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「やれやれ、まったく」
警官は、次に言うべき言葉が
見つからないらしかった。
一度ため息をついた後で
ようやく気を取り直し、こう言った。
「では、暗いから気をつけて!」
そして、白い歯をのぞかせて
「落し物にはくれぐれも気をつけて下さいね。」
と、敬礼すると、自転車に乗って闇に消えた。
「やれやれ、まったく」
警官の消えた闇を見つめながら、
僕も同じ台詞を繰り返してしまっていた。
こんな台詞を言っちゃうなんて
「本当に、やれやれ、だな」
心の中で、もう一度つぶやいた。
全部拾うのに、30分もかかっただろうか。
「桃子さんがあんな事言い出すから」
僕の口調には、ほんの少しだけ、
とげがあったかも知れない。
「だって、ドキドキしちゃうんだもん」
桃子さんは、悪びれずにそう言う。
「昔っから苦手なんだよ、警官って」
「でも、だからって」
「・・・」
あれ?言い過ぎたかな?
ここ、謝るところかな?
今すぐ謝るべきだよな?
僕が、いつものように葛藤していると、
桃子さんが、小さいけれどかなり真摯な声で、
ゆっくりと告白を始めた。
「なんか、ドキドキしてきちゃって、
拳銃とか持ってるって思われたらどうしよう
って、思えば思うほど、わたし拳銃持ってる
ような気分になるんだよ」
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きみは僕の美しい人
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僕は、池波正太郎先生を愛する大学生。
「枯れた大学生」って呼ばれたりするけど、
そんなことはどうだっていいんだ。
僕はいま、桃子さんに恋シ・テ・ル ♡
「枯れた大学生」って呼ばれたりするけど、
そんなことはどうだっていいんだ。
僕はいま、桃子さんに恋シ・テ・ル ♡
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「はい、ちーんして!」
僕がハンカチで、その形の良い鼻をつまむと、
桃子さんは「ぶーん」と音を立てて鼻をかんだ。
「やれやれ、世話が焼けるな。」と、
不遜にも僕は心の中でつぶやいてしまった。
すると途端に、喉のところまで、
甘い気持ちが押し寄せてきたので、慌てた。
僕は、溺れないように注意深く、
そして、落ち着いて息を吸うために、
一度咳ばらいをしなければならなかった。
それは、空気の抜けるような、おかしな音がした。
「風邪なの?」
まるで、ちいさな子供のように、頼りな気に尋ねる。
睫毛の先っちょに、ぽっちりと
まだ、涙のかけらが乗っかっている。
あんなに泣いたのに、
丁寧に塗られたマスカラには、
まったく被害がないようだった。
ああ、なんて美しいんだ。
目の前の小動物は、あまりにも無防備で、
僕は、不覚にも泣きそうになってしまう。
「風邪なの?」
桃子さんがもう一度僕の顔をのぞきこむ。
「か、花粉症なんだ。」
あんまり顔が近くにあったものだから、
思わず声が裏返ってしまったけど、
気づかれてしまったかな。
「花粉症?」
そう言ったっきり、うつむいてしまった。
店には、僕たちしかいなかった。
マスターは、ついさきほど、
桃子さんの涙が涸れそうなのを見届けると
「じゃあ、あとは若い二人に任せて、ね?」
と、意味不明の言葉を残して、客と出かけてしまっていた。
マスターが主催する「鉄の荒馬倶楽部」の同志らしい。
金曜日の夜だって言うのに、相変わらずの適当ぶりだな。
ねえ桃子さん?
と言おうとして桃子さんの肩が震えているのに気づいた。
次の瞬間、桃子さんが、ぐらりと揺れた。
支えようと立ちかけた僕の目に
桃子さんのしなやかな首筋アップになった。
「くーっ!」
桃子さんは、頭を仰け反らせて、涙を流して笑っていた。
そして、笑いながらこう言った。
「花粉症だって!ださ!だっさー!」
一瞬なにが起こったのかわからない僕に更に続けた。
「のび太のくせに花粉症ー!?」
のび太のくせに。桃子さんは、時々僕にこう言った。
「へっべー!へぼ過ぎるよう」
そう言ってひとしきり僕をいたぶった。
そして「ああ、腹痛ぇ」と、一息つくと、
バッグからクリネックスを取り出して涙を拭き、
ハンカチで鼻をかむと、
「さんきゅー!」と僕のポケットに突っ込んだ。
いつもの桃子さんだった。
口を「いーっ」と横一文字に開いて、
「腹へった」とにっと笑った。
マスターから預かった鍵で戸締りをすると、
今日も僕のアパートへ僕たちは歩き出した。
おばあちゃんが送ってくれた美味しい明太子で、
パスタを作ってあげよう。
僕は、ハンサムでもなければ、
お金や力があるわけでもない。
でも、料理はちょっと得意だ。
桃子さんもきっと喜んでくれるだろう。
涙の理由は、桃子さんが言うまで、聞かなくても良い。
だって、ほら、桃子さんはいま
無邪気に歌いながら、星を探している。
それにしても重い。
僕は、桃子さんのマディソンスクエアバッグを抱えていた。
こうしないと朽ちかけたビニール紐がちぎれそうだったからだ。
鈍い金属音がしたのは、気のせいだろうか。
まさか、組み立て式の銃だったりしてね。
スナイパーの桃子さんも格好良いだろうな。
「ニキータ」のアンヌ・パリローなんか目じゃない。
「桃子〜黒い女豹」いや、だめだ、こんなんじゃ。
これじゃまるで、古き良き日活映画だ。
「だっせー!」と鼻で笑われるだけではすまない。
親指と人差し指ではさんで飛ばした桃子さんの煙草が
僕の顔をかすめること間違いなしだ。
ふと、桃子さんの歌が止まった。
誰かがこちらに向かって歩いて来る。
自転車を押している警官だった。
すれ違いざま、桃子さんが唾を飲み込む音が聞こえた。
え?まさか本当に銃とかじゃないだろうね。
桃子さんの表情は見えない。
「ああ、そうそう」警官が振り向いた。
と同時に、桃子さんが叫んだ。
「ち、違います!銃なんかじゃないですよう!」
「ワッツハプン!?」僕も叫んでいた。
いったい、なにが起きようとしているんだ?
