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蝉 4 「思考制御? 誰がそんなことを・・・」 耳慣れない言葉にフリーベルが振り向いた。
ヘドロヘアーはそっけない表情で下膨れに孕むガラスを磨きながら言葉を継ぐ。
「国だよ。思考制御には、国の支配階級の恐れる革命的なボキャブラリーや宗教的語彙を使った会話を阻止するという狙いがあるみたい。例えば「ストライキ」「抗議行動」「テロ」「座禅」「輪廻」「十字架」「ハルマゲドン」「神」「仏」などは代表的な語句。いちいち挙げると一冊の辞典ができるほど多いんだよね、これが。これらの語句を思い浮かべるだけで都市生まれの者は耳鳴りが始まるようだ。完璧な支配ってわけさ。」 それは、生後二年目に内耳の奥に埋め込まれる危険語彙反応チップのせいなのだが、ヘドロヘアーの属する地上の精鋭の調査によって、脳に流れる微弱電流を語彙転換して、危険語彙に反応する単純なシステムだということが分かってきた。 「それって人権侵害じゃない。」 「国民は気づいちゃいないのさ。今日も、そんな客が薔薇を注文しに来たよ。チップを埋め込まれていながら気づいていない鈍感な奴がね。ハルマゲドンという単語に見事に反応したよ。」 勿論、地下帝国から這い出てきた蝉に、偏光シールドによる思考の制限は全く影響を及ぼさない。思考を中断させられる耳鳴りがどういうものなのか想像を巡らして、双子は黙っている。 「可哀想だね。自由にものを考える事が出来ないなんて・・・。」 ヘドロヘアーが優しい口調で言ってみた。ハルマゲドンという単語に示した麻紀耶の、一瞬眉間に皺を寄せた神経質そうな面影が脳裏をよぎる。あれは麻紀耶の感情ではなく、耳鳴りに支配されているせいだと、ヘドロヘアーにはわかっている。 続く
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蝉 3 フリーベルの長い睫毛が偏光シールドの彼方に向かって見開かれているのを、傍から冷やかすように窓辺に近づくと、 「尤も、偏光シールドという奴は、紫外線の波長を跳ね返すための不可視光線のバリヤーだからな。と言っても紫外線を完全にカットできないみたいだ。」 栄吉は雀斑のはっきり浮き出た自分の鼻を指差して見せた。
紫外線を大幅にカットする偏光シールドを通した日光でさえ、地下帝国出身者の顔に一週間で雀斑を浮き出させるほどの威力を持っている。
「どうやら、あれを通して、国民の思考制御を行うのに都合のいい通信網を張り巡らしているらしい。」しかし、強烈な紫外線から人体を守るという名目の下で各都市をドーム状に覆っているが、偏光シールドの役目は、紫外線をカットするだけではない。サイドボードに飾るランプの火屋(ほや)を磨きながら、ヘドロヘアーが口を挟んだ。 「思考制御?」
続く
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蝉 2 「見て。何処まで高いの。偏光シールドで覆われているなんて信じられない。空って凄い。空って、宝物ね。」 晴れ渡った空に思春期の憂鬱から開放されたのか、フリーベルの声が弾む。赤毛の一房を耳の上から綺麗に編み込んで肩に垂らしている。透き通った白い肌に、淡い雀斑が浮き始めている。
もう、ひと月が過ぎたのだ。地上で新しい生活を始めてから。淡い雀斑は新参者の証だが、フリーベルにとっては誇らしい気持ちにさせる勲章のようなもの。
珍しく、ヘドロヘアーの用意した花柄のワンピースを着ている。襟と胸元に白いレースとフリルをあしらった上品なデザインで、普段のフリーベルなら小ばかにして袖を通すことはない。化繊の黒いパジャマが彼女自身を表現する一番のファッションだと信じているからだ。「空は宝物か。なるほどね。」 生まれ故郷から出てきた当初の自分をフリーベルに重ねて、フリーベルと瓜二つの貌を持つ少年が、プラスチックで出来たような肌理の細かい頬をぽりぽり掻いた。赤毛のぼさぼさ頭は前髪が目の近くに垂れて、その目はフリーベルと同じ空色をしている。ひょろ長い手足と、白い皮膚に細かく浮き出た雀斑は、一人前の蝉の印。地下深く掘られた宗教帝国から地上に這い出てきた蝉。 「だって、誰も地上のことは教えてくれなかったもの。一年前、栄吉が特別クラスに進級して姿を消したときは驚いたんだからね。」 唇の両端に微笑を湛えながら自分とそっくりの少年を睨む。
一年間勉学に励んで、踏襲するように特別クラスに進級し、双子の片割れが地上の都市に潜入していると知った。そのときの驚きと歓びが、心の中で再現される。
「僕だって、此処にいるのはやっぱり不思議だよ。此処には此処の素晴らしさがあるけれど、やはりバビロンさ。滅びゆく都市だ。偏光シールドの内側にはバビロンの亡者がうようよしている。」栄吉と呼ばれた少年は、ざっくりと編まれたカットソーのサマーセーターに掛けた濃紺のエプロンの前ポケットに両手を突っ込んで笑った。栄吉は、化繊の白いパジャマ派だが、そんな主義など薔薇屋では通用しない。 「でも、空は美しいわ。今まで見たどんなものよりも。偏光シールドなんて、目には見えないもの。」 「見えないからといって、偏向シールドをナメるんじゃないよ。」 続く
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蝉 ! プカラサンドと呼ばれる巨大ドーナツ型の建造物は、東京湾全域を埋め立てて出来たもので、日本沈没後の主要都市の一つとなっている。地上三十階までは下層と呼ばれる貧民窟。三十一階から三十八階までが役所や学校、病院、図書館その他諸々の公共施設が組み込まれ、下層に暮らす人々には三十二階までの通行カードしか許可されていない。ンナマ時代とは、厳然たる封建的格差社会を甘ったるい生クリームでデコレーションした、どこへも行き場のない社会だ。ただただ、ハルマゲドンを待っている。 その七十二階の窓辺に、空を見上げる少女の姿があった。
続く
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エレキシールの薔薇 7
一か月分の給料を前払いして、生花の薔薇を一輪注文した麻紀耶は、慇懃な態度ながら(あんたも馬鹿だね)と言いたげなヘドロヘアーの真意を測りかねながら、第七回廊の空中庭園を出た。
(ヒトである私という天敵に摘み取られても、薔薇は薔薇。何処で生きても人間が人間であるのと同じように・・・。)ビルの壁面をエレキシールの広告がするりと走る。『どこで生きてもヒトはヒト。下層に明るい明日を実現するために、先進的公共工事が始まっています。』 麻紀耶はまだ何か言葉を捜したが、大いなる未知の存在に対して想いを発するのは慣れていない。暗闇で手探りするような心もとなさに捉われて、偏光シールドで覆われた空を仰ぐ。その向こうのそのまた向こうに、どう呼びかけていいのか分からない謎が広がる。 「ハルマゲドン・・・。」 呟いた途端、激しい耳鳴りに襲われてその場に蹲った。もはやエレキシールのイメージだけで耳鳴りの支配を払いのけることはできない。
続く
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