藤原京(ふじわらきょう)は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城。日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた
藤原京 - Wikipedia藤原京
実際の建設は、その後の研究により、すでに676年(天武天皇5年)には開始され(これを倭京と呼ぶ)[注釈 3]、宮都が完成したのは遷宮から10年も経った704年(慶雲元年)とも言われ、着工から28年が経過したことになる[注釈 4]。以来、宮には持統・文武・元明の三代にわたって居住したが、完成から4年後の708年(和銅元年)に元明天皇より遷都の勅が下り、710年(和銅3年)に平城京に遷都された。その翌年の711年(和銅4年)に、宮が焼けたとされている(『扶桑略記』、藤原宮焼亡説参照)。
藤原京の範囲藤原京は当初、大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香久山)の内側にあると想像され、東西1.1km、南北3.2km 程度とみられていた。しかし1990年代の東西の京極大路の発見により、規模は、5.3km(10里)四方、少なくとも25km2はあり、平安京(23km2)や平城京(24km2)をしのぎ、古代最大の都となることがわかり、発見当時は「大藤原京」と呼んでいた。この広大な京域は、南側が旧来の飛鳥にかかっており、「倭京」の整備に伴って北西部に新たに造営された地域を加え、持統天皇期に条坊制の整備に伴う京極の確立とともに倭京から独立した空間として認識されたとみられている[3]。
特色として、以降に建設される、北に宮殿や政庁を配した北朝形式の太宰府、平城京や平安京とは異なり、京のほぼ中心に内裏・官衙のある藤原宮を配している(やや北寄りであったとする説もある[要出典])。これは、当時武則天(則天武后)が周(武周 690年〜705年)を復活させるなどしており、この漢土の復古調に倣った古い周礼の影響をうけて建設された可能性が考えられる[要出典]。
都の区画にあたっては、唐(中国)の長安をモデルとして条坊制を採用し、東西5.3km(20坊)、南北4.8km(18条)の範囲内に碁盤目状に街路を配したとされる[1]。 藤原宮から北・南方向にメインストリートである朱雀大路があり、これを境に東側が左京、西側が右京が置かれた。朱雀大路は、後の平城京や平安京のような幅70メートル以上の広いものではなく、幅24メートル強(側溝中心間)と非常に狭いものであった。
想定される宮都域には「和田廃寺」「田中廃寺」「豊浦寺(向原寺)」の遺構などが確認され、宮都はこのような既存施設との兼ね合いで飛鳥川の南側の朱雀大路や羅城門が整備されなかった[注釈 5]とする説もある[3]。
東西を通る京極を除いて縦横9本ずつの大路が計画され、南北・東西に十坊の条坊制地割りが設定されている。左右京とも四坊ごとに一人の坊令(ぼうれい)を置き合わせて12人の坊令を置いたことが、大宝戸令(こりょう)と大宝官員令(かんいんりょう)にみえる。宮の北方に市が存在したことが明らかになっている。
大和三山にかかる部分は条坊が省略されたと考えられるが、右京の四条付近にあった古墳群は、神武陵、綏靖陵を除いてこのときに削平されてしまったと見られている。また広大な宮都の南東が高く北西が低い地形のまま造営されており、汚物を含む排水が南東部から宮の周辺へ流れていたとみられる。なお藤原京には外的防衛の機能はなく、都を囲む城壁や正門が存在しない。
藤原宮藤原宮の調査の結果、宮城内に、宮城外の街路の延長線上で同じ規格の街路の痕跡が見つかっている。通常、宮城内には一般の人が通行する街路があるはずがないので、藤原京の建設予定地ではまず全域に格子状の街路を建設し、そののちに宮城の位置と範囲を決定してその分の街路を廃止したと考えられる。そのことは、薬師寺跡の発掘でも立証されている。
藤原宮はほぼ1km四方の広さであった。周囲をおよそ5mほどの高さの塀で囲み、東西南北の塀にはそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていた。南の中央の門が正面玄関に当たる朱雀門である。塀の構造は、2.7m間隔に立つ柱とそれで支えた高さ5.5mの瓦屋根、太さ4、50cmの柱の間をうめる厚さ25cmの土壁が藤原宮の大垣である。平城宮の発掘調査で、藤原宮から再利用したものが発見されている。藤原宮は、南北約600m、東西約240mにおよぶ日本で最大の規模を持つ朝堂院遺構である。大極殿(基壇は東西約52m、南北約27m[5])などの建物は礎石建築がなされ、中国風に日本の宮殿建築でははじめて瓦を葺いた建築がなされていた。
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天武天皇のあと,690年,飛鳥浄御原で持統天皇が即位する。 694年,かねてより建設中だった藤原京に都を移した。ここは畝傍山,耳成山,香具山に囲まれた平野で, 唐(中国の都)にならって,それまで見られない大きな都が造られた。
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