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あ安里屋クヤマけさ先島諸島火番盛先島諸島火番盛(さきしましょとうひばんむい)は、沖縄県先島諸島(宮古諸島及び八重山諸島)の島々に点在する遠見番所群である。2007年(平成19年)3月23日に13の島(2市2町1村)の18箇所が国の史跡に指定された[1][2]。2014年3月18日には大神島(宮古島市)の大神島遠見台が追加指定され、対象は14の島(2市2町1村)の19箇所となっている[3][4]。
概要地理的に中国に最も近い位置にある先島諸島では、1644年頃に、琉球王国を付庸国としていた薩摩藩の要請によって遠見番所が設置された。のろしのための火を燃やして監視にあたったことから、先島諸島では火番盛と呼ばれる。火番盛では、中国への進貢船の航海状況や異国船の到来を監視し、のろしを上げて各地の火番盛伝いに番所や蔵元に通報し、琉球王府へ知らせた[5][4]。
日本の南西端に位置する先島諸島の歴史的な位置づけを今日に伝える史跡である。
火番盛の一覧
のろしの再現この火番盛が国の史跡に指定されたことを記念して、2007年11月8日に竹富町教育委員会の主催により、「のろしリレー」と称して、竹富町内の7つの火番盛でのろしを再現・検証する試みが行われた[8][9][10]。リレーのコース(伝達順序)は以下の二つ。
雨天のため、波照間島(コート盛)及び鳩間島(鳩間島)の狼煙は確認できなかったが、多くの場所で肉眼で狼煙が確認できた。
しせはひ久松五勇士
概要 バルチック艦隊も彼を視認していたが、龍の大漁旗と、独特の長髪のために中国人と判断して捕えなかった。奥浜は宮古島の漲水港(現・平良港)に26日午前10時頃に着き、駐在所の警察官とともに役場に駆け込んだ。
宮古島は大騒ぎとなった。当時の宮古島には通信施設がなかったため、島の重役・長老達の会議の結果、石垣島にこの情報を知らせる使いを出す事となり、松原村の垣花善・垣花清・与那覇松・与那覇蒲と、久貝原の与那覇蒲(松原村の与那覇蒲とは同姓同名の別人)の漁師5人を選抜した。
5人は15時間、170キロの距離をサバニを必死に漕ぎ、石垣島の東海岸に着いて、さらに30キロの山道を歩き、27日午前4時頃、八重山郵便局に飛び込んだ。局員は宮古島島司(島長)からの文書を垣花善から受け取って電信を那覇の郵便局本局へ打ち、電信はそこから沖縄県庁を経由して東京の大本営へ伝えられた。
日本本土への連絡は信濃丸によるものが数時間早かったため、この情報が直接役に立つことはなかった。その後5人の行為は忘れられていたが、昭和時代に入り、この事実が発掘され教科書に掲載されると一躍評価が高まり、5人は沖縄県知事から顕彰され郷土の英雄となった。
影響 たとえ本土から遠く離れた島の漁師でも、国家への忠誠心は本土の国民に負けず劣らないという話は、軍事色が強まる傾向にあった日本国内や拡大を続ける外地などで格好の話題となった。
軍事色の強い話題だけに、戦後、教科書から姿を消すと本土では瞬く間に忘れ去られていったが、宮古島や石垣島では依然として郷土の英雄という評価は揺るがず、石垣島の上陸地点には「久松五勇士上陸之地」の石碑が、宮古島にはサバニを5本の柱で支えるコンクリート製のモニュメントが建てられた。
昭和30年代に、沖縄県出身の音楽家である奥平潤により『黒潮の闘魂』という久松五勇士を称える歌が作られている。この歌は、近年にも宮古島市久松出身の The Beatle Crusher(ザ・ビートルクラッシャー)というバンドにより『Go-You-Sea』というタイトルでカバーされた。
ふほや |
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1996年(平成8年)、与那国島から約60キロメートルの海上に中国から発射された弾道ミサイル1基が着弾した。
台湾も、中国に対抗した軍事演習として、与那国島の沖合で軍事演習を計画するなど、緊張が走った。当時は自衛隊や海上保安庁によるパトロールが行われた。
2016/7/17(日) 午後 0:02 [ 屁糞葛やムクゲは防除すべき ]