演奏会いいたい砲台

「海外オーケストラ来日公演記録抄」の「いいたい砲台」(ゲストブックにリンク先あり)にある2006年以降に行った演奏会の感想です

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(会場)東京芸術劇場
(座席3階K列21番
(曲目)
ショスタコーヴィチ/交響曲第11番 ト短調 「1905年」作品103
ショスタコーヴィチ/交響曲第12番 ニ短調 「1917年」作品112

井上道義さんと大阪フィルのショスタコーヴィチを聴いた。
かつての日比谷公会堂での連続演奏会以来。
大阪で同プロを二回行い、
その後二日開けてのこの東京公演。
オケはそのためこの曲に対し、
ある程度慣れみたいものがあり、
それがいい意味で表情の練れとなってあらわれていたが、
オケの蓄積された疲弊は後半いろいろとあわれていた。
これだけのハードなプロを立て続けにやったのだから、
さすがにノーミスでやれというのは無理な話なので、
仕方ないといえば仕方ないのだろう。
やってるのはサンクトのフィルハーモニーでもなければ、
シカゴやベルリンのオーケストラでもないのだ。

前半の11番は抑制のきいた演奏で
第一楽章から弦を中心とした音楽の集中度が素晴らしい。
ただ井上さんのショスタコーヴィチは、
ラザレフのような劇場型でもなければ、
北原さんのように王宮広場での事件を、
聴き手にその現場に立たせ目撃者とさせることもない、
それはまるで圧倒的に巨大な壁画に、
細部までその顛末を、
そこにいる人間の阿鼻叫喚や嘆きと絶望を含め、
とことん心血注ぎ込み描き込んだかのような演奏となっていた。
これにより音楽に込められた情報もかなり濃密かつ圧倒的で、
聴き手に強い集中を結果強いることとなった。
このため演奏する方にとっても聴き手にとっても、
かなりタフな演奏会となったようだ。
その為劇的な部分では怒涛の如く大音響が当然ながらオケに要求され、
それはそれで聴き応えがあるにはあったが、
第三楽章の冒頭の低弦のピチカートの深い響きからはじまる、
その静謐な部分の音楽の方がさらに秀逸で、
強く心に刻み込まれるような強い求心力がそこには働いていた。
ショスタコーヴィチの音楽のある意味真髄のようなものが、
垣間見られたような気がするほどだった。
20分の休憩の後、後半の12番。
正直この曲は11番より力を入れっぱなしに近いものがあり、
金管を中心にオケにかなりきているものが感じられた。
しか井上さんの音楽の激しさは、
11番よりさらに強熱的なものがあり、
その押しては引くような感情の怒涛の大波が
凄まじいばかりに第一楽章から吹き荒れていた。
その後第二楽章にためにためたエネルギーが、
第三楽章を上り詰めて第四楽章で一気に爆発するあたりで、
井上さんはこの日の二つの交響曲分のまとめをするかのような、
きわめて強大なエネルギーを音楽に注ぎ込んでいた。
大阪フィルもそのため音は濁りミスもかなり散見されたが、
井上さんにしてみればノーミスのような綺麗ごとは二の次で、
むしろそういう部分を乗り越えて放出される、
感情のふり幅やエネルギーこそこの曲に必要であって、
そこに傷だらけになりながら、
それこそ足元もふらつきよろけながらも、
自分たちの信じる明るい未来を勝ち取った人たちの姿を、
そしてじつはその後に決してそれが明るい未来ではなかったことも、
すべて描き出すことができると考えていたような気がした。

それはかつて日比谷で井上さんが聴かせた、
あの13番における姿勢とどこか重なるものがあった。

圧倒的な輝かしい音楽で幕を閉じたかのように聴こえてはいたが、
その割に歓声等が意外に少なかったのは、
ただこの重量級のプロに疲れたというだけではなかったのではないか。
何かそんな感じが最後に気持ちのかたすみに残る演奏でした。


