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大牟田空襲の概要

 
大牟田の空襲
                                                                                                          (2014.7.22)
 
アジア太平洋戦争の末期、大牟田はアメリカ軍による空襲を何度も受けました。
 被害の規模が大きく、数十人から数百人もの死者が出た空襲は、1944-45(昭和19-20)年に5回を数えました。その他に機銃掃射による攻撃や偵察写真の撮影などもくり返されました。その結果、街の中心部や住宅地の広い範囲が焼け野原となり、空襲による死者数の合計は1,300人以上になると考えられます。
 大牟田の空襲を記録する会は、空襲体験者の証言や米軍側の資料などをもとにして大牟田空襲の実相を明らかにする取り組みをしてきました。その成果にもとづいて、大牟田空襲の概要をまとめます。(『大牟田の空襲』第26集・第27集の特集「大牟田空襲の全体像」をもとにしています)
 
 これまでに攻撃の内容や被害の状況が明らかになっているのは次の①〜⑦です。
1944(昭和19)年》
①「7.8写真偵察」 78日未明のB29による偵察写真の撮影
②「11.21三池・通町空襲」 1121日昼間のB29による爆弾・焼夷弾攻撃
1945(昭和20)年》
③「6.18大空襲」 618日未明のB29による焼夷弾攻撃
④「7.27大空襲」 727日未明のB29による焼夷弾攻撃
⑤「7.30機銃掃射」 730日の下白川町での機銃掃射
⑥「8.7工場・藤田町空襲」 87日昼間のB24P47による爆弾攻撃
⑦「8.8八本町・亀甲町・平原町空襲」 88日夕刻の爆弾投下
 *写真偵察作戦は、①の78日以降も、
1944年――106日、1026日、116
1945年――16日、331日、48日、411日、413日、421日、516日、621日、87
  と、継続して実行されました。
*このほかに機銃掃射を受けた証言が多数ありますが、日時・場所・被害状況は確認できていません。
 
①「7.8写真偵察」
 194478日午前24分、中国の成都(せいと)基地から飛来したB29によって実施された写真偵察作戦です。三井染料工業所の工場を撮影して情報を入手する目的でした。
 写真照明弾を3発投下して、高度約4,300mから夜間用カメラで撮影しました。
 この時爆弾などは投下されなかったので実害はなかったようですが、人々は空襲警報に従って防空壕に避難し、照明弾に照らされたり爆音におびえて過ごしました。
 
②「11.21三池・通町空襲」
 19441121日午前10時半頃、中国の成都基地から飛来した7機のB29が、高度約6,100mから通町・鳥塚町・三池・大間・久福木などに爆弾・焼夷弾を投下しました。
 死者31人・負傷者7人などの大きな被害を受けました。大牟田では空襲による初めての犠牲者でした。
 
③「6.18大空襲」
 マリアナ諸島を手に入れた米軍はサイパン・ティニアン・グアムの各島にB29部隊の基地を建設し日本本土空襲を本格化しました。東京・名古屋・大阪などの大都市を焼き払った後、6月中旬からは中小都市を目標とする空襲を全国にひろげました。
その第1回。1945618日午前1時に大牟田上空に到達した116機のB29は、2時間あまりの間に焼夷弾を約700トン投下しました。
投下目標の爆撃中心点は現在の有明町1丁目あたりに設定されました。
米軍側は、この空襲で損害を与えた面積は破壊計画の4.1%しかないことから、失敗であると評価して再度“やり直し”の空襲を実施することになります。
 しかし大牟田市民の受けた被害は甚大で、多数の死者と家屋の焼失をもたらすものでした。
 日本側の記録では、死者260人・負傷者362人という数字が残されています。
 
