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虚偽告訴

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南京総攻撃

昭和12年12月5日〜14日 南京近郊戦闘経過要図[85]。南京から八方に七ヵ所の防衛線が構築され、そのうち句容防衛線は機関銃の砲座もあり、堅固であると言明されていたが、仮設トーチカに過ぎず、またベッドや砂嚢やがらくたで作ったバリケードで防備している程度だった[25]

1937年12月12日 20時、南京城の司令官である唐生智は全軍に各隊に包囲の突破を指令するとともに、自分は長江左岸にポートで逃走した。
この逃走計画は参謀本部の将校にさえも知らされていなかった。  
中国軍は渡河撤退を一切考えていないと公言していたし、河にはわずかなジャンク船とランチ(小型船)しかなかった。
揚子江によって退路が塞がれ、中国軍は混乱状態となり、多数の敗残兵が便衣に着替えて安全区(難民区)に逃れた。 
また、唐司令官は陣地死守を命じ揚子江の無断渡河を厳禁し、違反者は武力で制圧したため、同士討ちが始まった。この時点で唐将軍は渡河して逃亡していた。
北部の長江へつながる挹江門には督戦隊が置かれて撤退する中国軍と同士撃ちとなった (挹江門事件)。
ミニー・ヴォートリンによれば、中国軍の統制が取れなくなり城内殆どの場所で掠奪が行われており、中国軍が城壁外側のすべての家屋と城内の家屋も焼き払った事は酷い過ちだ。被害者は中国の貧しい人々であり、なぜ南京を破壊せず引渡さなかったのだろうかと日記に綴った。
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12月9日(木曜)
  • 未明、114師団歩兵127旅団は将軍山攻撃を開始、突破した[79]。包囲された300の中国兵は山頂に追い詰められ殲滅された[86]
  • 払暁、第9師団は光華門に到達した[82]。城内に押し戻された中国兵は、激しく抵抗したが、大砲、空爆、榴散弾の攻撃を受けた[87]
  • 16師団は下麒麟門、蒼波門へ進出[82]
  • 夕方、日本軍は飛行機で南京城内にビラを撒き、中国軍に対し降伏勧告を行なった[80][82][88]
 日本軍は江南を席巻した。南京城はすでに包囲された。今後の交戦は百害あって一利なし。
 江寧の地は旧都にして中華民国の首都である。明の孝陵、中山陵など古跡名所が多くあり東亜文化の精髄の感がある。
 日本軍は抵抗する者に対しては寛恕しないが、無辜の民衆および敵意なき中国軍隊に対しては寛大をもってこれを冒さない。
文化財は保護する熱意がある。
 しかし、交戦を継続すれば、南京は戦禍を免れず、千載の文化は灰に帰す。
 貴軍に勧告する。南京城を平和裡に開放せよ。
 回答は10日正午中山路句容道上の歩哨線で受領する。
もし貴軍が責任者を派遣するときは、必要の協定をむすぶ。
回答がない場合は、日本軍はやむをえず南京城攻略を開始する。
— 投降勧告(原文中国語、現代日本語による抄訳)、大日本陸軍総司令官  松井石根
  • 午後、中国軍は南京市内の銃撃の邪魔になるものや日本軍に役立つ物を取り除くために放火し、北西以外の方角から煙がのぼった(ヴォートリン日記[89]。マクダニエル特派員は中国兵が灯油を家にかけて火をつけている所を目撃した[89]。焼け出された人が城内に避難した[89]ダーディン記者は、中国軍は防衛作業として城内の建物の全面的焼却作戦を開始し、南門近くの住民を安全区に追い立て、地区がまるごと燃やされ、同様に下関駅近くの新村も焼却され、湯山の軍事施設、政府高官の宏壮な邸宅も放火されたと報道した[87]。南京は北部と東部が火に囲まれた[90]
  • 夜、淳化鎮の日本軍は、スパイから守備兵交代があると教えられた大校場軍事飛行場(光華門側)を襲撃し占領したが、中国軍が反撃、便衣兵が大校場の兵舎に放火し、炎の中で猛反撃に遭った[25]
  • アメリカ大使館のアチソンらは下関からボートに乗り、アメリカ砲艦パナイ号に乗船した[25]