最後に。
クラシック音楽はここ十数年の間に、
井上さんやラザレフによって、
超弩級のショスタコーヴィチが数多く日本で演奏された。
他にもアレクセーエフや北原幸男さんによる演奏も素晴らしかった。
特に最初の二人は良好な録音が少なからずあるのが嬉しい。
今後これらの演奏は歴史的名演として、
その録音とともに長く語り継がれることになると思う。
それはかつてのヨッフム、チェリビダッケ、朝比奈、ヴァント、
さらにその他多くの指揮者によってブルックナーの名演が多く演奏された、
日本の二十世紀最後の十数年の時代のそれと同等といってもいいと思う。

伝説的名演もすべて今のその目の前にあるひとつの演奏会からはじまる。
そしてそれと真摯に対峙した人たちによって、
後世へと誠実に語り伝えられる事でその幕があがる。
そんなこともあらためて感じさせられたこの日の演奏会でした。
尚、今回の公演も録音されているということなので、
今後もある意味生きた記録として残されるのは本当にありがたいことです。
(会場)みなとみらい
(座席2階RE3列1番
(曲目)
ベートーヴェン/交響曲第8番ヘ長調Op.93 
シューベルト/交響曲第8(9)番ハ長調D944「グレート」 

神奈川フィルの演奏会を久しぶりに聴く。
前回は2014年2/22の同じく飯守さんの指揮による、
ブルックナーの7番以来。

正直言うと川瀬さんの体制になって、
好評と好演を連発しているという噂を聞いてなければ、
この演奏会にはきていなかったと思う。
川瀬さんは以前まだここの常任になる前に音楽堂で演奏した、
ハイドンの90番が強烈な印象として焼き付いていて、
そのせいかその後のそれはある程度予想していたとはいえ、
やはりとても気になっていた。

ただ個人的に、
ここ数年コンサートになかなか行ける感覚ではなかったこともあり、
予想通りその後コンサートそのものから遠ざかってしまったが、
幸い昨秋あたりから少し気持ち的に持ち直してきたこともあり、
今回聴きに行った次第。
公開練習でも感じたけど、
あきらかに神奈川フィルは今が最盛期といっていいくらい状態がいい。
シュナイト時代やその前後の時期にも感じたこのオケへの不満が、
もうほとんど感じられなくなっていた。
それどころか予想もしていないくらい、
このオケの長所をそのまま活かしながら、
力強く積極性に富んだ厚みのあるオケに変貌していた。

なのでこの日のコンサートはまさに「聴くべし!」状態だった。

飯守さんの指揮をいつ聴いても思うことに、
その音楽にいくつもの平行した美しいラインがあるように感じられることがある。
それがワーグナーやブルックナーではいくつもの波紋や風紋を描きながら、
美しい音楽をそこに展開していくのですが、
これがベートーヴェンやハイドンとなると、
これが独特の様式美へと転化されていくのが面白い。

今回のプロはまさにそれで、
飯守さんのこのあたりの曲へのスタンスがとてもよくわかる、
なかなか面白い選曲となっているようです。

ベートーヴェンの8番が初演されたころ、
シューベルトは二番目の交響曲に着手しており、
それから四年の間に五曲の交響曲を書き上げた、
だがそれからのシューベルトの交響曲創作は難航を極め、
あの「未完成交響曲」を含めて、
最低でも四曲の交響曲を未完のまま放棄した形となってしまった。
このためシューベルトの最後の十年間で完成された曲は、
べーと―ウェンの第九が初演された翌年から本格的に書き進められた、
このハ長調の第8番しかない。
それを思うと、
ベートーヴェンの交響曲第8番と、
シューベルトのこのハ長調を並べて聴くことは、
聴く人それぞれにいろいろと想起させられるものがある。

また今回のこの二曲がベートーヴェンの交響曲第7番同様、
リズムというものが大きなポイントになっている事も共通しており、
これも今回の飯守さんの演奏にも強くあらわれていた。

