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なにを選んでも道は拓ける
―生きて生きて生き抜いた恭嗣を想う(その1)――
                    *岡部健氏(医療法人社団爽秋会理事長)が本の帯に書いた表現

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「七転び八起き寝たきり いのちの証し」の出版

仙台の大学生時代の友人の阿部恭嗣(やすつぐ)さんが天国に旅立って
から、今日でちょうど10年になります。
彼は、私にとって大切な一人の友人でしたが、進行性筋ジストロフィー症と
いう難病患者でもありました。恭嗣が亡くなって2年後の2010年に、彼の
伴侶の阿部晃子さんやボランティアとしてかかわり続けていた竹之内裕文
さん(静岡大学)を中心として、彼の遺稿集になる「七転び八起き寝たきり
いのちの証し」を出版することができました。この本は、まだ、購入すること
ができますし、元になったブログ記事は、今も読むことができます。
(「やすぐす君の心象風景アラカルト」)
https://blogs.yahoo.co.jp/yasutugu55

なにを選んでも道は拓ける

恭嗣の本は、常に私の座右にあり、私が進む道に迷った時の羅針盤にも
なっています。この本を多くの方に読んでもらったり恭嗣のことを折に触れ
て話したりすることで、今も心の中で恭嗣と対話し続けることができています。
迷いがでたときには、「恭嗣なら何て言うかな?」と想像したり、何かいい
ことがあると「天国の恭嗣さんの計らいにちがいない」とおおきなきのメンバー
がつぶやくのです。

恭嗣の言葉で、一番の支えは、
「なにを選んでも道は拓ける。これは私の生きてきた中で感じたこと。神は
けっして見捨てしない。あなたに生命を与えたのだから。神は待っているの
だ。真剣に生きることを。しかも共に喜んで生きることを。」
(2007年2月7日のブログ記事より)です。
編者の竹之内さんも序の冒頭で取り上げています。

恭嗣はクリスチャンで私は違うので、いいとこどりになってしまうのですが、
恭嗣は許してくれると思っています。自分が真剣に迷いながら選んだこと、
おおきなきが選んだ道を恭嗣が見守ってくれていると、私は思い込んでい
ます。

写真展に足を踏み入れたことが、その後の自分の人生を変えた

1977年6月頃、仙台の街を何となく歩いていて、デパートでたまたまやって
いた催しの「車いすの青春展」という看板が私の目に飛び込んできたの
です。親元の東京を離れ仙台で生活を始めていた私には、「今が青春
時代!やっと自由を手にしている」という思いがあったので、それまでの
生活にかかわりのなかった「車いすの」という修飾語がとても気になりまし
た。

それまであまり見ようとしてこなかった世界に足を踏み入れるのには
少々勇気がいりましたが、私は目を凝らして、写真を見つめました。
閉ざされた病棟の中で小さい頃から生活している患者さんの姿、
やせ細っていき、ほとんど骨と皮になっていた腕や脚を写した写真は
強烈なインパクトがあり、私に迫ってきました。さらに、患者さんの鋭い
眼光は何を見て何を求めているのだろうという疑問がわき、その
まなざしは、今でも脳裏に焼き付いていきます。

恭嗣との出会いは、そんな強烈な印象を受けた後だったので、構えも
あったのですが、筋ジスの患者さんに会うという緊張感はすぐなくなり
ました。
迎えてくれるのが恭嗣で彼の明るく前向きな人柄が大きかったからだ
と思いますが、恭嗣が暮らす仙台市の西多賀病院の筋ジス病棟は、
写真展で受けた印象とは違う面もありました。

恭嗣は、小学校6年生の時に新潟から一人親元を遠く離れ、仙台での
入院生活を余儀なくされていました。原因も治療法も分からないので、
病院は治療のためでなく生活の場になります。

筋ジス病棟に私の落ち着く席ができる 

「あいざわくん」と恭嗣は呼んでくれましたが、私は呼び捨てで「やすつぐ」
と呼ばせてもらいました。私の生い立ちや悩みを恭嗣は丁寧に聞いてくれ
て、今思うとカウンセラーのようでした。

大学の仲間と話しているときの時間の流れより、彼らと話す時間の方が
やや重たい感じもしました。その重たさの原因を考えると、私が得た自由
は何かが常に欠けている気がしたのですが、病室で一緒に話していると、
その欠けた部分が補われる安心感があったからだと思います。大学は、
彼らのような障がいのある人を除外することで成り立っている世界に感じて
いたからです。

今の病院ではできないと思いますが、病室に午前中からいるときには、
私も部屋の真ん中でカップラーメンにお湯を注ぎ昼食を一緒に食べる
こともできました。当時は、患者さんたちが自治会を作り、外の風が
病棟に入り始めた時期と重なっています。

私が専攻していた「障害児」教育は、どうしても机上で語られるもので
あり、障がいのある人一人ひとりについて語るものではなく、ある場面
を切り取って対象化したり数値化したりしてしまうものでした。施設見学
の授業もあったのですが、それはあくまでも「見学」で距離がありました。

それで、私は患者さんと直に対等な関係で話ができる病室が気に入り、
恭嗣を始めとして何人かの患者さんに会いに、時々、病棟を訪ねるよう
になっていきました。

イメージ 1
<仙台から東京で行われた車いす市民交流集会に参加した時・1978年頃>
進行性筋萎縮症連絡会のメンバー 左から清野光彦(北海道新得市)、相澤、阿部恭嗣、
吉田春彦(盛岡市)<撮影>

外の世界に出ていきたい

やがて、自由に買い物ができない患者さんは、私に買い物を頼んで
くれるようになったので、頼まれたものを届けるという目的ができ、
病棟に行きやすくなりました。
私は、進行性筋萎縮症連絡会というやや堅苦しい名前の団体の
役員になりましたが、リスクが多少あっても制約のある病棟の生活
を抜け出し外に出ていこうとする彼らとともに行動し、写真のような
笑顔を見せていたようです。でも、正直なところ、若気の至りでこう
やって他の大学生と自分は違うとかっこをつけていたような気がし
ないでもないのですが…
         *月命日の1日を目安に書いていきます。



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