愛映画「忍ぶ川」がそれらを押しのけた。ヒロイン志乃を演じた栗原小巻は一躍スター女優となり、吉永小百合のサユリストに対してコマキストと呼ばれるファンが生まれた。いまでも栗原小巻の代表作は「忍ぶ川」であり、志乃は彼女以外にはないと思わせる。
 キネマ旬報ベストテン表彰式は東京・千代田劇場で開かれた。作品賞、監督賞を熊井が受け、「一条さゆり 濡(ぬ)れた欲情」などで伊佐山ひろ子が女優賞、伊佐山の持つ独特の雰囲気が会場全体を包んだのだが、最後にあいさつした白井佳夫(しらいよしお)編集長がよかった。「熊井さん、お立ち下さい。…そして撮影中、監督につきっきりで看病された『忍ぶ川』の陰の功労者、監督の奥様、明子夫人です」
 拍手が鳴りやまず、立ち上がった明子夫人に花束が渡された。ところが壇上の熊井は知らんぷり、照れくさかったのだろう。会場にいた映画評論家・西村雄一郎さんは、熊井監督にとって志乃のモデルは「この明子夫人なのだと思った」と記している。(『黒澤明 封印された十年』)
 「忍ぶ川」は熊井の執念が完成させた作品だ。
 結核病棟で伏(ふ)せっているとき原作を読み、監督になってこれを映画化するんだと心に誓ったものの、日活では曲折を繰り返し、フリーになってようやく実現の道が開かれた。ところが、クランク・インを控えて出血性胃炎で救急搬送、死線をさまよい、入院療養を強いられた。ロケ中にも下血し緊急入院した。どの時点で道が断たれても何の不思議もなかった。それなのに完成にこぎ着け、名作の評価を勝ち取った。“映画の神様”がいるとするならば、熊井はその神様の恩寵(おんちょう)を受けたのだと思わずにはいられない。
 熊井啓は平成十(一九九八)年、「忍ぶ川」の夏のロケをした深川木場(きば)を一人歩いている。当時、縦横に走っていた堀は埋め立てられ、数百はあった貯木場や材木屋も跡形もなく消えて道路、公園、高層ビルに変容していた。
 「深川を知らずして江戸は語れないとまでいわれた風景は、わずかしか残っていない。私の生命を助けてくれた太田六敏氏をはじめ、この深川を愛したメーン・スタッフや俳優の幾(いく)たりかも、すでにこの世にいない」と録し、ロケ現場の熱気と喧騒(けんそう)を懐かしんでいる。


 文\赤羽康男




熊井啓の経歴
 熊井 啓(一九三〇−二〇〇七) 映画監督。豊科町(現・安曇野市)に生まれ、松本市で育った。松本中(現・松本深志高)から松本高等学校に入学、新制の信州大学理学部を卒業した。独立プロの助監督を経て日活撮影所監督部に入社、助監督後、「帝銀事件・死刑囚」で監督デビュー、骨太な社会派監督として活躍した。「海と毒薬」でベルリン国際映画祭審査員特別賞(銀熊賞)、松本サリン事件を題材にした「日本の黒い夏−冤罪」でベルリン国際映画祭特別功労賞など受賞多数、紫綬褒章も受けた。主な監督作品に「黒部の太陽」「忍ぶ川」「サンダカン八番娼館・望郷」「深い河」ほかがある。



続けて読んで頂いた方、長い間お付合い頂いてありがとうございました。
あの名作映画が出来るまでの苦労と、運命があったことが判り、感動することが多く借りました。
皆さんの読後の感想などを聞かせて頂けたらうれしいです。

※この記事は、信州「市民タイムス」http://www.shimintimes.co.jp/ の『熊井啓への旅』を、許可を得て掲載するものである。

熊井啓への旅

忍ぶ川-8

原作に劣らぬ味わい
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kumaikei/kuma25.html

