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「忍ぶ川」情報

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※この記事は、信州「市民タイムス」http://www.shimintimes.co.jp/ の『熊井啓への旅』を、許可を得て掲載するものである。

熊井啓への旅

忍ぶ川-5

再構想中に緊急入院
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kumaikei/kuma22.html

 脚本の初夜のシーンをすべてカットしろ、などと主張した吉永小百合の父芳之(よしゆき)との交渉が物別れに終わり、所属する日活で「忍ぶ川」の実現が断たれた熊井啓はフリーに転じた。
 「吉永君(小百合)が吉永氏(父)の反対を押し切って、私たちスタッフを信頼し『忍ぶ川』を完成していたならば、全く違った人生コースを辿(たど)ったに違いない」と熊井は「映画『忍ぶ川』をめぐる総(すべ)てについての記録10」で述懐するが、確かにそうだ。「忍ぶ川」は吉永小百合の代表作になった可能性がある一方、そこでヌードを披露した場合、今日のイメージとは異なる吉永小百合を歩んだと思われる。
 フリーの熊井が最初に撮った「地の群れ」は原爆被爆者、朝鮮人ら差別される者同士が憎しみ、諍(いさか)い合うさまを赤裸々に描いた問題作で、昭和四十四(一九六九)年七月完成するものの、封切りは翌年に持ち越された。
 じっとしていられない熊井は、遠藤周作の小説『海と毒薬』を映画化したいと、遠藤宅を訪れて許可を得、シナリオ第一稿を書いた。さらに秋元松代の戯曲『かさぶた式部考(しきぶこう)』を読んで感銘を受け、シナリオを書き上げて製作会社に働きかけてみたが、これも思うに任せない。
 「芸術祭参加作品の仕事をしてもらえないか」と、広島テレビから依頼されたドキュメンタリー「光と風の生涯」(被爆死した旧制広島高校教授のわが子にあてた遺書の話)を作り、続いて沖縄渡嘉敷(とかしき)島民たちの集団自決を扱った映画「沖縄心中」の製作を検討するなか、東京映画プロデューサーの椎野英之(しいのひでゆき)から電話がきた。「何かいい青春ものない?」
 熊井はとっさに「『忍ぶ川』はどうでしょう」と言ってしまった。「忍ぶ川」はもともと東京映画が企画し、頓挫(とんざ)していた。
 しばらく間をおいて椎野は「いいねえ、『忍ぶ川』…」とつぶやき、熊井が「シナリオはできてます」と言うと、「それ、すぐ見せてよ」と話が進んだ。
 「忍ぶ川」のシナリオは椎野らを通じて東宝に渡り、製作が決まった。彼から「やりましょう」と聞かされた熊井はにわかに信じられなかった。日活であれほどすったもんだがあり、あきらめていた「忍ぶ川」が日活を辞めたら出来るとは。
 主演は加藤剛(ごう)、ヒロイン志乃(しの)役は原作の三浦哲郎(てつお)が熊井に「栗原小巻(こまき)という新人女優がいるが、どうだろう」と提案し、希望が通って栗原小巻になった。二人とも俳優座の劇団員、スケジュールが調整しやすいことも幸いだった。
 ところが、すんなり行かないのがこの「忍ぶ川」の宿命のようだ。
 昭和四十六(一九七一)年二月十五日、熊井啓は自宅トイレで吐血・下血し、救急車で多摩川病院に緊急入院、病室でも吐血・下血を重ねた。
 妻の明子さんの記録によると、「すごく荒い呼吸、早く弱い脈。胸苦しさを訴え、もがき、酸素吸入の管をはずしてしまう」のだった。三日後、ショック状態のまま手術室に運ばれ、開腹手術が施される。
 医師に「手術室から生きて出て来られるかわからない」と告げられた明子さんは右往左往し、「忍ぶ川」の録音を担当する太田六敏(むとし)に電話した。太田は穂高矢原(やばら)の出身、熊井の親友だった。
 連絡を受けた太田は妻と車に飛び乗り、「熊ちゃん、ばか野郎! 死ぬなよ、何としても『忍ぶ川』を撮るんだ」と叫んだ。熊井が死んでしまったような気がして涙が止めどなく流れたという。
 手術は終わった。医師団の長い討議を経て明子さんと太田が受けた説明は、原因は判然とせず、この二、三日がヤマとのことだった。
 その後、点滴と保存血の輸血が繰り返され、病状は一進一退だったが、太田夫妻が機転を利かせて連れてきた学生らの新鮮血を輸血すると、熊井は目覚ましい回復を見せた。
 手術後いらいらを隠せず、「医者の言うことを全部書いておけ。『白い巨塔』なんてもんじゃないからな、現実は」と明子さんに言いつけた熊井も次第に機嫌を直し、四十五日後の三月三十一日、退院するに至った。
 この闘病体験を熊井は「たった七年間で監督生活を終えるのは悔しかったし、私には意地があった。この悔しさと意地が、私をささえていた」と録している。(「病魔を克服して」)
 あの「黒部の太陽」から「忍ぶ川」に至る闘いのストレスが限界を超え、深酒で紛(まぎ)らわせる月日も重なって、もともとの痩躯(そうく)が悲鳴を上げたに相違なかった。


