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「14番目の月」
最終話
もう一度
サトコは、髪を乾かすと、化粧をした。
いつもより念入りにマスカラを重ねる。
下まつ毛の1本1本まで、息を止めて。
弓なりの三日月のような優しい眉を今日は
敢えて直線的に、やや上げ気味に描いてみる。
仕上げに、EGOISTをすっと吹きかけた。
もうとうに、時代遅れなのかも知れなかった。
でも、わたしの香り。
「サトコさん、香水つけないんですね。」
後輩にそう言われて、驚いたことがある。
量をやや多めつけているつもりだったのに、
香水に気づかれることは、ほとんどない。
自分の匂いにフィットしているからだと思う。
サトコは、ますますEGOISTが好きになる。
勤務先に行けば、上司のヒステリックな声にも
静かに神妙な顔をして頷いて見せた。
理不尽な要求も、そつなくこなしていく。
同僚と出かけるランチも、きちんと喉を通る。
いつも通り。なにも変わらない。
夜になると、酒を飲んだ。涙は出なかった。
胸にぽっかりと穴が開いた感じもなく、
これといって、たいした喪失感もなく、
辛くてやりきれないというわけでもない。
ただ、飲んだ。
お笑い番組を見て、わざと声を出して笑った。
「馬鹿野郎!てめえ、なんだ、この野郎!」
あのお笑い芸人は、そればかり繰り返している。
深い眠りが訪れるまで、飲み続けた。
朝になると、ひどい二日酔いで目が覚めて、
便器を抱えて吐いた。
吐いたあとで、シャワーを浴びる。
シャワーを浴びながら、そのまま口を開けて
噴き出す湯をごくごく飲み、また吐いた。
そうやって何度か繰り返しているうちに、
もうすっかりアルコールは抜けてしまう。
1週間も同じことを繰り返しているうちに
さすがに、馬鹿馬鹿しくなってしまった。
置いてあったヒロシの煙草も吸ってしまった。
全部吸ってしまってから、
別れた男の煙草を吸う自分に腹が立った。
酒を飲み続けても死なないと知った。
もちろん、死ぬつもりもなかった。
なんだ、どうってことない。
そうだ、どうということもないのだ。
いてもいなくても、一緒か。
ひとり笑いそうになって、ため息が漏れる。
それをきっかけに、後輩が言った。
「サトコさん、今日はもう
もうそろそろ引き上げませんか?」
机の上の時計を見ると、午後9時。
「ああ、そうだね。」
「サトコさん、この頃、ノってますよね?」
男と別れたばっかりだからね。
という代わりに、
「うふふ、そう?」と笑うと、
何だか急に空腹でいる自分に気がついた。
「軽く、いっちゃいますか?」と笑う後輩に、
「ううん。また今度ね。」と応えて別れた。
スーパーで、久しぶりに買い物をする。
最近、家ではろくな食事をしてなかった。
反動のせいか、少し買いすぎてしまった。
女の一人暮らしには見えないわね。
やや自嘲的な気分で苦笑しながら、
重い紙袋を片手に自転車の鍵を探していた。
サトコの自転車の近くに人影があった。
ヒロシだ。
ヒロシが立っていた。
暗がりで表情は見えないが、
わたしが今泣きそうな顔になっているのは、
たぶん、ヒロシには見えているはず。
嫌だな。こんな顔を見せたくは、ない。
「新しい仕事、決まったんだ。
サトコ、心配してるといけないと思って、
それだけ言おうと思って、来たんだ。」
サトコが口を挟まなくてもいいように、
彼はたて続けに、少し早口に、こう言った。
「ちょうど仕事でこっち来たし、
だから、ちょっと寄ってみたんだ。」
「それに、ほら、これ。」
ヒロシはポケットの中から手袋を取り出した。
あの日、深夜の喫茶店に忘れてきたのだった。
「ああ。」
本当は、何事もなかったように
「ありがとう。」
と、にっこり笑ってやりたかった。
ヒロシがいなくても笑えるのだというように。
とても、そんな真似はできそうになかった。
ぎこちない動きで手袋を受け取ろうとして、
持っていた自転車の鍵を落としてしまった。
鍵は、チリンと乾いた音をさせて闇に消えた。
ヒロシがすぐに腰をかがめた。
サトコの視力が
暗がりでは役に立たないと彼は知っている。
ヒロシは鍵を拾うとサトコの手を取った。
サトコの指を開いて
その手のひらに自転車の鍵を置くと
両手でサトコの手を包んだ。
もともと情熱的な男ではなかった。
ひどく怒ることもなければ
ひどく優しいということもない。
いつも、静かに、とうとうと
水が流れるようにサトコを抱いた。
「愛してる」という言葉さえ
一度だって聞いたことなどなかった。
でも、もう一度
もう一度だけ、この手を掴んでみようか。
この冷たい手を握り返してみよう。
ヒロシが離すまで、わたしは握っていよう。
サトコが握り返した手をヒロシは
そのまま自分の上着のポケットに入れた。
ヒロシの手が熱くなるのがわかった。
わたしたち、たぶん同じ眼をしているはずだ。
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14番目の月
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つぎの夜から欠ける満月より、14番目の月が、いちばん好き