 映画「忍ぶ川」はすべてのカットの撮影を終え、完成に近づいた。一つ一つのシーンに熊井啓を始め、俳優、スタッフの力が込められ、神経が配られているが、いかに熊井が細かいところまで気を遣い、完璧(かんぺき)を目指したかがわかる個所がある。
 主人公の哲郎が学生寮の自分の部屋で夜、手紙を書く場面。本棚が一瞬映し出される。そこに『吉江喬松(たかまつ)全集』が収まっているのだ。吉江は塩尻村(現・塩尻市)長畝(ながうね)の旧家出身の詩人でフランス文学者、号を孤雁(こがん)と称した。フランスに留学し、帰国後、新設された早稲田大学仏文科の教授を務めた。
 小説『忍ぶ川』を書いた三浦哲郎は早稲田大学を中退後、郷里に帰って中学教師になるものの、早稲田に再入学し、仏文科を卒業している。映画の主人公も早稲田仏文科の学生と思われるから、本棚に吉江喬松の本はふさわしいのである。
 吉江家の現当主は、熊井啓の松本中学(現・松本深志高)の一年後輩で、元高校教諭の吉江嘉教(よしのり)さん(77)。吉江さんは松本の映画館で「忍ぶ川」を見たとき、あっと思った。「全体のカメラワークがきれいで、最後の馬橇(ばそり)の鈴の音(ね)なんかは詩的で良かったけど、あそこに吉江の本を入れるところなんか、さすが熊井さんだ」と脱帽した。
 「忍ぶ川」完成から二年、熊井は、すでにかなり取り壊され、残りも壊されようとしていた旧制松本高等学校校舎の保存運動に取り組む。その際、残った校舎を見て回るのだが、近くの松本県ケ丘高校に勤めていた吉江さんはお供をした。「熊井さんは校舎のあちこちを写真に撮って、何が貴重か教えてくれた。研究熱心で、繊細で、思いやりのある人だった」と懐かしむ。
 「忍ぶ川」は、哲郎と志乃が裸のまま一枚の毛布にくるまり、廊下の雨戸を細めに開けて馬橇の鈴の音を聴くクライマックスが確かに印象深い。
 雪国の静けさの果てから鈴の音が響いてくる。志乃は「何の鈴?」と聞き、哲郎が「馬橇の鈴」と答えると、さらに志乃は「馬橇ってなあに?」と尋ねる。「馬がひく橇のことだよ。在(ざい)のお百姓が町に出て、焼酎(しょうちゅう)飲み過ぎて、いまごろ村へ帰るんだろう」「あたし、見たいわ」となって、ふたりは起き上がり、廊下に出る。馬橇はりんりんと、月の光が冴(さ)え渡る雪の上をこちらに近づいてくる。
 映像は雪を蹴(け)る馬の足や激しく揺れる鈴をアップでとらえ、高まる鈴の音が二人の真情にこだまする。今日からは一人ではない、愛する人と一緒に歩む、歩めるという幸福感。原作は志乃が寒さで震え出し、主人公の私が「さ、もう寝よう」と促して眠るが、映画はここから再びふたりの営みが光芒(こうぼう)の中で美しく描かれる。
 合間合間に、海猫が声もなく群れ飛ぶシーンがはさまり、営みは次第に激しいものになってゆく。海猫の荒々しい乱舞が、ふたりの愛と再生をイメージしているかのようだ。

 「忍ぶ川」は、ふたりが一泊の新婚旅行(温泉)に行く汽車のシーンで締めくくられる。山間(やまあい)の寂しい雪景色の中を汽車が走り、トンネルを抜け、再度雪景色となったとき、志乃が「あっ、見える、見える」と大きな声を出し、哲郎が「何だ、何が見えるんだ」と問うと、「家(うち)が! あたしの家が!」と言う。志乃は生まれてこのかた家らしい家に住んだことがなく、好きな男と結婚して持てた家を見つけて心底うれしかった。
 映画ではふたり頬(ほお)を寄せてそれを眺めるが、原作の最後はこうである。「ふと気がついてみると、初荷をはこぶ行商の人たち、年始まわりの着飾った人たちが、口をつぐんで、私と志乃にものめずらしそうな目を注いでいて、私は、うんうんと志乃にうなずきながら、身のまわりがやたらにまぶしく、赤面した。」
 原作を読んだ後に映画を見ると、失望することが多い。原作のきめ細かさ、作品全体からにじむ味わいが、二時間の映像では表現し切れず、平板なものになってしまうからだ。だが、映画「忍ぶ川」は原作に劣らず味わい深い。
 日本がまだ貧しかった時代の、自分自身に正直に生きようとする若い男女の一途(いちず)な愛がモノクロームで端正に彫り込まれ、清らかでありながら甘美、慎(つつ)ましくも熱い。
 熊井啓十九作品の中で「忍ぶ川」が一番好き、という人は多い。