 文と写真\赤羽康男




熊井啓の経歴
 熊井 啓(一九三〇−二〇〇七) 映画監督。豊科町(現・安曇野市)に生まれ、松本市で育った。松本中(現・松本深志高)から松本高等学校に入学、新制の信州大学理学部を卒業した。独立プロの助監督を経て日活撮影所監督部に入社、助監督後、「帝銀事件・死刑囚」で監督デビュー、骨太な社会派監督として活躍した。「海と毒薬」でベルリン国際映画祭審査員特別賞(銀熊賞)、松本サリン事件を題材にした「日本の黒い夏−冤罪」でベルリン国際映画祭特別功労賞など受賞多数、紫綬褒章も受けた。主な監督作品に「黒部の太陽」「忍ぶ川」「サンダカン八番娼館・望郷」「深い河」ほかがある。

※この記事は、信州「市民タイムス」http://www.shimintimes.co.jp/ の『熊井啓への旅』を、許可を得て掲載するものである。

熊井啓への旅

忍ぶ川-4

悲願の映画化 暗礁に
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kumaikei/kuma21.html

 「忍ぶ川」を撮るに当たり、熊井啓が白黒フィルムにこだわった理由をもう少し記しておきたい。そこには熊井啓という“映像作家”の審美眼がよく現わされていると思うからである。
 ……冬のある日、熊井少年は空から舞い降りてくる雪を眺めていた。どの雪も灰色をしていて、空いっぱいに灰色の細かい点が噴き出すようで、目が回り、天も地もわからなくなって吸い上げられてゆくような気がした。
 ところが、その灰色の雪は積もると白い。辺り一面を白一色に包み込み、光が当たると色合いを変えて輝く。夜は夜で別の世界をつくり出す。
 こうした雪の色調を映像で見せるには、カラーに決まっていると思いがちだが、熊井は「違う」と断言する。水墨画がさまざまな白黒を表現するように、白黒フィルムのほうがかえって色彩を感じさせるというのだ。「人間のイメージは、ある刺激を受けた瞬間に、はかり知れぬ広がり方、深まり方をするものである」「雪は生きものである。雪は生理的に冷たく感じさせる要素と共に、正反対の視覚的な温かさ、優しさもあわせ持つ」とも。(「映画『忍ぶ川』をめぐる総てについての記録3」)
 雪はただ白いものではないことが、吉永小百合の父芳之(よしゆき)にはわからなかったようだ。
 カラーを主張する芳之は、ほかにも多くの注文を付けた。主題歌を作って娘に歌わせたいとし、日活宣伝部長も相手役を舟木一夫にしてデュエットしてはどうか、と言い出す始末。熊井は開いた口が塞(ふさ)がらない。
 さらに芳之は、主人公の過去(兄姉たちが自殺したり失踪(しっそう)する暗い血の部分)をカットするよう求め、この映画で最も重要な初夜のシーンについてもああしろ、こうならないか、なくてもいいだろうと異様なほど口出しした。熊井には、かわいい娘が自分の理想に合わぬ男に寝取られてしまうのを、必死に食い止めようとする、現実と映画を混同した父親の姿に映った。
 もっとも、この素っ裸で初夜を演じるシーンは、吉永小百合自身にも相当な抵抗があった。
