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(会場)すみだトリフォニーホール
(座席)1階26列1番 (曲目) ワーグナー: ジークフリート牧歌 ブルックナー: 交響曲第7番 ホ長調 ハース版 あの震災から半年。
いろいろなところでいろいろなことがあり、そして続いている。 新日本フィルハーモニーもそのひとつだ。すみだトリフォニーでマーラーの5番を演奏するその日の午後震災にあい、ハーディングとオーケストラは未曾有の事態に直面することとなり、そして両者はより深い絆で結ばれることとなった。そしてそれと時を同じくしてここのシェフであるアルミンクとこのオーケストラに、いささか厳しい心情的な縺れが生じることになった。 そんなアルミンクと新日本フィル、はたして現況はどうなのか?
まず結論から言うと、すでに心情的なわだかまりは少なくとも演奏や舞台上のそれからは感じられなかった。お互いプロだから当たり前といえば当たり前かもしれないが、一応この件はこれで一安心。もちろん心の底ではいろいろとあるかもしれないが、アルミンクがここから自ら退かないかぎり、それはそれこれはこれでいかなければ駄目だろう。それ以上にこのコンビ、ひょっとすると当事者達が思っている以上に素晴らしい蜜月状態になりつつあるのではないだろうか。この日の演奏を聴いていて、自分はそちらの方がむしろ喜ばしいこととして強く印象に残った。
それにしてもこの日はアルミンクという指揮者がほんとうによく出た演奏会だった。
前半のワーグナー。
とにかく驚くほど隙がない。というより、バランス、響き、音楽の見通し、洗練された音楽の運び方等、どれをとっても驚くほどきっちりと仕上がっている。いやむしろきっちりしすぎていいるといっていいくらいで、あまりの完全完備のため、ごく自然なものに仕上がっているのにもかかわらず、都会的といいたくなるほどの垢抜けしたワーグナーとなっていた。
しかも一切の媚や見栄もなく、大きな器の中に、非の打ち所が無いほどあるがままの音楽がそこに提示されている。ちょっと聴くと、コンセルトヘボウのシェフの成り立ての頃のハイティンクに似ているが、アルミンクの方が音楽により強い自立感がある。
ふつうなら、もう言うことの無しの演奏となるはずなのですが、あまりにもすべてにわたり至れり尽くせりを、極力自然体の中でやってしまい、しかも真正面から愚直なほどに正攻法で取り組んだためか、この曲に感じられる遊び心的なものがすべて背後に追いやられてしまい、結果同曲としてはまれにみるような超クソまじめな演奏となっていた。
そのためこの曲の終わりを悠揚とした響きで終わらせたそれが、何かブルックナーの交響曲の緩徐楽章を聴いているような感じすらするほどだった。
だからといって驚くべき超名演かというとどうなのだろう。このやり方はたしかにアルミンクが大真面目に真正面から誠心誠意をもって取り組んだそれには間違いないが、その徹頭徹尾完全完備的な、しかもバランスも見通しも最高にクリアな状態にまで完成させたことが、逆に音楽のもつひとつの魅力である、「サプライズ」というものを完全に排除してしまっていることもまた否定できないものがある。
これがジークフリート牧歌なら、まだそういう点も別に問題にはそれほどならないだろうが、後半のブルックナーでも同じようなスタイルでやったら果たしてどうなるだろう。それが後半のひとつのポイントだった。
予想通りアルミンクは後半のブルックナーも同じやり方で責めてきた。音楽はより歌謡性に富んだものになっていたし、金管の節度ある爽快な吹奏ぶりも、このやり方のブルックナーとしてじつにいい収まりをみせていた。(ただ一階で聴いていてちょうどいいかんじということは、二階以上ではこの金管、かなり強く聴こえていたのではないだろうか。)
ただしここでは大きく歌わせてはいるものの、音楽が大きく膨らんでいくというそういう感覚は無い。むしろよく歌いながらも手堅く音楽が次々とリレーされていくという感じがした。金管も大きく鳴ってはいるが、ひとつひとつがしっかりとしたひとつのグループとして響いていて、決して巨大な立ち上がりや雄大な吹奏へと発展していくようには感じられなかった。これはすべてアルミンクの設計によるものなのだろう。そしてそれがサプライズやプラスアルファという、不確定要素を排した手堅い演奏へと全体を、この後半のブルックナーも前半のワーグナー同様に導いていったのだった。
だがだからといって食い足りなかったというとそうでもない。第二楽章終わりなどは、これほど肩の力を抜いた清澄かつ自然な響きというのも稀だったと思うし、終楽章が先行した三つのどの楽章と比しても小さく感じられなかったことを思うと、その設計の非凡さは特筆に価すると思う。
ただ全体的にはそれらのアルミンクの語法を具体化するために施されたものであったものが、途中でそれが手段なのか目的なのかちょっと渾然一体となってしまい、凄いんだか凄くないんだかわからないという演奏になってしまったこともまた事実という気がする。もっとも当人にはそんなことどうでもよくて、出来た音楽が満足できるものとなっていればOKなのだろう。
今回アルミンクのブルックナーを聴いていると、この指揮者がある意味職人的な指揮者の系列に属しているような気がしてきた。もちろん年齢的なものもあり、上のような感想が出てきてしまうところに、まだ職人足りえていない部分もあるだろうけど、方向性としては職人的、しかもちょっと昔気質的なものを念頭に置いたところがあるような気がどこかした。この人、みかけほど音楽があまり新しい感じがしないです。
ところでそんなアルミンク。この日のブルックナーやワーグナーでも、まったく誇張の無い、自分に正直すぎるくらい正直な音楽をやっていたが、この人もし私生活もそうだとすると、本来言わんくてもいいものを、何のあれもなくストレートに発言してしまう、ちょっと怖いもの知らず的なものが根底にあるのかもしれません。多少聴きやすいような色気をつけようとか、大向こう沸かせるような演出をしようとか、そなこと全然考えていない。ほんとうに真面目が服着て棒振ってるようなそんな気がします。
ただそういう人って、いろいろと発言で問題を起こすことがあるんですよね。本人は本音に従い言いたいことを言ってしまえば、あとは指揮台で結果も本音もすべて出すから問題なしと思っているのかもしれませんが…。アルミンクがメジャーなオケから、こちらが思うほど声がかからないのはそういう部分があるのかもしれません。
自分の発言がどうとられようが結果はすべて指揮台で出すと考えるタイプ。もしアルミンクがほんとうにこういうことを考え行動しているタイプだとしたら、このあたりも自分が昔気質的なものをこの指揮者に感じている原因のひとつなのかもしれません。
だとしたら自分はこういう指揮者、大好きです。
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