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12月10日(金曜)
  • 投降勧告の回答期限の正午が過ぎても中国軍からの反応がなかったので、午後1時、日本軍は総攻撃を開始した[21][80]
    • 第9師団左翼隊(36i,19i)は光華門、雨花台東端を攻撃[82]
    • 16師団は紫禁山を攻撃[82][79]。歩兵9聯隊が桂林石房を占領すると前方の五重塔付近より追撃砲の射撃を受けたため、観測所である五重塔攻撃を意図したが、大隊長は「歴史的文化遺産だから破壊してはいけない」と頑として許可しなかった[79]。歩兵33聯隊第三大隊は紫禁山東端の227・5高地を占領、第二大隊は16時382.5高地を占領[79]
    • 第10軍の114師団、第6師団は雨花台、将軍山正面を攻撃[82]
    • 午後5時30分、日本軍は光華門を確保した[91][92]
  • 唐生智司令官は午後7時、各部隊に死守を下命し、陣地を放棄したものは厳罰に処するとし、長江の渡江も禁止し、離脱兵が制止をきかずに渡江しようとした場合は武力で阻止せよと命じた[80]
  • 夜、第11中隊(94名)が雨花台82高地を夜襲、敵陣地を占領したが、中国軍に包囲され、手榴弾や砲弾を雨注し70名が戦死したが、24名でこれを撃退した[82]
中国無名兵士の墓を慰霊する日本軍将兵(※南京陥落前)
『支那事変画報』[93]


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12月11日
  • 唐生智司令官は蒋介石から撤退の指示を受けた[21]
  • 16師団は紫禁山南麓の西山を占領[79]
  • 午後から12日にかけて東京では南京陥落の誤報が各新聞によってなされ、祝賀行列がくりだした[94]

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12月12日(日曜)
  • 早朝、敵の大型船5隻が揚子江を上流に逃走中との報告を受け野戦重砲13聯隊が射撃したが、英砲艦レディーバード号が含まれていた(レディバード号事件)[82]。3隻は中国軍、避難民を満載したといわれる[82]
  • 中国軍によって、紫金山、南京対岸の浦口の長江岸全体が放火され、埠頭や倉庫も含め燃え、下関の半分も燃えた[95]
  • 午前7時、井上軽装甲車隊と独立軽装甲車第二中隊は右の雨花台の中国軍を攻撃、さらに独立軽装甲車第二中隊は中華門外の元部隊本部とみられる集落でガソリン200缶を鹵獲し、本道左方の中国軍400〜500を機関銃で射撃した[82]。同隊は夕刻、500メートル退却して夜をてっした[82]
  • 12時20分、第10軍の第6師団歩兵47聯隊は中華門西の一部を占領[82]。日本軍が西門近くの城壁を登り始めると、中国軍第88師団の新兵が逃亡を開始し、中国軍の瓦解が始まり、夕方までには大方の部隊が下関門に向かった[87]。中国兵は軍服を脱ぎ、平服に着替えた[87]。それを目撃したダーディン記者は「それは滑稽ともいえる光景であった。隊形を整えて下関に向かい行進している最中、多くの兵隊が軍服を脱いでいた。あるものは露地に飛び込み、一般市民に変装した。なかには素っ裸の兵隊がいて、市民の衣服をはぎ取っていた。」と報じた[87]

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パナイ号。撮影1928年
  • 正午過ぎ、日本海軍第十二航空隊第十三航空隊が揚子江上の合衆国艦隊パナイを誤爆したパナイ号事件が起きる[96]。反日世論が起きる騒動になったが、12月26日に事態収拾した。アメリカでは真珠湾攻撃の序曲とみなされることもある[97]
  • 13師団山田支隊は鎮江を出発し、揚子江を移動[82]
  • 第9師団右翼隊(7i,35i)は中山門東南城壁に近迫し、200メートルの水濠の渡河準備を行った[82]
  • 114師団は将軍山方面より周家凸、雨花台の線に進出し、一部は城壁に突入、師団主力は雨花台、周家凸の線以南に集結[79]
  • 18時、16師団は488高地を占領し、紫禁山を占領。日本軍は城壁を突破し南京城内に進入した[21]