 「自分が大人の役をこれから本格的にやっていくための、足がかりがつかめるんじゃないか」などと、熊井に語った吉永小百合は、傍目(はため)にも気の毒なくらい迷っていた。「清純派」路線は完全に頭打ち、大人の女優に成長しなければならないが、初夜のシーンがその後の女優人生にプラスになるとは限らない。
 熊井もまた真剣だった。マイナスに作用するようなら監督である自分の責任だと自覚し、だからこそ「完全」を目指し、全力投球する構えだった。とはいえ、吉永小百合だから脚本を大幅変更して撮る、というのでは本末転倒だ。
 日活と吉永プロの交渉は、熊井の「私たちは『忍ぶ川』を吉永君の代表作にしてあげたいと頑張っているんです」の訴えに、芳之が「どうぞ勝手に準備してください。娘は出しませんから」と返答して決裂した。
 こうして吉永小百合の「忍ぶ川」は泡(あわ)と消え、熊井の念願は暗礁(あんしょう)に乗り上げてしまう。
 悪いことは重なるもので、「黒部の太陽」に続いて石原プロモーションから依頼された「草の陰刻」(松本清張原作)も決定稿ができ、キャスティングまで済んでいたのに突然中止となった。
 熊井は挫折感に苛(さいな)まれた。「忍ぶ川」の原作者三浦哲郎(てつお)に新宿の居酒屋で会っても「必ず作りますから」と繰り返すしかなかった。
 昭和四十四(一九六九)年、熊井啓は十五年間いた日活を退社し、フリーとなる。ベトナム反戦を皮切りに大学闘争の嵐が吹き荒れ、騒然としていた時代、その不透明感に支配されたかのように熊井自身も不安でたまらなかった。
 そんな「先の見えない悪夢のような時代」に、井上光晴の小説『地の群れ』を思い出し、わずか一千万円の予算で「地の群れ」を撮る。製作費の不足分は日活の退職金を充てた。「この映画には当時の私のやり切れなさが、そのまま出ているように思う。私の作品の中では最もネガティブなものである」(「『地の群れ』の頃(ころ)」)
 熊井映画に詳しい重野秀治(しげのひではる)さん(44)=安曇野市豊科=は「地の群れ」について「衝撃的だった。『黒部の太陽』の華やかさのあとがこれですからね。次が『忍ぶ川』でしょう。全然違うものを撮れる力はすごい。専門家が評価するはずです」と目を丸くする。


 文と写真\赤羽康男




熊井啓の経歴
 熊井 啓(一九三〇−二〇〇七) 映画監督。豊科町(現・安曇野市)に生まれ、松本市で育った。松本中(現・松本深志高)から松本高等学校に入学、新制の信州大学理学部を卒業した。独立プロの助監督を経て日活撮影所監督部に入社、助監督後、「帝銀事件・死刑囚」で監督デビュー、骨太な社会派監督として活躍した。「海と毒薬」でベルリン国際映画祭審査員特別賞(銀熊賞)、松本サリン事件を題材にした「日本の黒い夏−冤罪」でベルリン国際映画祭特別功労賞など受賞多数、紫綬褒章も受けた。主な監督作品に「黒部の太陽」「忍ぶ川」「サンダカン八番娼館・望郷」「深い河」ほかがある。

※この記事は、信州「市民タイムス」http://www.shimintimes.co.jp/ の『熊井啓への旅』を、許可を得て掲載するものである。

熊井啓への旅

忍ぶ川-3

吉永小百合が候補に
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kumaikei/kuma20.html