そんないろいろと考えさせられるプロだけど、
飯守さんのそれはとにかく一貫して強い音楽がそこには描かれていた。

前半のベートーヴェン。
確かに素晴らしく勢いのある出だしだけど、
どちらかという大きなメロディの塊を奔流のように押し出したかのようで、
きっちりとした古典的な演奏という感じはしなかった。
ところが繰り返しになって再度冒頭に戻った瞬間、
今度は音楽そのものが一段高い所まで立ち上がったかのような、
じつに力強い造形美を伴った音楽として鳴り響いた。
そのときこの交響曲には、
じつはこれだけの強さと大きさが込められていたということを、
あらためて感じさせられるものがあった。
もちろんそれだけではなく、
第三楽章のトリオにおけるチェロのソロと、
ホルンを中心とした木管の美しいコラボレーションなども素晴らしく、
この曲にはこれだけ多くのものが贅沢に詰め込まれているのかと、
とにかく飯守さんのこの演奏はこの曲の魅力をいろいろと再確認させられる、
本当に素晴らしい演奏でした。

そして後半のハ長調。
飯守さんらしい個性的な部分も散見されたけど、
とにかくこれほどタフで強靭な演奏というのも稀だろう。
反復も徹底的に行ったため、
その演奏時間は60分ほどになっていたと思う。
中低音とティバニーもしっかりと連動して強いパワーを生んでいたし、
この曲独特の執拗な繰り返しも、
どんどんエネルギーに変えて突き進んでいくような、
鈍重とは無縁な推進力を兼ねていた。

ただいちばん強く感じられたのは、
この曲がシューベルトの二十代半ばに書かれた作品であるということ。
確かにシューベルト最後の完成交響曲であり、
死の二年前の作品ではあるものの、
当時のシューベルトにまだ死は遠い存在であり、
むしろこの八長調の大交響曲を出発点として、
さらに自分の世界を押し進めていこうという、
そういう作曲者の意気込みと若さがこの演奏からは感じられた。

飯守さんはかつてブラームスの第四交響曲を、
ブラームスの年齢から考えて枯れた曲というより、
壮年期の活気と覇気の方が感じられる曲として演奏していたが、
この演奏を聴いていてそれをふと思い出した。
またこの曲を作曲中に、
おそらくベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲の、
少なくとも12番と15番を、
シューベルトが耳にしたであろうことも、
何故かこの演奏を聴いていて、
この曲からなんとなく感じられるような気がした。

とにかく輝かしいくらいの若さ、
ベートーヴェンからの影響、
そしてロマン派との融合と、
とにかくこの演奏も前半のベートーヴェン同様、
これまたふんだんにいろいろと盛り込まれた贅沢な演奏だった。

またこの二つの曲の、
盛り沢山の要素を表出させた飯守さんによるタッチの強いタフな音楽を、
ここまで描きつくした神奈川フィルも素晴らしかった。

これで来季からのそれもまた実り多き名演の数々が生まれるだろう。
ほんとうにいい演奏会でした。
(会場)NHKホール
(座席)3階L9列29番
(曲目)
ショパン:ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調 作品21 (ピアノ)ユジャ・ワン
シューベルト(リスト編) :糸を紡ぐグレートヒェン(アンコール)

〜休憩〜

ブルックナー:交響曲第7番 ホ長調 (ハース版)

一か月後に68才の誕生日を迎えるマイケル・ティルソン・トーマス(MTT)。

この指揮者を聴くのは実に29年ぶり、
しかもアメリカ西海岸のオーケストラを聴くのは今回が初ということで、
かなり新鮮なものがあった。
MTTがこのオーケストラの音楽監督になって今年で21年。
近年ではまれにみる長期政権で、
その評判も評価も安定した高いものを受けており、
ある意味北米で最も安定したコンビといわれていたので、
一度聴いてみたいと思っていたが今回までなかなか聴く機会がなかった。

