南京総攻撃
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虚偽告訴
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1937年12月10日
1937年12月12日
12時20分、第10軍の第6師団歩兵47聯隊は中華門西の一部を占領[82]。日本軍が西門近くの城壁を登り始めると、中国軍第88師団の新兵が逃亡を開始し、中国軍の瓦解が始まり、夕方までには大方の部隊が下関門に向かった[87]。中国兵は軍服を脱ぎ、平服に着替えた[87]。
それを目撃したダーディン記者は「それは滑稽ともいえる光景であった。隊形を整えて下関に向かい行進している最中、多くの兵隊が軍服を脱いでいた。あるものは露地に飛び込み、一般市民に変装した。なかには素っ裸の兵隊がいて、市民の衣服をはぎ取っていた。」と報じた[87]。
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南京事件論争とは、日中戦争(支那事変)中の1937年(昭和12年)12月に遂行された南京戦において発生したとされる南京事件における虐殺の存否や規模などを論点とした論争である。論争は日中関係を背景に政治
南京事件論争
南京事件論争(ナンキン[1]じけんろんそう)とは、日中戦争(支那事変)中の1937年(昭和12年)12月に遂行された南京戦において発生したとされる南京事件における虐殺の存否や規模などを論点とした論争である。論争は日中関係を背景に政治的な影響を受け続けた[2]。
論争史詳細は「南京事件論争史」を参照
南京戦後に日本の外務省に南京事件が深刻な事件として外務本省に伝えられ[3]、また陸軍の高級幹部である松井石根司令官の後任の中支那方面軍司令官の畑俊六や中国派遣軍である第十一軍司令官に就いた岡村寧次大将のように当時の南京派遣軍の行動に否定的な評価という形で事件の確認を示した人物もいた[4]。しかし、軍人以外の一般国民には厳しい報道管制と日本軍部の宣伝によって、国が流す報道内容からは事件の内容を知らされていなかった[5]。
そのため、戦後の東京裁判で南京事件は日本人に衝撃を与えた[6]が、以降は事件への関心は薄れた[7]。1971年朝日新聞で本多勝一が『中国の旅』を連載すると、「百人斬り競争」を虚構とする山本七平や鈴木明との間で論争となった[8]。1982年には文部省が「侵略」を「進出」に書き換えさせたという第一次教科書問題で、戦後は事件に触れることがほとんどなかった[9]中国から抗議を受け[10]、日本政府は検定教科書への近隣諸国条項で沈静化を図るなか、田中正明が虚構説を発表し、否定派を代表した[11]。
海外では中国系アメリカ人の反日団体がラーベ日記の復刻や、作家のアイリス・チャンを支援し、論争が国際化したが、J.フォーゲルらからチャンの本には間違いが多いと酷評された[16]。英語圏では、政治的利害を排した「中間派」の研究が増えている[17]。否定派は、後述するように中国側の誇張をプロパガンダとして厳しく批判している。
中国政府は、日本の虐殺肯定派が犠牲者数「20万未満」と考えていることに対して、距離をとるようになったとされる。日本の側から加害者の意識を強調する松岡環の考え(ただし30万説は支持していない)を中国は支持しているとも言われる[18][19]。
90年代以降の日本での論争は、「まぼろし派(否定派)」の新たな論客が目立っているとも秦郁彦は考える[20]。一方で、「虚構説」の論理は、破綻しており「あったこと」が正しいことは学問的に決着がついたと肯定派の笠原十九司は主張している[21]。
そして、初めて、日中両国共同での学術研究の場で、南京事件 (1937年)が、両国の専門の学者によって分析されることとなった。2005年には、小泉政権の町村信孝外務大臣が日中歴史共同研究を提案し、2006年の日中首脳会談で歴史共同研究を行うことが決まり、両国の歴史の専門的な研究者による日中共同研究が行われ、2010年1月に報告書が発表された[22]。
日本・中国双方とも戦時国際法違反の中国兵・中国民間人への虐殺が一定規模あったことを結論づけた。日本側は規模は諸説ありとし、中国側は大規模でありえたとも記述した。また、虐殺の原因も、日本側は分析・記述(南京事件 (1937年)#南京事件の発生原因を参照)した。