 昭和四十一(一九六六)年夏、熊井啓は「忍ぶ川」のシナリオを懸命に書き上げ、それを受けた日活契約プロデューサーの大塚和は江守清樹郎(えもりせいじろう)専務に映画化の旨(むね)を申し入れた。しかし、経営不振にあえぐ日活にあって江守は「駄目だ」と認めなかった。
 一方、社員プロデューサーの横山実が、「忍ぶ川」を吉永小百合主演でやりたいと考え、シナリオ作家協会から借り出してきた松山善三の脚本を江守に読ませたところ、江守の意に沿うものだったらしく許可が下りた。プロデューサー同士のこうした競争やトラブルは日常的にあった。
 熊井は苦慮した。なぜなら大塚とのつきあいは助監督時代を含めて長く、前作「日本列島」を一緒に完成させた仲、『忍ぶ川』の三浦哲郎(てつお)宅にも一緒に伺(うかが)い映画化を申し入れていた。横山とは深いつきあいはない。したがって大塚の顔を立てたいのはやまやまだが、実現の道は、横山と組んで吉永小百合の「忍ぶ川」を作るほかない。熊井は彼女の「忍ぶ川」をイメージしていなかった。
 吉永小百合は当時二十一歳、それまでの「清純派」路線がマンネリに陥り、打開策が模索されていた。彼女自身も大人への脱皮に悩んでおり、「忍ぶ川」をきっかけにしたいと思っていた。
 熊井は熊井で「日本列島」の監督料二十万円を使い果たし、わずかな基本給で生活していた。子どもも生まれる。追いつめられたまま「忍ぶ川」に挑もうとした。十一月と十二月、横山に連れられて世田谷梅ケ丘の吉永家を訪れ、小百合の両親と面会する。
 だが、この出会いは双方いい印象を残さずに終わった。とりわけ小百合の母和枝は、悪酔いした熊井が突飛な言動をしたため、あきれてしまったようだ。(吉永和枝『母だから女だから』)
 明けて昭和四十二年一月、日活に“激震”が走った。江守専務ら六人の役員の退陣、幹部クラスの大幅異動が断行され、十四億八千万円に上る累積赤字からの脱却が打ち出された。江守という「たが」が外れた日活が、超低額予算の「ロマンポルノ」に走るのはこのあとである。(ちなみに、この手の映画は六十二年までに千百本乱造され、ピーク時には年間延べ一千万人が見て、配給収入三十九億円を記録した)
 「忍ぶ川」も揺れに揺れた。四十二年二月、熊井宅を訪れた横山が「小百合のスケジュールがいっぱいで、あまり時間をかけられない」「(初夜のシーンで)どこまで裸にするのか」などと言い出した。
 四月十日、熊井は築地の小料理屋で吉永小百合本人と会う機会を得た。サユリストたちの会誌『さゆり』創刊号の対談が企画されたのだ。熊井は彼女が「忍ぶ川」出演を熱望していることを直(じか)に知った。
 だが熊井は、「忍ぶ川」で最も大事な雪のシーンの撮影時機をすでに逃していたうえ、石原プロモーションからもたらされた「黒部の太陽」の監督要請を引き受けていた。「忍ぶ川」は必然的に先送りされる。
 「黒部の太陽」がさまざまな困難を克服し、この年夏にクランクイン、翌年完成し、大成功を収めたのはこれまで書いたとおりだ。それは映画会社間の「五社協定」という厚い壁を石原裕次郎、三船敏郎と組んでぶち破り、風穴を開けた画期的な出来事となったと同時に、「帝銀事件・死刑囚」「日本列島」後、二年間一本も撮らせてもらえなかった熊井が監督人生を懸け、蘇生(そせい)した作品であった。
 「黒部の太陽」完成直後の四十三年二月、熊井ら日活関係者は、あらためて「忍ぶ川」を実現すべく六本木の吉永プロに出向いた。吉永側は父の芳之(よしゆき)が応じた。その芳之はことごとく熊井の構想に異を唱える。
 熊井が「忍ぶ川」は男女ふたりのドラマゆえ、画面はきめ細かさが出るスタンダードサイズで撮りたいと言ったのに対し、芳之はワイドな「シネマスコープ」を求めた。熊井が白黒フィルムにしたいと言うと、芳之はカラーを主張して譲らない。
 安曇野、松本育ちの熊井は、雪がただ白いだけのものではないことを小さいころから知っていた。降る雪は空を見上げれば灰色をしているし、積もれば純白、朝日にオレンジ色に輝くかと思えば、月光には青く光る…。こうした微妙な雪の色合いは、実はカラーより白黒フィルムのほうが深みが出る。
 「忍ぶ川」は雪に限らず、光と影が織りなす静かな、ふたりだけのモノクロ世界なのである。


