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ひとときの「ふれあい」に終わらせたくない
               ―生きて生きて生き抜いた*恭嗣を想う(その2)――

                                  *岡部健氏(医療法人社団爽秋会理事長が本の帯に書いた表現



生きている証しを見つけたい

イメージ 1

<私の生き方を変えた写真展のパンフレット>1977.6月
―「車椅子の青春展」生きている証しを何かに刻みつけるために…。―

進行性筋ジストロフィー症の患者さんとともに活動していくときに、
私に何ができるのか真剣に考えていました。
筋ジス病棟に通うようになってから、筋ジスは治すことができなく
て、患者さんにとっての退院は「死」を意味することは、すぐに分
かってしまいました。

詩集を販売したり、映画会やコンサートを企画したりする活動は、
筋ジスの患者さんの思いや実態を知ってもらう活動であるととも
に運動資金をねん出し、さらに活動を広げていくためのものにも
なっていました。土日には街頭に立ち、チラシを配ったり、宣伝
カーに一人で乗ったりしていました。
宣伝カーでは、マイクをフォークシンガーが使うハーモニカホル
ダーに挟み首からぶら下げ、

「原因も治療法もわかっていない進行性筋ジストロイフィー症の
患者さんが自分の生きる証しを見つけるために、自ら行動に移す
映画を見に来てください!」

と、自分に多少酔いしれながら声を出し、仙台市近辺を走らせ
いました。

病院を出た筋ジス患者である山田寛之さんや山田富也さんを
中心にして立ち上げられた障害者企画団体のありのまま舎
http://www.arinomama.or.jp/)は、ドキュメンタリー映画
「車椅子の青春」を完成させ、全国で上映会を開催していま
した。そして、1年もたたないうちに、劇映画「さよならの日々」
の製作を企画し、仙台を中心にロケを行い、完成させます。
私が入会した進行性筋萎縮症連絡会は、ありのまま舎の母体
になった団体ですから、当時、委員長だった恭嗣と事務局長の
私は、深く考える間もなく、その渦中にいました。
恭嗣も、時には街頭に立ち、平日は病棟の公衆電話をずっと
確保して、映画や催しの配券活動をしていました。会合では、
配券枚数を発表する機会がありましたが、恭嗣はたいてい
一番だった記憶があります。

恭嗣が求めていたのは単なる「ふれあい」ではありません
でした。チャリティコンサートでは、「ひとときからふれあいを
求めて」というタイトルをよく使いました。
まずお客さんに来てもらわないと何も始まらないからやさしい
言葉にしていましたが、恭嗣が求めていたのは、ふれあい
から始まるその後でした。
 「ボランティアに終わっていたらだめなんだ。一過性のボラン
ティアでは、その場限りの自己満足に終わってしまうのでは
ないか。そうではなくて、障がいのある者と障がいのない者が
共に生きていかなければだめなんだ」
と、私も恭嗣の話を聞きながら頭だけでは考え始めていました。
頭の中では、現実よりも理想がどんどん先行して膨らんでいっ
いました。

活躍した8万円のおんぼろ車 

自分は単なるボランティアではない、本気で共に生きることを
考えているんだ―それを証明しようとして、私は、まず車が
ほしいと思いつきました。周りを見ても、学生の分際で自分の
車を乗り回している者は、ほとんどいませんでした。また、
自分のお金だけで買えるわけでもなく、運よく私の父親が
自動車会社(いすゞ)に勤めていたことから、それに甘えよう
としたのです。
中学生位から反抗し始め、ほとんど口を聞いていなかった
のに、東京と仙台で距離ができると、父親と話がしやすくなり、
「一番安い車でいいから買ってほしい。車いすを載せるから
バンにしてほしい」
と頼むと、その言葉の通り、父は、中古店で一番安い8万円
のフローリアンバンを入手してくれたのでした。しかも、ベンチ
シートで6人も乗れる車でした。
自動車教習場では触れることのなかったハンドルの横にギア
チェンジのレバーがついていて3段変速のマニュアル車。とても
古かったし、すぐオーバーヒートして止まってしまいます。その
たびにラジエーターに水を入れて、また走らせていたのです。
でも、恭嗣の行きたいところに連れて行ってあげることができる
と思いました。また、一緒に活動をしていたKは、里帰りの支援
私に頼み、この車に乗ってくれました。
恭嗣は、ブログで
「殆どスクラップにしてもいいような中古車での外出は、私達に
とって、子供の秘密基地で遊ぶような感覚になっていた・・・」
 と回想しています。

<いすゞ自動車 フローリアンバン>

この車に恭嗣を乗せ、大学のホームルームにも来てもらいました。
自分の友達は、大学に入ったことをいいことに、授業をさぼって
麻雀をしたり喫茶店で話したりしている友達だけではないんだ
ということも見てほしかったのかもしれません。恭嗣は、ここでも
単に何かをしてもらう関係ではなく、かかわりを継続してほしい
ことを伝えようとしていました。私は、大学の教室で、隣に恭嗣が
いることが妙にうれしかったのを覚えています。

地に足がついていなかった

2人で、「ボランティアからの脱出」という講演会もやりました。
でも、私は、自分がそれまで、筋ジス病棟に通い出して感じて
いたことを言えても、全然地に足がついていないことを話しな
がら感じてしまっていたのです。
「大学卒業後、あなたは何をどこでしているんですか?」と、
聞かれたらきっと答えに窮したと思います。実際は、そんな
質問も出ないくらい、話は堂々巡りをし、参加者の方は
渋い顔をして帰っていかれました。
私も恭嗣もまだ深いところでつながっていなかったし、本当の
関係にはなっていなかったのだと思います。(続く)

                                   相澤純一

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