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唐将軍の逃亡と挹江門事件
  • 20時、唐生智は全軍に各隊に包囲の突破を指令する[21]とともに、自分は長江左岸にポートで逃走した[25]。この逃走計画は参謀本部の将校にさえも知らされていなかった[25]。中国軍は渡河撤退を一切考えていないと公言していたし、河にはわずかなジャンク船とランチしかなかった[25]揚子江によって退路が塞がれ、中国軍は混乱状態となり、多数の敗残兵が便衣に着替えて安全区(難民区)に逃れた[72][98]
  • また、唐司令官は陣地死守を命じ揚子江の無断渡河を厳禁し、違反者は武力で制圧したため、同士討ちが始まった[72]
  • この時点で唐将軍は渡河して逃亡していた。北部の長江へつながる挹江門には督戦隊が置かれて撤退する中国軍と同士撃ちとなった (挹江門事件)。[99]ミニー・ヴォートリンによれば、中国軍の統制が取れなくなり城内殆どの場所で掠奪が行われており、中国軍が城壁外側のすべての家屋と城内の家屋も焼き払った事は酷い過ちだ。被害者は中国の貧しい人々であり、なぜ南京を破壊せず引渡さなかったのだろうかと日記に綴った[100]
  • ニューヨーク・タイムズダーディン記者は将軍だけが逃亡し、その他の将兵らが「ねずみとりの中の鼠よろしく捕らえられ、日本の陸海軍の大砲や空軍が彼らをとらえて木っ端微塵にするような状況にすすんで置かれることを選んだ」と翌年に報じた[25]

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転載元転載元: 在日の違法行為を咎めるのブログ



1937年11月16日
中国、第一次防衛会議で劉斐作戰組長は、12〜18師団を南京に置き主力は撤退することを提案した。南京無防備都市宣言を建議していた白崇禧もこれに賛成し、何応欽徐永昌も賛成した。しかし第二次会議では李宗仁は南京は孤絶しており守備は困難で放棄を建議した。ドイツ軍事顧問団アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンは不必要な犠牲であると放棄に賛成した。しかし唐生智は南京は死守すると主張したため、何応欽は唐個人の責任にしてはどうかと発言し、蒋介石もそれを認め、南京を1年3ヶ月固守することになった[62]


11月21日
日本陸軍参謀本部第一部第二課より対支那中央政権方策提示。現下時局解決のため現状に於ては尚中央政権をして翻意我に提携せしめ全支の問題を統一処理するの方針を堅持す。(蒋政権の)面子を保持して講和に移行する如く我諸般の措置を講ずるを要するものとす。
蒋介石は日記に「老人学者、軍事敗北、将軍は落胆し和平を望む、革命精神の欠落。日本と戦争している理由も分からない」と書いた[64]


11月25日
独立軽装甲車第二中隊は激戦の末、湖州に入城したが、市内はすでに掠奪されていた[19]。16師団歩兵19旅団は無錫を突破したが、中国軍による掠奪は凄まじいものであったと犬飼総一朗同旅団司令部通信班長は述べている[19]

12月5日
二ヶ月後にソ連が中国支援のために軍を派遣することを決定したと中国側に伝えた[69]
南京安全区国際委員会ジョン・ラーベは、安全区から中国兵が引き上げるなら攻撃しないとの日本からの回答を得たので、マイナー・シール・ベイツ、シュペアリングと唐司令長官に中国兵撤退を要請したが「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」と唐は回答した[70]。ラーベは日記で「そんなばかなことがあるか」と唐将軍への不満を日記に記し、またドイツ大使館書記官ローゼンも中国軍が安全区のなかに隠れていることに怒っていると書いている[70]

12月3日
南京市内の水道が故障し、数日前より下関には常に3万〜5万の難民、退却軍であふれた[63]