 文と写真\赤羽康男




熊井啓の経歴
 熊井 啓(一九三〇−二〇〇七) 映画監督。豊科町(現・安曇野市)に生まれ、松本市で育った。松本中(現・松本深志高)から松本高等学校に入学、新制の信州大学理学部を卒業した。独立プロの助監督を経て日活撮影所監督部に入社、助監督後、「帝銀事件・死刑囚」で監督デビュー、骨太な社会派監督として活躍した。「海と毒薬」でベルリン国際映画祭審査員特別賞(銀熊賞)、松本サリン事件を題材にした「日本の黒い夏−冤罪」でベルリン国際映画祭特別功労賞など受賞多数、紫綬褒章も受けた。主な監督作品に「黒部の太陽」「忍ぶ川」「サンダカン八番娼館・望郷」「深い河」ほかがある。

※この記事は、信州「市民タイムス」http://www.shimintimes.co.jp/ の『熊井啓への旅』を、許可を得て掲載するものである。

熊井啓への旅

忍ぶ川-2

映画づくり 情熱再び
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kumaikei/kuma19.html

熊井啓は「忍ぶ川」の世界に引き込まれ、この短編を読み終えたとき、目の前の朝食はすっかり冷え切っていた。その日熊井は「忍ぶ川」を繰り返し読み、久しぶりに満ち足りた気分を味わう。
 「私は猛然と映画がつくりたくなった。そのためには徹底的に病気を治して、他人よりも四年や五年遅れてもかまわぬから、気長(きなが)に体力づくりに励み、初心どおり、なんとしてでも監督になるべきだと決心した」(「小説『忍ぶ川』と出会う」)
 こうした強い感受性と一途(いちず)さがのちに熊井を映画監督として大成させるのだ。「忍ぶ川」との運命的な出合いは、情熱を燃やし続ける“導火線”の役割を果たした。
 昭和三十六(一九六一)年三月、熊井は一年三カ月ぶりに退院する。六月には知人の紹介で、十歳年下の二十一歳の井口明子さんと松本で見合いし、互いに一目惚(ぼ)れして結婚を約束した。
 「忍ぶ川」の映画化権は東京映画がすでに握っていたのだが、なぜかちっとも映画にはならず、熊井はそれを気にしながら「帝銀事件・死刑囚」「日本列島」を作った。
 四十一年五月三十日の夜のこと、松竹の前田陽一監督から突然電話が入る。
 「熊井君、『忍ぶ川』を撮らないか」
 「え!?」
 「読売新聞の座談会で『忍ぶ川』をやってみたい、と言っていただろう。ぼくは岩下志麻主演で『忍ぶ川』を企画してみたが(松竹では)許可されなかった。だから君にぜひやってほしい」
 熊井が「でも映画化権の問題があるでしょう」と尋ねると、前田は「東京映画の契約はもう切れてるよ。(原作者の)三浦哲郎(てつお)とは早稲田大学時代の知り合いでね、三浦から直接聞いているから間違いない」と答え、「やるからには必ずいい作品を作れ」と励ましてくれた。
 熊井は胸が熱くなった。長い間夢見続けた「忍ぶ川」が、思いがけず実現に向かって一歩踏み出した。
 熊井啓は前田に頼んで東京練馬の三浦哲郎宅を案内してもらった。「三浦夫人にお目にかかりたかったのだ。もっとはっきり言えば、『志乃(しの)』のモデルに会いたかった」。(『忍ぶ川』は三浦哲郎の自伝的小説ゆえ、ヒロイン志乃は三浦夫人、というのが通説だった)
 熊井たちが玄関のドアを開けると、和服姿の三浦夫人が廊下の奥から姿を見せた。熊井は直感する、志乃は間違いなくこの女(ひと)だと。
 「塵芥(じんかい)に染まらず、生活の澱(おり)をにじませていない明るい素顔。あか抜けして張りのある美しさ。娘のような取り繕(つくろ)わない自然さ。静かではあるが、きりっと身体全体に芯(しん)の通ったものごし」が伝わって「私はこれで、映画『忍ぶ川』はできた」とさえ思う。
 河出書房新社の文芸誌『文藝』の編集長を務めた長田(おさだ)洋一(よういち)さん(63)=安曇野市穂高柏原=もまた、小説原稿の件で三浦宅を訪ねている。長田さんは夫人に志乃のイメージとは異なるものを感じたそうだ。
 長田さんは映画監督の深作欣二(ふかさくきんじ)や今村昌平(いまむらしょうへい)とのつきあいから、映画を作るに当たっては、資金集めがいかに大変か聞かされてきた。熊井作品も大方見ており、「娯楽性の強い日活で、よくああいう社会性、文学性の高い作品を撮れたと思う。そこで自分を貫き通すのは大変なこと。ストレスを酒で紛(まぎ)らわせようとした気持ちもよくわかる。常に辞表をポケットに入れて仕事をするみたいなものです」と実感を込めて語る。
 熊井啓のような一本筋が通った監督はもう出ないかもしれない、と長田さん。
 三浦夫人の印象もさることながら、熊井は三浦哲郎本人の人間性に魅せられた。穏やかな、微笑を絶やさない恥ずかしがり屋、根っからの文人であり、その人が全人生を『忍ぶ川』に込め、結果芥川賞受賞という形で認められた。
 熊井は三浦に会い、それらが「ある痛ましい美しさ」を伴って迫ってくるのを感じ、何としても映画を成功させなければと決意する。
 三浦のほうも熊井の誠意を感じ取り、映画化の申し入れを快諾した。映画完成後こう書いて敬意を表している。「私は、それまで熊井さんといえばいわゆる社会派の映画作家だと思っていたから、ちょっと意外な気がしたが、長い時間話し合っているうちに、この人こそあの作品を託すべき唯一の監督だと思うに至った」