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「14番目の月」
第2話
バスルームから愛をこめて
ひどい吐き気で目が覚めた。
便器を抱えて吐こうとして、
そういえば、何も食べていなかった事を思い出した。
出すべきものは何もない。
よろよろと台所に行き、
水道水を何度か飲んで、ようやく吐いた。
終いには、内臓を絞り出すようにして胃液を出した。
サトコは、涙と唾液まみれの顔をシャツの袖で拭うと
へたへたと座り込んだ。
昨日の服のまま眠ってしまったようだ。
どこかで鳥が鳴いている。
カーテンの向こうの空は
薄白く明け始めようとしていた。
憂鬱な気分とはお構いなしに、
朝は、いつも通りやって来る。
「はい、カット!」
誰かにそう言って欲しかった。
サトコは、這うようにして浴室に行き、
蛇口をひねった。
白い湯気とともに、熱い湯が飛び出す。
浴槽にたまっていく湯を見つめながら、
煙草を吸ってみた。
ヒロキの煙草。
人差し指と親指ではさむのは、彼のやり方。
会社で嫌なことがあると、必ず悪いお酒になった。
「ちくしょう!絶対やめてやる!」
膝を抱えたまま、寝転んでみる。
浴室のタイルが、頬に冷たい。
このまま胎児のように眠っていたい。
「好きなようにすれば良いよ。」
わたしはいつもそう言った。
もちろん本心なんかじゃない。
嫌われたくなかったから、
物分りのいい女の振りがしたかっただけだ。
今まで付き合った何人かの男が教えてくれたのは、
たった、それくらいの事だった。
しかしそれさえも、何の役にも立っていなかった。
現にサトコは、今こうして独りなのだから。
思い出してみると、みんな似たようなものだった。
優しいのは、はじめだけ。
サトコは髪を洗った。
長い間、ずっと洗っていた。
バスタブにすわったまま天井を見上げて。
熱かった湯は、サトコの体温と同じになり、
こわばったココロをほどいていく。
泣きたい気持ちになると、いつもそうした。
いつのまにか覚えた、やり方だった。
今日もまた、1日が始まる。
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「ばかやろーっ!てめぇ!
なめてんじゃねえぞ!この野郎!」
気がついた時には
立ち上がって肩で息をしていた。
客が少ないとはいえ
ここは深夜の喫茶店で
サトコの声に驚いた客たちは
ふたりに好奇の目を向けている。
しかし、次にいうべき台詞が見つからない。
サトコが言葉を探しているうちに
客たちの好奇心は消えてしまったようだった。
くたびれた艶のない顔をしたサラリーマンは
同じようにくたびれた夕刊に視線を落とし
赤いショートヘアのウイッグをつけた女は
再び隣の男にもたれかかって指を絡ませた。
雇われマスターらしい髭の中年男は
はじめから何事もなかったように
白い煙をぷうと天井に向かって、吐いた。
目の前のヒロキだけが動かないでいた。
珈琲に入れかけていた砂糖が
途切れ途切れに細い線を描き続けている。
ばかやろう、砂糖入れ過ぎなんだよ・・・
普段、こんな言葉を使った事はなかった。
たとえ、冗談にせよ、だ。
「ヒロキが好きなようにすれば良いよ。」
サトコは、いつもそう言って静かに微笑んだ。
「そんなに入れたら飲めないよ。」
どこかで、いつも通りの私が頼りなげに囁く。
「おまえ、笑うと泣きそうな顔なのな?」
そう言って眼鏡を外した、あの時のあなたも、
同じように泣きそうな顔だったのよ。
これ以上ここにいたら泣いてしまいそうだった。 サトコが、水の入ったグラスを掴むと、
砂糖を持ったままのヒロキが、
一瞬緊張するのがわかった。
水をぶっかけられるとでも思ったらしい。
(馬鹿ね。そこまで陳腐な真似はしないわ。)
口には出さず、サトコは立ったまま水を飲んだ。
ごくごくと喉を鳴らして、飲み干そうとして、
あともう少しというところで、ひどくむせた。
むせながら、泣きたくなって、それなのに、
自分がいま、泣きたいのか、笑いたいのか、
よくわからなくなってしまっていた。
そうして、ヒロキにだけ聞こえるように、
「サヨナラ」と笑顔でつぶやくと、
上着をひったくるようにして店を出た。
店の外にあった自転車にまたがると、
勢いをつけてペダルをこぎ出した。
2月の真夜中の真っ黒な空。
夜の空気はことのほか冷たく、しかし、
暗闇は、サトコを優しく包んでくれる。
手を伸ばせば届きそうなところに、
折れそうに白く細い三日月。
手袋を店に忘れてきてしまった。
耳もちぎれそうに冷たい。
「うおーっっっ!!!」
三日月に向かって吠えてやる!
どこかのアパートの窓から
「うるせー!」と怒鳴られた。
その瞬間に、さっきの自分の台詞が
いつかヒロキと一緒に見た、お笑い芸人の
コントで使われていたのだと思い出して、
ひとりで笑った。
ヒロキ、気づいていないだろうな。
だってあんなに砂糖入れてたもの。
もう一度笑おうとしたら、
なんの前触れもなく、涙があふれ出してきた。
この時、サトコは初めて、涙が熱いと知った。
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