中国・明時代の支配域は? 古文献に見る尖閣諸島の歴史的経緯THE PAGE 2015年3月28日(土)8時0分配信
尖閣諸島に関して、最近2つの出来事がありました。1つは、中国の国家測絵総局が1969年に「尖閣群島」と日本名で表記した地図を日本外務省が公開したことです。本年3月付の「尖閣諸島について」と題する同省の資料に掲載されています。
【写真】「台湾の一部」か「沖縄の一部」か 尖閣諸島の法的地位は 2つ目は、昨年、北京でのAPEC首脳会議に先立って日中両国の事務方が、関係改善のために合意したことについて、中国の在米大使館員が米国の研究者に対し、「日本側が従来の態度を変更し、尖閣諸島は両国間の問題であることを認めた」と説明して回ったことです。 ■6つの重要な論点
日本外務省が昨年11月7日に公表した合意では「双方は、尖閣諸島等東シナ海の海域において近年緊張状態が生じていることについて異なる見解を有していると認識し、対話と協議を通じて、情勢の悪化を防ぐとともに、危機管理メカニズムを構築し、不測の事態の発生を回避することで意見の一致をみた」と記載されているだけであり、尖閣諸島は両国間の問題であるということは一言も書いてありません。日本政府の「尖閣諸島をめぐり、解決すべき領有権の問題は存在していない」という立場はまったく変化していません。中国が一方的に要求しているだけです。
この機会に尖閣諸島についての考え方をあらためて整理しておきましょう。重要な論点は6つあります。 (1)古い文献にどのように記載されているか (2)日本政府が1895年に尖閣諸島を日本の領土に編入したことをどのように見るか。この行為を批判する見解もあります (3)戦後の日本の領土再画定において尖閣諸島はどのように扱われたか。とくにサンフランシスコ平和条約でどのように扱われたか。簡単に言えば、尖閣諸島の法的地位いかんです
(4)その後日中両政府は尖閣諸島をどのように扱ってきたか。「棚上げしたか否か」という議論、1969年の中国国家測絵総局の地図、さらには昨年の日中合意などもこのグループに含まれます
(5)1968年の石油埋蔵に関する国連調査との関連
(6)沖縄返還との関連 (1)から(6)までの論点のうち、もっとも基本的なものは、(1)の、古文献にどのように記載されているかと、(3)の、国際法的に尖閣諸島はどのような地位にあるかです。まず、本稿では古文献の記載を説明します。 ■明の海防範囲の「外」
中国は1971年から従来の態度を変更して尖閣諸島に対する領有権を主張するようになりました。その根拠として、明国の海防を説明した書物『籌海圖編(ちゅうかいずへん)』(胡宗憲著)、清国の使節(冊封使)であった汪楫(おうしゅう)の『使琉球雑録(しりゅうきゅうぞうろく)』 、それに西太后の詔書の3文献を引用していましたが、最後の文献は偽造であることが判明しており、現在は使わなくなっています。琉球は古くは日本と清の双方に朝貢しており、その関係で数年に1回清朝から琉球に使節(冊封使)が派遣されており、その旅行記がかなりの数残っています。
汪楫の『使琉球雑録』は、福建から東に向かって航行すると尖閣諸島の最東端の赤嶼で「郊」を過ぎる、そこが「中外の界」だと記載しています。これについて、中国政府は「中外の界」は中国と外国との境だと主張していますが、この「中外の界」と言ったのは案内していた琉球人船員であり、それは「琉球の中と外の境界」という意味でした。つまり尖閣諸島は琉球の外であると記載されていただけです。琉球の外であれば明国の領域になるわけではありません。そのことは後で説明します。 『籌海圖編』については、その中の図が尖閣諸島(の一部の島)を中国名で示しているのは事実ですが、この文献には明軍の駐屯地と巡邏地(じゅんらち=警備する地域)がどこまでかということも示しており、尖閣諸島はいずれについても外側にあると図示されています。つまり明国の海防範囲の外にあることが記載されていたのです。 一方、明や清の領土は中国大陸の海岸までが原則で、それに近傍の島嶼が領域に含まれていることを示す文献が数多く存在しています(最近出版された長崎純心大学・石井望准教授の『尖閣反駁マニュアル百題』などを参考にしました)。 ■明や清の領域は海岸まで