 文\赤羽康男




熊井啓の経歴
 熊井 啓(一九三〇−二〇〇七) 映画監督。豊科町(現・安曇野市)に生まれ、松本市で育った。松本中(現・松本深志高)から松本高等学校に入学、新制の信州大学理学部を卒業した。独立プロの助監督を経て日活撮影所監督部に入社、助監督後、「帝銀事件・死刑囚」で監督デビュー、骨太な社会派監督として活躍した。「海と毒薬」でベルリン国際映画祭審査員特別賞(銀熊賞)、松本サリン事件を題材にした「日本の黒い夏−冤罪」でベルリン国際映画祭特別功労賞など受賞多数、紫綬褒章も受けた。主な監督作品に「黒部の太陽」「忍ぶ川」「サンダカン八番娼館・望郷」「深い河」ほかがある。



二人が汽車で新婚旅行に向った温泉が、ここ金田一温泉郷なのである。

この物語りは小説『初夜』に続けて描かれていて、泊まった宿は、3年前に廃業して今は無い「神泉館」(通称:古湯)のことで、この宿のことは『白夜を旅する人々』など多くの作品に描かれているのである。

※この記事は、信州「市民タイムス」http://www.shimintimes.co.jp/ の『熊井啓への旅』を、許可を得て掲載するものである。

熊井啓への旅

忍ぶ川-7

初夜の撮影 悩み抜く
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kumaikei/kuma24.html

 小説『忍ぶ川』は、主人公の私が、小さな料亭「忍ぶ川」の女中志乃(しの)に出会い、惹(ひ)かれ合い、私の故郷の東北の生家でささやかな結婚式を挙げ、明日を信じて強く生きようとする物語である。
 私は六人きょうだいの末っ子。二人の兄は失踪(しっそう)、三人の姉のうち二人は自殺、残る一人の姉も病弱で目が悪い。私はそんな家族の暗い血におののき、将来に言い知れぬ不安を抱いている。
 志乃は志乃で家が極めて貧しく、父と弟妹たちは栃木で神社の社殿に住まざるを得ない暮らしをしている。
 いわば大きな「負」を抱えた二人が結婚を機に支え合い、打ち克(か)っていこうと誓う。一心同体となる初夜の大切さが強調されるのはそこだろう。
 夏の深川木場(きば)、洲崎(すさき)の暑さと対(つい)を成すのが冬の東北の雪であり、その対照が小説『忍ぶ川』を魅力的なものにしているが、映画「忍ぶ川」も同様である。
 「忍ぶ川」の冬のロケ地に選ばれたのは、三浦哲郎(原作者)のふるさと青森八戸(はちのへ)ではなく、山形米沢であった。プロデューサーの椎野英之(しいのひでゆき)が米沢新聞社の社長と懇意で、豪雪地帯の米沢のほうがいいと判断した。
 熊井啓はじめスタッフと俳優陣は昭和四十七(一九七二)年二月、米沢入りする。米沢は伊達(だて)、上杉家ゆかりの歴史と伝統の城下町。旧家が多く残り、撮影にはもってこいだった。
 主人公哲郎の老父母と姉が住み、哲郎と志乃が結婚式をして初夜を迎える家は、隣町にある星家が選ばれた。
 だが、肝心の雪がなかなか降らず、熊井のストレスは高じた。現場では「やじ馬うるさい!」などと怒鳴り、宿に戻ると、看護で付いてきていた妻の明子さんに「酒と牛肉の米沢に来てお粥(かゆ)か」と当たり散らした。
 十日目、ようやく雪が降った。スタッフは嬉々(きき)として撮影に取りかかるものの、熊井自身は血圧が急激に下がって、雪の中に立っているとそのまま凍りついてしまいそうだった。
 その夜またまた下血、十二時過ぎ、みんなが寝静まってから明子さんに打ち明け、ひそかに救急車を呼んで地元の病院に入院した。急を聞いて録音の太田六敏が知人を東京から呼び寄せてくれ、輸血を受けた。
 テレビは連合赤軍の「あさま山荘事件」を盛んに報道していた。熊井は何の興味もわかなかった。体力、知力が著しく衰え、事件どころではなかったのだ。ロケは打ち切らざるを得ず、初夜のシーンはそっくり残された。協議の末、星家の了解を得て二階部分を解体、東京の東宝撮影所に持ち込んで組み直し、セット撮影となった。
 初夜をどう撮るか、熊井は悩み抜き、米沢でもなお決めかねていた。明子さんの記録によると、「こりゃ、一発勝負の大ばくちだな」とつぶやきながら、絵コンテを描いたり、夜中に三浦宅に電話してプライバシーにかかわることまで聞いていたという。
 図らずもセット撮影になった利点もあり、スタッフや加藤剛、栗原小巻と綿密に打ち合わせた後、丁寧に撮り進めることができた。二人の陶酔感を表現するため、高さ三メートルの場所に硬質の大きいガラス板を張って下から強い光を当て、二人が演技するのを上方から撮影する方法を取った。「栗原小巻君は、脱ぐのにかなり抵抗があったらしいが、現場に入ると、すっかり割りきり、いわゆるポルノ女優のような慣れはもちろんないが、中途半端なためらいなどなく、さわやかで、演技者として見上げた態度だった」と熊井は記している。(「海猫と初夜」)
 「雪国ではね、寝るとき、なんにも着ないんだよ。生まれたときのまんまで寝るんだ。そのほうが寝間着なんか着るより、ずっとあたたかいんだよ」と哲郎が言い、志乃が「あたしも寝間着を着ちゃ、いけませんの?」と尋ね、「ああ、いけないさ。あんたももう雪国の人なんだから」と言われて、電灯を消した暗闇の中、志乃が衣ずれの音をさせて着物を脱ぎ、「ごめんなさい」と、ほの白い体を哲郎の布団にすべり込ませる原作どおりの場面がある。牧野静枝さん(59)=安曇野市穂高有明=は「忍ぶ川」を東京池袋の映画館で夫と一緒に見た。三十六年前のことだ。当時埼玉に暮らしていた。「とてもピュアな感じで、印象深い映画でした」と思い起こし、「雪国では本当に何も着ないで眠るの?」と北海道出身の夫に映画を見たあと聞いた記憶があるという。


