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最も強く人間であることを希求するものこそ、最も人間と呼ぶのに相応しい、ということを、手塚治虫は、鉄腕アトムやこの百鬼丸を通して語っていると私は思う。ヒトの身体の特徴をそろえているかどうか、それは人間性を測る尺度にならない。ヒトの形をした魔物が、あちこちで悪事を働いていることを私たちは知っている。
この作品の何が素晴らしいか。手塚治虫の原作が素晴らしい。脚本も良かったと思う。語り部の使い方も適量であったと思う。原作を知っているかどうか、原作を何歳頃読んだかによって、評価に幅が出るかもしれない。しかし、原作を知らないから映画を楽しめないとか、原作を読んだ人間には不満が残るとか、そんな映画ではないと私は思う。
人は誰も求めるものを持って生まれてくると思う。求めることを使命感として自覚している人もいれば、求めるものに気づかない人もいる。手塚治虫は、私たちもアトムや百鬼丸と変わるところはない、最初から完成された人間はおらず、求めて努力することで、人間性を高めることができる、またそう生きることが、生を受けた理由であると言っているように思う。
百鬼丸は「完全な人間の身体」を取り戻すために魔物と闘う宿命を負う。彼は父親の大義の前に身体の48箇所を魔物に奪われて生を受けた設定である。魔物というのは、悪しきこと良からぬことの象徴である。魔物を退治する毎に、悪しきことを排除する毎に、百鬼丸の体は完全な人間の身体に近付くのであるが、一方で次第に人間としての弱さや痛みも増して行く。
葛藤が増すだけが彼の成長ではない。表裏一体となった愛憎は、成長に伴い整理されて行く。こんな体に産んだ親への憎しみと、そうであっても、完全な人間の身体を自分の力で取り戻して親の愛情を得たいとする切ない願望とが、どろろ(柴咲コウ)の存在もあって、次第に行動エネルギーの元となっていた落差を失って行く。
役者では柴咲コウがいい。どれが代表作か判らないほど、いずれの出演作も印象に残っているが、この作品の彼女も素晴らしい。好きにならずにいられない。役柄の理解度が高いとかそんな低レベルの話でなく、演技を超え、さらに実在云々さえ超えて役柄の人物本人になり切っている。女を捨てた役柄でありながら、これほど(エロティックな意味でない)女を感じさせてくれる女優を、私はそうは数多く知らない。
終盤、百鬼丸との戦いの中で時間と共に刻々と変わる、真の父親である、醍醐景光(中井貴一)の心がもう少し精細に描けていたら、と思ったが、好意的に観ていれば想像で補えなくもない。天下統一と家族の安泰や個人の幸せとの衝突、全体最適化と自己実現との対立、彼ならずとも天下人(為政者)たらん人物ならば、常にこの相克に苛まれながら正解を出し続けなければならない。それに能わない器量の人物に魔物が取り憑くのは、今も昔も変わりのないことのようだ。
寓話的要素の強い話。憎しみを晴らすことを象徴する敵討ちという手段を用いるために選んだ時代設定、まさかこれに時代考証をどうこう言う人はいないだろう。
市井の様子や城のデザインには好感をもった。世界のマーケットを意識している。
順序で言うなら、魔物の映画だけに、クリーチャーの出来などを褒めるべきかもしれないが、ニュージーランドの自然の美しさを先に挙げたい。空気が澄んでいて、差し込む光が映像を殊更美しくしている。戦国の世の日本もきっとそうだったろう。地獄絵図を美術として見せるために、この美しさが必要だったろう。またヘンな感想だが、焼け跡に手抜きなし。これらの結論は、制作費20億円が活きているということだ。
頭書の主題をこなしながら、目標の半分、24の魔物を倒して前編終了という形を採っている。続編が楽しみになった。プロモーション次第で、年配にも訴求できるし、またそうして欲しい映画である。すくなくとも本作は、それに耐えうる映画であったと思う。主題に影響を与えない残虐シーンを何とかすれば、子ども達も連れて行き易い。
TVで観る映画も捨てたものではない。ところで、この作品の前の時間帯にやっていた映画も観ていたが、野村萬斎の笑い声の他には何も思い出せない。
(2007/12/09 WOWOWで観賞)
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こんにちは。
私は、そんなに深く鑑賞することはできませんでしたが、前半部分の映像は良かったと思います。
でも、どうしても、粗探しばっかりしてしまうんですよね。アクションがカンフーに見えたり^^;
2008/8/5(火) 午後 5:55 [ sei*hun**55 ]
Seishunka55 さん、意外な?ところにコメントありがとうございます。
オーディオ、趣味ですか? 私もヴィンテージものをいじっています。家族には今年、DENONのSA11を選びました。
いま帰宅途中なので、改めてPCからお邪魔します。
2008/8/5(火) 午後 11:18 [ δΦσ ]