1937年12月7日(火曜)
  • 夜明け直前、総統蒋介石夫妻はアメリカ人パイロットの操縦する大型単葉機で南京を脱出した[71]。またファルケンハウゼンドイツ軍事顧問団や、南京市長ら政府高官もすべて一両日のうちに脱出した[71]
  • 中国軍は防衛司令長官唐生智を残して中国政府高官が南京を脱出した為、無政府状態となり市民は混乱状態に陥り、安全区(難民区)に避難した[21]
  • 中国軍は撤退する際に、日本軍に利用されないために多くの建物を焼き払う清野作戦を実施した[72][73]
  • ニューヨーク・タイムズダーディン記者は「湯山と南京の間、公路沿いにだいたい一マイルおきに堡塁が設けられている。首都に近づくと、中国軍に放たれた火が激しく燃え盛っていた。敵軍が遮蔽物に使いうる農村の建物を清除しているのである。 ある谷では一村が丸々焼けていた。木々や竹林は切り倒され、竹の切り株は日本軍歩兵を妨害するべく鋭い刃物状にされた」と報道[74]
  • 中国軍の南京周辺の焼き払いによって焼け出された市民が難民となって城内に流入し、食料難と暴動が市内で発生し、中国軍は治安維持と称して漢奸として少しでも怪しいものは手当たり次第に100名が銃殺された[75]。なお11月までの漢奸狩りで嫌疑をかけられた市民2000名、12月初旬には連日殺害された[76]
1937年12月10日
唐生智司令官は午後7時、各部隊に死守を下命し、陣地を放棄したものは厳罰に処するとし、長江の渡江も禁止し、離脱兵が制止をきかずに渡江しようとした場合は武力で阻止せよと命じた[80]


1937年12月12日
12時20分、第10軍の第6師団歩兵47聯隊は中華門西の一部を占領[82]。日本軍が西門近くの城壁を登り始めると、中国軍第88師団の新兵が逃亡を開始し、中国軍の瓦解が始まり、夕方までには大方の部隊が下関門に向かった[87]。中国兵は軍服を脱ぎ、平服に着替えた[87]
それを目撃したダーディン記者は「それは滑稽ともいえる光景であった。隊形を整えて下関に向かい行進している最中、多くの兵隊が軍服を脱いでいた。あるものは露地に飛び込み、一般市民に変装した。なかには素っ裸の兵隊がいて、市民の衣服をはぎ取っていた。」と報じた[87]


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唐将軍の逃亡と挹江門事件
  • 20時、唐生智は全軍に各隊に包囲の突破を指令する[21]とともに、自分は長江左岸にポートで逃走した[25]。この逃走計画は参謀本部の将校にさえも知らされていなかった[25]。中国軍は渡河撤退を一切考えていないと公言していたし、河にはわずかなジャンク船とランチ(小型船)しかなかった[25]揚子江によって退路が塞がれ、中国軍は混乱状態となり、多数の敗残兵が便衣に着替えて安全区(難民区)に逃れた[72][98]。また、唐司令官は陣地死守を命じ揚子江の無断渡河を厳禁し、違反者は武力で制圧したため、同士討ちが始まった[72]。この時点で唐将軍は渡河して逃亡していた。北部の長江へつながる挹江門には督戦隊が置かれて撤退する中国軍と同士撃ちとなった (挹江門事件)。[99]ミニー・ヴォートリンによれば、中国軍の統制が取れなくなり城内殆どの場所で掠奪が行われており、中国軍が城壁外側のすべての家屋と城内の家屋も焼き払った事は酷い過ちだ。被害者は中国の貧しい人々であり、なぜ南京を破壊せず引渡さなかったのだろうかと日記に綴った[100]ニューヨーク・タイムズダーディン記者は将軍だけが逃亡し、その他の将兵らが「ねずみとりの中の鼠よろしく捕らえられ、日本の陸海軍の大砲や空軍が彼らをとらえて木っ端微塵にするような状況にすすんで置かれることを選んだ」と翌年に報じた[25]

転載元転載元: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興



南京事件論争

   
南京戦 > 南京事件 > 南京事件論争
南京事件論争(ナンキン[1]じけんろんそう)とは、日中戦争支那事変)中の1937年(昭和12年)12月に遂行された南京戦において発生したとされる南京事件における虐殺の存否や規模などを論点とした論争である。論争は日中関係を背景に政治的な影響を受け続けた[2]