 文\赤羽康男




熊井啓の経歴
 熊井 啓(一九三〇−二〇〇七) 映画監督。豊科町(現・安曇野市)に生まれ、松本市で育った。松本中(現・松本深志高)から松本高等学校に入学、新制の信州大学理学部を卒業した。独立プロの助監督を経て日活撮影所監督部に入社、助監督後、「帝銀事件・死刑囚」で監督デビュー、骨太な社会派監督として活躍した。「海と毒薬」でベルリン国際映画祭審査員特別賞(銀熊賞)、松本サリン事件を題材にした「日本の黒い夏−冤罪」でベルリン国際映画祭特別功労賞など受賞多数、紫綬褒章も受けた。主な監督作品に「黒部の太陽」「忍ぶ川」「サンダカン八番娼館・望郷」「深い河」ほかがある。

※この記事は、信州「市民タイムス」http://www.shimintimes.co.jp/ の『熊井啓への旅』を、許可を得て掲載するものである。

熊井啓への旅

忍ぶ川-6

喜びのクランクイン
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kumaikei/kuma23.html




生死の境をさまよった末、退院にこぎ着けた熊井啓は四、五、六月の三カ月間自宅療養した。そしてついに「忍ぶ川」はクランク・インする。
 昭和四十六(一九七一)年七月九、十の両日、東京浅草の浅草寺(せんそうじ)ほおずき市のシーンがそれだった。三浦哲郎が原作を発表してから十一年、熊井が三浦宅を訪ねて映画化を約束してから五年の歳月がたっていた。
 浅草寺の広い境内にずらり並んだ露店から「ホオズキはいかがー」「ご利益(りやく)あるよー」の呼び声が飛び交い、店々に吊(つ)り下げられた数百、数千の風鈴が風にいっせいになびいて鳴り出す中、加藤剛(ごう)、栗原小巻(こまき)の主役二人にカメラが向けられた。加藤は学生らしく白ワイシャツに黒ズボンの質素な身なり、栗原は襟足(えりあし)美しい和服姿に白い日傘を差していた。
 熊井は「そのとき、私ははじめて『忍ぶ川』は流れ出したという実感を持ったのだ。(中略)『幻の映画』といわれたものだけに、その感慨はひとしおであった」と回想している。(「クランク・インへ」)
 うれしかったろう。あふれんばかりの喜びが体全体を満たしたにちがいない。
 時代が前後するが、詩人の山本勝夫さん(77)=松本市浅間温泉三=が東京で開かれる日中文化交流協会のパーティーで、同協会代表理事を務める栗原小巻に幾度か会っている。「人を人と思わない女優も知っていますが、栗原さんは礼儀正しくて控えめで、いい感じの方です。体は大柄ですが」と笑う。最近になって小説『忍ぶ川』を読み返し、「不遇な家族の業(ごう)を背負った東北出身の主人公の物語ということで、ものすごく暗い印象がありました。ところがそうではなく、温かい感じを持ちました」と話す。