○同じ汪楫が著した『観海集』には「過東沙山、是●(※1)山盡處」と記載されていました。「●(※1)山」とは福建の陸地のことであり、この意味は「東沙山を過ぎれば福建でなくなる(あるいは福建の領域が終わる)」です。東沙山は馬祖列島の一部であり、やはり大陸にへばりついているような位置にある島です。 ○明朝の歴史書である『皇明実録(こうみんじつろく)』 は、臺山、●(※2)山、東湧 、烏●(※3)、彭湖、彭山(いずれも大陸に近接している島嶼)は明の庭の中としつつ、「この他の溟渤(大洋)は、華夷(明と諸外国)の共にする所なり」と記載しています。つまり、これらの島より東は公海だと言っているのです。 (※1)=もんがまえに虫、(※2)=いしへんに霜、(※3)=つちへんに丘 ○明代の勅撰書『大明一統志』も同様に明の領域は海岸までであると記載しており、具体的には、「東至海岸一百九十里」と記載しています。これは福州府(現在の福州)の領域を説明した部分であり、「福州府から東へ一百九十里の海岸まで」という意味です。一百九十里は福州から海岸までの直線距離40数キロにほぼ合致します。同じ記載の文献は他にも多数あります。 以上、中国の古文献では、清や明の領域が海岸までであることが明記されています。中国大陸と琉球の間の海域は『皇明実録』が言うように「華夷(明と諸外国)の共にする所」だったのです。また、このことは、尖閣諸島を含めこの海域に存在する無人島は中国も琉球も支配していなかったことを示しています。 このような記述は歴史の常識にも合致します。中国の古文献は政治的な影響を受けることなく、実体をごく自然に記載していたと思われます。
なお、日本政府は1895年に、尖閣諸島が無人島であることを確認して日本領に編入しました。それ以来、一貫して日本の領土です。 (美根慶樹/平和外交研究所) 1/3ページ
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尖閣諸島の3島が国有化されたのは、ちょうど3年前の2012年9月11日です。国有化以降、尖閣諸島が耳目を集めることは比較的少なくなっています。その一方で、中国公船や漁船がたびたび現れて、領海侵犯を繰り返す事態は途絶えていません。さらに、最近は中国のみならず台湾も尖閣諸島の領有権を主張するようになりました。複雑化する尖閣諸島問題に、現在の政府はどんな対応をしているのでしょうか。
尖閣諸島は、2010年に中国漁船衝突事件が起きて大きな注目を集めました。
それまで個人の私有地だった3島は、総務省が借りているという扱いになっていました。それでは領土を守れないとして、石原慎太郎都知事(当時)は尖閣諸島の都有化を宣言。政府はそれに連動する形で尖閣諸島の3島を国有化しました。
尖閣諸島は沖縄県石垣島の北方約150キロメートルに点在する島の総称です。主に5つの島と3つの岩礁から成り立っていますが、そのうち魚釣島・北小島・南小島の3島が2012年9月11日に国有化されました。沖縄本島から遠く離れた尖閣諸島は、戦前期に人が住んでいたこともありますが、現在は無人島になっています。国有化によって、3島は海上保安庁が管理する国有財産になっています。
「2012年に国有化された3島が海上保安庁の管理下にある理由は、海上保安庁が領海の安全な航行を確保できることや他国から守る手段を持っていることが大きな理由です。しかし、それ以前の2005年から海上保安庁は魚釣島にあった灯台の管理を引き継ぎ、定期的に灯台のメンテナンスをおこなっています」(内閣官房副長官補室)
尖閣諸島には、2012年に国有化された3島以外にも島があります。大正島は2012年に国有化された島ではないため、財務省が所有しています。そうした島の領海警備も海上保安庁が担当しています。
海上保安庁は新型ジェット機や巡視船の整備費として、来年度予算に約509億円を概算要求しています。これらは、尖閣諸島沖をはじめとする領海警備を強化することが目的です。
政府による情報発信や外交アピール 他方で、中国は尖閣諸島が自国の領土であるとの主張を取り下げていません。最近は、自国の主張を7か国語に翻訳して国際社会に訴えかけています。中国のPR作戦が、どこまで効力を発揮しているのか現段階ではわかりませんが、日本政府も傍観しているわけではありません。
「政府はインターネットでの情報発信をはじめ、国際シンポジウムなどでも尖閣諸島が我が国の領土であることを主張しています。また、領土担当大臣が各国首脳を訪れて理解を求めるといった外交にも力を入れています。そのほか、歴史的立場から正当性を主張するために尖閣諸島に関する文献・新聞記事のデジタルアーカイブ化を進めているほか、領土・主権に関する論文を英訳して世界各国にも継続して訴えています」(内閣官房領土・主権対策企画調整室)
国有化から3年が経過しましたが、尖閣諸島問題で政治がやらなければならない課題は山積しています。国有化で解決したわけではないのです。
(小川裕夫=フリーランスライター)
灯台メンテナンスや領海警備強化最終更新:2月18日(木)3時13分 |
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