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(会場)みなとみらい
(座席)三階C6列37番
(曲目)
マーラー:交響曲第10番嬰ヘ長調(デリック・クック版)
この曲は自分にとって極めて特別な曲でして、そのためかつて演奏会であえて一度も聴こうとしなかった曲でした。ですがそんなことをやっていると、このまま永久に聴けなくなる心配もでてきたため、今回初めてこの曲を聴きに会場に足を運びまして。
自分にとってこの曲はモリス指揮ニューフィルハーモニアとシャイー指揮ベルリン放送という、二つの演奏がひとつの理想となっています。特にモリスはLP時代ずっとこれを聴き続けてきた演奏だけに、愛着も半端ではないものがあります。そんな自分ですからどうしても今日の演奏をそれらのものと比較してしまうことが多々ありました。そんな自分の感想が以下のものとなります。
演奏は第一楽章こそ強く抑制したものの、その後はそれほどの抑制はせず結果そのためすべての楽章がバランスよく均等にならされたものとなっており、このため普段は不満や物足りなさを感じる二つのスケルツォも、その度合いはかなり小さなものとなっていました。また音がやや乾き気味で、情念的なものに音楽が引きずられなかったためか、音楽そのものの見通しや立体巻感がすこぶるよくなっていたため、このあたりの音の動きがより明確になり、その音の薄さもそれなりの正当性みたいなものを出したものになっていました。
こういう演奏を聴くと、たとえマーラーがさらに存命しこの曲に手を加えたとしても、案外そんなに肉厚にもならず、それほど印象も変わることなく終わっていたのではないかと、そんな気さえ感じられたものでした。
また悲壮感も絶望も情念にも極度にしばられない音づくりのせいか、この曲がそのひとつ前の第九よりも現世に引き戻された…というより、第九を装いながらもじつは中身は第七をひっくり返しただけの、複雑なな感情の百鬼夜行を、アルマとの愛や嫉妬を絡めたことにより、自分をあたかも悲劇の主人公、もしくは諦観の念を抱いた悲劇の人間に仕立て上げているような、そんなマーラーの妙に人間くさい姿が見え隠れしているような演奏にも聴こえたものでした。
そんなわけで、これはこれでとても聴かせるだけの演奏であったという気はしました。
ですが、最初に書いたように自分のこの曲のそれはモリスやシャイーのそれにあるため、どうしてもこのようなマーラーの10番とは相性が悪い。結局最後まで自分はひじょうに醒めた目でこの80分ほどの演奏を三階から終始「眺めていた」ひとりの観客となってしまいました。聴衆にはなれなかったのです。
終演後延々と続く静寂にも、ひじょうに冷ややかな気持ちでそれに参加している自分がそこにはいた。
オケも随分頑張っていたが、随所に練習不足というか、曲を噛み砕ききれなかった恨みが残る瞬間が散見された。以前に比べ確かにオケとしては機能的になったかもしれないが、音楽の意味を深く考えて演奏するという姿勢がやや後退したため、こういうことが起きているのではないかと自分はそう感じられた。神奈川フィルを聴くのはじつに久しぶりだが、前回のゲッツェルや、金さんのマーラーの3番ではこういう感覚は無かっただけに、これにはちょっと考えさせられるものがあった。
練習時間が少なく、各自に噛み砕かせる時間が足りなかったのか、それとも他に何か理由があったのか、それはさすがにわからないが、これではシュナイトを自分が聴き始めた頃の神奈川フィルとあまり変わらない。そういえば今年の4月で神奈川フィルを聴いてからちょうど十年がたつ。このオケにとってはたしてこの十年は何だったのだろうか。
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