 文と写真\赤羽康男




熊井啓の経歴
 熊井 啓(一九三〇−二〇〇七) 映画監督。豊科町(現・安曇野市)に生まれ、松本市で育った。松本中(現・松本深志高)から松本高等学校に入学、新制の信州大学理学部を卒業した。独立プロの助監督を経て日活撮影所監督部に入社、助監督後、「帝銀事件・死刑囚」で監督デビュー、骨太な社会派監督として活躍した。「海と毒薬」でベルリン国際映画祭審査員特別賞(銀熊賞)、松本サリン事件を題材にした「日本の黒い夏−冤罪」でベルリン国際映画祭特別功労賞など受賞多数、紫綬褒章も受けた。主な監督作品に「黒部の太陽」「忍ぶ川」「サンダカン八番娼館・望郷」「深い河」ほかがある。

※この記事は、信州「市民タイムス」http://www.shimintimes.co.jp/ の『熊井啓への旅』を、許可を得て掲載するものである。

熊井啓への旅

忍ぶ川-1
美しく純粋 愛の物語
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kumaikei/kuma18.html

 「志乃(しの)をつれて、深川へいった。識(し)りあって、まだまもないころのことである。」
 三浦哲郎(てつお)の短編小説の傑作『忍ぶ川』は、この一行から始まる。
 「忍ぶ川」の題名から忍ぶ恋、道ならぬ恋を連想しがちだが、そうではない。昭和二十年代の末、若い男女の哀(かな)しいほどに美しい、いじらしい愛であり、こんな時代のこんな恋愛もあったろうか、と想像される物語である。
 二十歳のヒロイン、志乃がいい。東京屈指の遊廓(ゆうかく)、深川洲崎(すさき)の射的屋(しゃてきや)(的(まと)をおもちゃの銃で撃つ遊びをさせる店)の娘に生まれ、ごく貧しい育ちなのだが、性格が真っすぐでけなげなのだ。
 主人公の「私」は、東北の片田舎から大学に通うため東京に出て来て学生寮に住んでいる。その寮の卒業生の送別会で、近くの小さな料亭「忍ぶ川」に繰り出し、看板女中の志乃を見初める。「おい、ちょっと」と呼びとめ、冷たい水をくれと言うと、志乃は「はい」と返事をして奥へ消える。その「はい」という返事が、私には何かの音色(ねいろ)のように耳の中で余韻を引く。
 私は「忍ぶ川」に通い詰め、あるとき深川で兄が消えてしまったと口にすると、志乃は深川は生まれ育った土地だと目を輝かし、八年ぶりに深川に行ってみたいと言う。それで二人は志乃の薮入(やぶい)りの日(正月と盆の十六日前後に奉公人が休みをもらい、自宅に帰れる日)に深川に行くのだ。
 白い日傘の相合い傘で娼婦(しょうふ)の町を歩く私と志乃。「ここなんですの、あたしが生まれたのは」。正面から私を見つめた志乃の額の汗がみるみる玉を結ぶ。私は「いいんだ。いいんだよ、それで」と上ずった声を出し、志乃はなおも私を睨(にら)んで「忘れないように、たんとごらんになって」と言うのである。
 原作のあら筋を長々(ながなが)追ってもいけないが、志乃は好きになった男に自分の育ちのすべてをさらけ出し、受け入れてもらおうとする。
