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(会場)サントリーホール
(座席)2階RA4列19番
(曲目)
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲
ソリマ:ラメンタチオ(アンコール)
−休憩−
ブラームス:交響曲第1番
ブラームス:ハンガリー舞曲第5番 (アンコール)
スメタナ:歌劇「売られた花嫁」序曲 (アンコール)
高野辰之/J.カラフ編曲:ふるさと(アンコール)
ビエロフラーヴェクがチェコフィルと来日するのは、じつに22年ぶりになる。そしてその22年前にサントリーホールで演奏した曲目がこの日演奏されたブラームスの交響曲第1番。11月1日に演奏したというが、その演奏は翌日同ホールで行われた、クーベリック指揮の「わが祖国」によってすべて話題をもっていかれた形になったのは不幸だった。
その後ビエロフラーヴェクはチェコフィルを去ったため、この組み合わせを聴くことが日本ではできなくなってしまった。ただビエロフラーヴェクはその後も日本フィルへの客演や、自らが創設したプラハフィルとの来日公演で、その円熟への道を日本の聴衆に印象づけていった。特に2006年に日本フィルを指揮した「わが祖国」全曲は、オケ側からも絶賛されるほどの名演となったが、その頃から「またもう一度チェコフィルとともに来日してもらえないものかと」強く思うようになったものでした。
そしてようやく昨年20年ぶりにチェコフィルの首席指揮者に返り咲いたビエロフラーヴェクによる、チェコフィルとの来日公演が実現した。この日の曲目はドヴォルザークのチェロ協奏曲とブラームスの交響曲第1番。
まず前半のドヴォルザーク。協奏曲なのに指揮者が譜面台を使わないのにちょっと驚いたが、演奏がはじまるとなんとなく譜面台を使わない理由がわかったような気がした。
この日のこの曲。指揮者とソリストがどれくらいの比率でこの曲への解釈を強く主張したかはわからないが、結果的には指揮者のもつ大きな音楽がソリストも何もかも呑み込んでしまい、あたかもドヴォルザークの第10交響曲のような様相を呈してしまっていた。緩急のつけ方も大きく、端正ではあるが雄大ともいえるスケールの大きさをもったこの演奏は、この指揮者の現在の円熟を雄弁に物語っていた。
ただそれ以上にオケの気持ちの入り方が素晴らしく、多少木管に疲れのようなものが感じられるところはあったものの、オケ全体の充実感がじつに素晴らしく、特に弦はヴァイオリンはかつてレコード聴いたアンチェルのような繊細な動きをみせ、中低音弦はコントラバスが横一列でオケの最後方正面に陣取っていたこともあるかもしれないが、ノイマン時代のような独特の厚みと深みをもった響きを湛えていた。
そしてオケの流動感がさらに素晴らしい。これほど生き生きとしたチェコフィルというのもなかなかないような気がしたが、それは後半のブラームスでさらにその特性と長所が全開となった。
ブラームスはまさに一切の誇張を排し、真正面から正攻法で切り込んでいくような、ほんとうにブラームスそのものを堪能し尽せる演奏となった。よく「音楽をして語らしめる」という言葉を聞くが、この日のブラームスはまさにそれといった感じで、指揮者が曲をしっかり表現すれば、曲の方からそのすべてを語りだすといった、まさにひとつの音楽の理想形ともいえるようなものになっていた。そして終楽章後半の素晴らしい熱気と奔流のようなエネルギーもまた秀逸なものがあった。
かつてブラームスはワインガルトナーが指揮した自らの第二交響曲を聴き、その演奏に感激のあまり涙したというが、ブラームスがもしこの演奏を聴いたら、やはり同じように涙しただろうとすら思えるほどのこれは演奏だった。ブラームスの交響曲の素晴らしさを再認識させられた、まさに名演奏だった。
この後アンコールが三曲演奏されたが、どれもが素晴らしいものだった。特に最後の曲は人によってはベタに聴こえるかもしれないが、個人的にはこの曲のもつ美しさをこれまた再認識させられた演奏だった。
とにかくビエロフラーヴェクにとってもチェコフィルにとつても、これは会心の演奏会といえる出来でした。
尚、前半のチェロのソロを受け持ったアフナジャリャンは、協奏曲ではかなり呑まれたようなところはあったが、演奏そのものはじつにしっかりとしたものだった。ただその本領の一端は、むしろアンコールで弾いた小品の方に強く表れていたように感じられたものでした。
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