④「7.27大空襲」
 1945727日未明に“やり直し”の空襲が実行されました。013分から131分までの78分間に、124機のB29が高度約4,000-5,000mから焼夷弾を投下しました。約875トンという焼夷弾の量は、重量比で6.18大空襲の1.25倍です。投下密度は、市民全員に2発ずつの割合。別の計算では爆撃区域全体に3m間隔で投下したことになります。
 この空襲によって大牟田の中心市街地はほとんど焼け野原になってしまいました。中心部には市役所と松屋デパート(内部は焼失)がポツンと立っているだけという状態でした。
 日本側の記録では、死者602人・負傷者1,038人など最大規模の被害内容になっています。
 米軍の資料では、破壊した面積は5.31㎢で計画の136%にあたるとしています。この面積は記念グラウンド205個分に相当します。そのほとんどが住民の居住地域でした。米軍の攻撃目標が工場ではなく女性や子ども・高齢者を含む一般住民であったことが明白です。
 618日と727日の大空襲によって、大牟田市(隣接する荒尾市北部も含む)は壊滅的な打撃を受けました。
 
⑤「7.30機銃掃射」
 1945730日、機銃掃射によって下白川町に駐屯していた高射砲部隊の日本兵が犠牲になりました。機銃掃射による死者が確認された初めての事例です。亡くなったのは分隊を指揮していた曹長の今中健治さん。下白川町の高射砲陣地があった場所の近くに今中さんの墓があります。
 
⑥「8.7工場・藤田町空襲」
 194587日の空襲は、7月に沖縄に移駐してきた第7航空軍によるものでした。工場地域を目標に、爆撃機(コンソリデーテッドB24)と戦闘機(P47サンダーボルト)が爆弾を投下しました。
 当時多くの工場では、会社の社員・工員・事務員の他に勤労動員中の生徒や挺身隊・徴用工・朝鮮人労働者などが働いていました。彼らが昼休みの弁当を開きかけた時、23機のB2418機のP47、合計41機が襲いかかったのです。米軍の資料によるとB24は高度約3,000mから石油合成工場をねらって爆撃。P47は横須(大牟田川河口)の工場群にも攻撃を加えました。投下したのは1,000ポンド爆弾(約454kg)で合計98トンでした。爆弾の威力はすさまじいもので、直径約10m・深さ約7-8mの穴がいくつもできたそうです。
 米軍機が爆弾を投下する直前に一機のB24が日本軍の対空砲火によって墜落しました。搭載していた爆弾とバラバラになった機体は大牟田市南部の藤田町周辺に落下して、住民や通行人などに大きな被害をもたらしました。
 爆弾の投下に加えて機銃掃射を受けたという証言もたくさんあります。
 この日の被害は死者348人・負傷者300人など。犠牲者が出た工場・学校や藤田町には慰霊の碑が建てられています。
 
⑦「8.8八本町・亀甲町・平原町空襲」
 194588日夕刻(薄暗くなった午後8時頃)の爆弾投下によるものです。
 体験者の証言によると、飛来した飛行機は一機だけで投下された爆弾も一発だけだったようです。八本町の共同防空壕周辺の被害が大きいので、投下地点は八本町・亀甲町・平原町の境界付近かと思われます。個人を特定できる死者は27人が判明しています。さらに遺体が運び込まれた高等小学校(現・平原小学校)の校庭には4050人くらいが並べられたという証言があります。死者の合計は50人以上にのぼると思われます。
 米軍側の資料の入手によって、さらにこの空襲の解明が進むことが期待されます。
 
 
※ 以上、大牟田の空襲の概略をまとめました。『大牟田の空襲』第26集・第27集も是非参照してください。 
※ 以下に、『大牟田の空襲』第26集より、関連する表や写真などを転載します。
(各画面ページの右下にマウスポインタを移動させ、現れた「+」をクリックすると拡大表示されます)
 
 ※ 下の内容一覧は第26集所収の表を 2014.7.23 に改訂したものです。「被災地域」について、この表に記載されている地域以外の場所で空襲や機銃掃射に遭われたという体験や情報をお持ちの方は、空襲を記録する会にご連絡下さい。日付・時間・場所・空襲被災体験などを詳しく教えてください。
 連絡先:中嶋 電話・Fax 0944-58-3018   メール omutakushu@yahoo.co.jp
 
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