 『忍ぶ川』を愛読書の一つに挙げる山本容子さん(39)=松本市島内=は、二人が洲崎に向かう前、最初に歩く木場(きば)で、主人公が「どうやら木場は、心のみちたりているときの私には無縁の街であるらしかった」と思うその心情が、不思議なほどよくわかると話す。
 主人公の私はこれまで木場を歩く際、必ず目だけが泣けてきた。木場は木材と運河の町。風の中に見えない木の粉が溶け込んでいて、よそ者の目には染みるのだが、志乃と二人で歩く幸せな今日は、そうならなかった。
 深川木場は江戸期、掘割(ほりわり)を縦横にめぐらせ、船に積まれて紀州などから湾に運ばれてきた材木を引き入れた。材木商たちはここで巨利を得、色町もまた栄えた。私や志乃が歩いた当時、運河や筏(いかだ)、貯木場は至るところにあり、文字どおり木場の面影をとどめていたのだが、平成元(一九八九)年、司馬遼太郎が連載紀行『街道をゆく』で「本所(ほんじょ)深川散歩」を記したときには「木場は、町名だけをのこして、いまはない」となってしまっていた。
 熊井啓が『忍ぶ川』に出合うのは、昭和三十五(一九六〇)年冬のことである。
 熊井は日活撮影所の定期健康診断で結核が見つかり、療養を余儀なくされていた。チーフ助監督で実績を積み、監督になるのは時間の問題だった。ところが長期入院を強いられ、多額の費用がかかったうえ、会社とは一年ごとの契約更新、このままでは監督昇進どころか契約を解除されかねなかった。
 熊井は生き残るために石原裕次郎や売り出し中の赤木圭一郎、吉永小百合作品のシナリオを、医師の目を盗んでせっせと書いた。バラック小屋の結核病棟、真夜中に患者が喀血(かっけつ)し、看護婦が廊下を慌ただしく駆ける音を聞きながら、熊井もまた必死だった。
 「私は焦燥(しょうそう)感にさいなまれながら、一日一日を過ごしていた。診察のたびに異なった意見を出す医師たちに、ついに不信感をもち」、専門書を買い込んで自分の病状を調べたり、心は次第に荒(すさ)んでゆく。
 そんな冬の朝の洗面の帰り、廊下の粗末な本棚に表紙の取れかかった雑誌『新潮』が目に留まった。ぱらぱらめくると、三浦哲郎「忍ぶ川」という文字が飛び込んできた。


 文/赤羽康男


熊井啓の経歴
 熊井 啓(一九三〇−二〇〇七) 映画監督。豊科町(現・安曇野市)に生まれ、松本市で育った。松本中(現・松本深志高)から松本高等学校に入学、新制の信州大学理学部を卒業した。独立プロの助監督を経て日活撮影所監督部に入社、助監督後、「帝銀事件・死刑囚」で監督デビュー、骨太な社会派監督として活躍した。「海と毒薬」でベルリン国際映画祭審査員特別賞(銀熊賞)、松本サリン事件を題材にした「日本の黒い夏−冤罪」でベルリン国際映画祭特別功労賞など受賞多数、紫綬褒章も受けた。主な監督作品に「黒部の太陽」「忍ぶ川」「サンダカン八番娼館・望郷」「深い河」ほかがある。

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