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論争史

南京戦後に日本の外務省に南京事件が深刻な事件として外務本省に伝えられ[3]、また陸軍の高級幹部である松井石根司令官の後任の中支那方面軍司令官の畑俊六や中国派遣軍である第十一軍司令官に就いた岡村寧次大将のように当時の南京派遣軍の行動に否定的な評価という形で事件の確認を示した人物もいた[4]。しかし、軍人以外の一般国民には厳しい報道管制と日本軍部の宣伝によって、国が流す報道内容からは事件の内容を知らされていなかった[5]

そのため、戦後の東京裁判で南京事件は日本人に衝撃を与えた[6]が、以降は事件への関心は薄れた[7]1971年朝日新聞本多勝一が『中国の旅』を連載すると、「百人斬り競争」を虚構とする山本七平鈴木明との間で論争となった[8]1982年には文部省が「侵略」を「進出」に書き換えさせたという第一次教科書問題で、戦後は事件に触れることがほとんどなかった[9]中国から抗議を受け[10]、日本政府は検定教科書への近隣諸国条項で沈静化を図るなか、田中正明が虚構説を発表し、否定派を代表した[11]

1989年偕行社編『南京戦史』は「不法殺害とはいえぬが」「捕虜、敗残兵、便衣兵のうち中国人兵士約1万6千、民間人死者15,760人と推定した[12]
否定派は1995年の終戦50年不戦決議阻止運動とも連携し[13]、新しい論客東中野修道佐藤和男[14]らが捕虜殺害を国際法上合法と主張し、吉田裕と論争になった[15]

海外では中国系アメリカ人の反日団体がラーベ日記の復刻や、作家のアイリス・チャンを支援し、論争が国際化したが、J.フォーゲルらからチャンの本には間違いが多いと酷評された[16]。英語圏では、政治的利害を排した「中間派」の研究が増えている[17]。否定派は、後述するように中国側の誇張をプロパガンダとして厳しく批判している。
中国政府は、日本の虐殺肯定派が犠牲者数「20万未満」と考えていることに対して、距離をとるようになったとされる。日本の側から加害者の意識を強調する松岡環の考え(ただし30万説は支持していない)を中国は支持しているとも言われる[18][19]

90年代以降の日本での論争は、「まぼろし派(否定派)」の新たな論客が目立っているとも秦郁彦は考える[20]。一方で、「虚構説」の論理は、破綻しており「あったこと」が正しいことは学問的に決着がついたと肯定派の笠原十九司は主張している[21]

そして、初めて、日中両国共同での学術研究の場で、南京事件 (1937年)が、両国の専門の学者によって分析されることとなった。2005年には、小泉政権町村信孝外務大臣が日中歴史共同研究を提案し、2006年の日中首脳会談で歴史共同研究を行うことが決まり、両国の歴史の専門的な研究者による日中共同研究が行われ、2010年1月に報告書が発表された[22]

日本・中国双方とも戦時国際法違反の中国兵・中国民間人への虐殺が一定規模あったことを結論づけた。日本側は規模は諸説ありとし、中国側は大規模でありえたとも記述した。また、虐殺の原因も、日本側は分析・記述(南京事件 (1937年)#南京事件の発生原因を参照)した。

このほか、東史郎の「郵便袋裁判」(東側が敗訴)、百人斬り裁判(原告敗訴)、東中野修道の「夏淑琴による名誉棄損裁判」(東中野側が敗訴)などの裁判もある。

現在も、日本国内の保守派を中心とする南京事件否定派と日本・中国の南京事件肯定派と摩擦するケースは頻繁に見られる。このような状況について、日中歴史共同研究に参加した北岡伸一安倍談話有識者会議座長代理)は、日中歴史共同研究を振り返り、「南京事件について、日本軍の虐殺を認めたのはけしからんという批判がある」が、「虐殺がなかったという説は受け入れられない」[23]とし、「日本人の一部に南京事変は存在しなかったと主張する人たちがいること」も中国側の根強い反日感情の要因だと指摘している[24]



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主要な論点

犠牲者数

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