現在も、日本国内の保守派を中心とする南京事件否定派と日本・中国の南京事件肯定派と摩擦するケースは頻繁に見られる。このような状況について、日中歴史共同研究に参加した北岡伸一(安倍談話有識者会議座長代理)は、日中歴史共同研究を振り返り、「南京事件について、日本軍の虐殺を認めたのはけしからんという批判がある」が、「虐殺がなかったという説は受け入れられない」[23]とし、「日本人の一部に南京事変は存在しなかったと主張する人たちがいること」も中国側の根強い反日感情の要因だと指摘している[24]。
主要な論点犠牲者数詳細は「南京事件の被害者数」を参照
ゼロ - 「大虐殺」否定説・戦時国際法上合法説、しかし、それへの再反論も多し。この説では、30万人の市民の「大虐殺(大屠殺)」どころか、市民の殺害はほとんどなく、便衣兵(ゲリラ兵)や捕虜・投降兵の殺害も戦闘行為の延長や戦時国際法上合法であったとし(佐藤和男の戦時国際法上合法説を根拠)、中国軍人の殺害も戦時国際法上合法と主張し、よって市民・軍人とも違法殺害ゼロと主張する(ただし、#投降兵・捕虜の扱いと戦時国際法・#便衣兵と戦時国際法に再反論あり)[60]。また、南京安全区の欧米人記録やその話をもとにしたジャーナリストの記録の信頼性への疑問、国民党は事件の翌年の300回の記者会見で言及しなかったことから南京事件の報道はなかった、国際連盟は南京事件を無視したと主張(ただし、国民党の記者会見がない=南京事件なし、でない・当時の国際報道では南京事件は報道された・国際連盟は南京事件を無視したとはいえないとの再反論があり)[61]、国民政府の記録[62]での人口記録の増加、また日本軍の非行として訴えられた殺人は計26件、目撃された事件は合法殺害1件のみ[63]、「大虐殺」を証明する写真がないと主張[63]。
人口推移南京の人口は、日中戦争以前は100万人以上とされるが、上海事変以来の爆撃や、南京攻撃が近づいて中国政府首脳が重慶に移転したり、富豪などの疎開によって、南京戦当時の人口はかなり減少していた[65]。スマイス調査によれば、南京攻撃の直前の11月には約50万人(数字にはほかに諸説あり)に半減していた[66]。
欧米人の南京安全区国際委員会は、市内人口は「日本占領直後は約20万」に至ると予測し、難民救済を行った[67]。
12月13日の日本占領後、日本側が住民登録を行い、約16万人(子供や老人の一部が入っていない)が登録し、南京安全区国際委員会は子供・老人等を含めると人口は約25万人と算定した[68]。スマイス調査は、占領時の12月12〜13日の南京の人口は約20−25万人とした[69][65]。また三か月後の1938年3月の人口は22万1150人で、これは未調査分を含めた人口全体の80〜90%とした(つまり全人口は約24万―26万人)[65][70]。つまり三か月の間の人口増加が考えられるが、これに関して、南京安全区国際委員会のジョン・ラーベは、占領後の安全区での人口増があったのは、安全区の外からの人口の流入による増加ではないか、と推察している[71]。
1984年、偕行社の戦史編集委員の畝元正己は20万人説について、1937年12月17日の南京安全区国際委員会発第6号文書『難民区の特殊地位の解釈』には「(12月13日)あらゆる市民は殆ど完全に難民区内に蝟集し」ていると記されており、また12月13日に入城した日本将兵の証言では、安全区(難民区)以外の城南、城西、城東、城北地区では殆ど住民が目撃されていないので、安全区内に大部分の市民が移動したのは事実であろう、しかし、3.52平方キロメートルの狭い安全区に20万人を収容することが可能であったかは疑問であると述べた[65]。
3.52平方キロメートルに20万人いたとすると1平方キロメートルあたり56,818人の人口密度になる[65]。さらに畝元は、スマイス調査に難民収容所に27,500人、収容所に入らず安全区にいたものが68,000人(合計95,500人)と記載されていること、さらに12月17日の国際委員会文書では49,340〜51,340人と記載されていることから、20万人が安全区に収容されたとは考えにくいとした[65]。
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