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その日の桃子さんは、まるで、
心をどこかに置き忘れてきたみたいだった。
「いらっしゃい」というマスターの声が
普段と少し違うような気がしたが、
いつものようにウォッカソニックを頼んで、
桃子さんの隣りの席に滑りこもうとして
ようやく気づいた。
マスターが、桃子さんの指を焦がさないよう
慎重に、燃えかすになってしまった煙草を
指の間からはずしてやっている。
桃子さんのグラスの氷はおよそ溶けてしまって、
水滴はだらしなく流れ、
紙のコースターの周りは、水溜りができていた。
桃子さんの顔を覗きこもうとした僕に
マスターが目で合図した。
その先には桃子さんの脚が優雅に組まれている。
いつも少年みたいな言葉遣いをしているけど、
滑らかで野生の動物を思わせる脚は、
間違いなく芸術的だった。
ああ、今日は仕事だったんだ。
ストッキングを履かない桃子さんの脚が、
ハイヒールの中にお行儀良くおさまっている。
月に照らされた草原に
素足で立つ桃子さんを想像していると、
僕のウォッカソニックが
少し大きめの音を立てて置かれた。
いかん、いかん、
見惚れている場合ではない。
脚の隣には、使い古したマディソンスクエアバッグ。
中身がパンパンになったそれは、
かなり重そうに見えた。
「これ、なに?」
視線を送ると、マスターは、
「さあね」
という代わりの瞬きを一度だけして見せた。
いったいなにが入ってるんだ?
「桃子さん、これ、なにが入ってるの?」
気がつくと言葉に出してしまっていた。
ああ、僕の馬鹿野郎!
いつだってそうなんだ。
大事な時に限って、どじを踏む。
いま、聞いて良い訳ないだろう?
そんな事は猿にだってわかる。
さっきの言葉をなかった事にしたかった。
僕は、無理やり話題を変えようとして、
「そうだ!ごはん食べに行こうよ。
僕、美味しいお店見つけたんだよ。」
もちろん、新しい店なんか知るわけは、ない。
マスターが天井を仰いだので、
どうやら、またしても失敗した事に気づいたが、
もう、後には引けなくなっていた。
「ねえ、桃子さん」
そう言って、桃子さんの腕を掴んだ途端に、
カウンターの上に水滴が落ちた。
「ぼとんっ、ぼとんっ」と、
それは、本当にそんな音がして、
ああ、コースターの水溜りか、
と思いかけて、そんなはずはないと気づき、
水の落ちてきた先に目を遣ると、
そこには、桃子さんの瞳があった。
丁寧にマスカラを施された睫毛に
思わず見惚れそうになったが、
涙は、とめどなく湧いてきて、
それどころではなくなってしまった。
あの桃子さんが、泣いていた。
僕の桃子さんが、泣いている。
だいじょうぶ?と聞こうとしたら、
「だって、桃子じゃないもん」
とつぶやいて、とうとう
「うわーん!」と声をあげて泣き出してしまった。
僕は、なんて馬鹿なんだ。
その夜、僕の周りは地雷だらけだった。
それとも僕自身が地雷なのか?
マスターは「Oh!my god」と口癖をいう時の顔で、
僕を憐れむような目で見ている。
ああ、誰か助けてプリーズ・・・。 |
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深夜2時、僕は米を研いでいる。
いつものバーでマスターとお喋りしていると
突然、となりで飲んでいた桃子さんが
「お茶漬けが食べたい」と言い出したのだ。
こんな時間にお茶漬けを食べられるお店なんて
もちろん僕は、知らない。
そうして今日も、
桃子さんは僕のアパートにやってきた。
言い出したら聞かないんだからもう。
「それ、なんていう歌だっけ?」
となりの部屋から声がする。
いつのまにか口笛を吹いていたらしい。
きっといつか自由に空も飛べるはず
ここのとこしか知らなかったけど
最近よく聞く曲。
桃子さんは、
大根なますをつっつきながら、
ジャック・ダニエルを飲んでいる。
僕はウイスキーを飲まないのだけれど
桃子さんがいつ来てもいいように
置いておくようになった。
「ウイスキーあるよ」と言ったら、
「ノブオくんって本当に可愛い!
わたしの愛人(L'Amant)みたい!」
と僕の腕にしがみつくので、
桃子さんのラ・マンになら
なっても構わないよと心の中でつぶやいてみる。
葱入りの卵焼きがふかふかと湯気を立てている。
「ごはん炊けたよ」
返事がない。
どうやら眠ってしまったようだ。
桃子さんを毛布でくるんであげると
僕は、部屋の灯りを消した。
暗闇の中で桃子さんの寝息を聞いている。
なにか温かいものに満たされながら、
「鬼平犯科帳」のVHSの続きを見ている。
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