 そんな栗原小巻が二十六歳当時、体当たりで取り組んだのが「忍ぶ川」であった。吉永小百合とは誕生日が一日違いの同じ年。やはり初夜のシーンに悩み、率直な思いを熊井に打ち明けている。熊井は「栗原君にも拒否されたら…」と心配したが、裸になる、ならないという次元の問題ではなく、どう演じたらいいかという悩みだった。熊井は、スタッフを信頼して真摯(しんし)に演じてもらえればいい旨(むね)を説明した。(「映画『忍ぶ川』をめぐる総(すべ)てについての記録3」)
 昭和四十六年八月、熊井らは深川木場(きば)、洲崎(すさき)、谷中(やなか)、吉原、上野、早稲田大学など夏のシーン撮りをおこなった。苦労したのは遊廓(ゆうかく)だった洲崎。元遊廓の似たような街を関東一円探し歩いたものの見つからず、美術担当の木村威夫(たけお)が資料を参考に、西洋風バルコニーや家々の壁、「洲崎パラダイス」の大アーチから小さな看板に至るまで完全復元して撮影が成った。三浦哲郎の故郷、小説『忍ぶ川』の舞台の青森八戸(はちのへ)にも行き、その気候風土に触れた。
 
 こうして製作は順調に進むかに見えた。
 熊井は九月から十月にかけて日中文化交流協会代表団(中島健蔵団長)の一員として訪中し、広州、北京、西安などを見て帰国した。酒を飲む機会が増えていたのだろう、また下血があり、吉祥寺(きちじょうじ)の森本病院に入院する。
 絶対安静のまま再び太田六(む)敏(とし)の世話で輸血してもらい、無事退院できたが、森本泰院長から「酒をやめるか、映画をやめるかだ。映画を作りたかったら十年間、酒とたばこをやめなさい!」と厳命され、さすがの熊井も骨身に染みた。
 禁酒禁煙を固く決意した熊井は以後十年間、一滴一服も口にしなかった。周りは「熊井がよく実行できたものだ」と驚きを隠さなかったが、本人は「今度倒れたら本当に死ぬ予感がした。死より好きな仕事をする生を選んだだけのこと」と思っていた。(「私の転機」)
 明子さんは「森本先生の言葉で自分からお酒をやめてくれました。余命十年とも言われてたんですが、本人には言えません。映画のない熊井なんて考えられませんから、健康体になることを信じて、いろんな本を読みあさって、玄米や青汁といった食事療法に取り組みました」と、当時の必死な思いを語る。
 再度撮影スケジュールの見直しを余儀なくされたが、太田らが奔走して調整が図られ、志乃が働く「料亭忍ぶ川」のセット撮影が行われた。セットはもちろん木村威夫の苦心作である。


 文と写真\赤羽康男




熊井啓の経歴
 熊井 啓(一九三〇−二〇〇七) 映画監督。豊科町(現・安曇野市)に生まれ、松本市で育った。松本中(現・松本深志高)から松本高等学校に入学、新制の信州大学理学部を卒業した。独立プロの助監督を経て日活撮影所監督部に入社、助監督後、「帝銀事件・死刑囚」で監督デビュー、骨太な社会派監督として活躍した。「海と毒薬」でベルリン国際映画祭審査員特別賞(銀熊賞)、松本サリン事件を題材にした「日本の黒い夏−冤罪」でベルリン国際映画祭特別功労賞など受賞多数、紫綬褒章も受けた。主な監督作品に「黒部の太陽」「忍ぶ川」「サンダカン八番娼館・望郷」「深い河」ほかがある。

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