MTTというとマーラーというイメージが強いが、
自分はかつてロンドン響を指揮しての「ジークフリート牧歌」が、
とにかく素晴らしくいいイメージが残っていて、
ブルックナーあたりやってくれないものかといつも思っていたが、
ようやく今回その夢がかなった。

前半のショパンは、
ユジャ・ワンの小回りの利く爽やかなソロに対して、
MTTのそれはややこの曲にしては器がきもち大きい気がしたけど、
弦の弱音の美しさを軸としたとても丁寧な音楽運びに、
このコンビのすばらしさを早くもみたような気がしたものでした。

そして後半のブルックナー。

決して凄みがあるとか圧倒的とかそういうものではないけど、
良心的というか丁寧かつ一点一画たりとも曖昧にしない、
明確明晰かつ洗練されてはいるが素朴な詩情も大切にした、
すべてに行き届いたとても神経の細やかなブルックナーがそこにはあった。
しかもじつに落ち着いた音質と音色で穏やかにすすめられてはいくものの、
テンポはむしろ全体的には速めなものとなっていて、
全体で70分かかっていなかったと思う。
ただそれがためにせかせかしたというところはなく、
むしろ音楽ひとつひとつを丁寧に紡いでいく趣が強い。
それでいて神経質な感は皆無で、
音楽は何事もなくさらさらと、
しかも運動的の要素も含みながら流れていくような、
ところどころ個性的な部分はあるものの、
ほんとうに自然体の穏やかな美しさをもつブルックナーとなっていた。

第二楽章もそのため深刻に過ぎることはなく、
ひじょうに淡々とすすめられているように感じられが、
その見通しはいいものの、
どこか薄く霧がかかったような響きが、
独特のクリアな音の世界を展開させていく。
このため第二楽章終盤の美しさがひじょうに映えたものに感じられ、
かつて聴いたヨッフムとはまた違った感銘を与えてくれた。
その後第三楽章の快活な表情も素晴らしかったのですが、
第四楽章がほんとうに見事。

速めのテンポではじめ緩急を大きくつけたようにはじまったものの、
次第にその緩急の差が小さくなっていき、
いつのまにかじつに自然な高揚感をもった流れへと、
音楽が自然に運ばれていった。
またところどころでマーラーの出現がもうすぐそこまで来ているような、
そんな雰囲気が感じられるところがあった。
これはメロディを美しく歌いぬく部分と、
金管の堂々としたコラールの対比が、
マーラーのもつ対極から対極へという部分と重なっていのかもしれないが、
これはMTTのつくりあげたクリアな響きが、
そういうふうに一部聴かせているのかもしれない。

だがそれ以上に特に素晴らしく感じたのは、
そのコーダに向かっていく目の覚めるような高揚感。
こんなに自然体でありながら、
活き活きとした高揚感に満ちたブルックナーというのも珍しい。
クリアでバランスもよく、
丁寧で洗練されていながらも、
綺麗事にまるでとどまることなく、
じつに心惹き込まれる見事な演奏だった。

第二楽章でワーグナーの死を悲しんだブルックナーが、
この楽章ではその悲しみから立ち直り、
再び前へ前へと歩みだすという、
そんな気持ちがこちらに伝わってくるかのような、
ブルックナーという人間を見事に肯定しきった、
じつに明るく元気と活力に満ちたそれは音楽だった。
そのためなのか、
ブルックナーというと聴いてヘトヘトになってしまうことがよくあるが、
ここではそういうことはなく、
むしろとても音楽から元気を与えられ、
「明日もがんばるぞ」
というそんなかんじの演奏に聴こえてきた。

これを聴いて、
なるほどこのコンビが二十年以上続き、
多くの人たちから支持されている理由なのかと、
大納得なものがありました。

月並みな言葉ではありますが、
「アメリカの良心」
といったものすら
そこには感じられたほどでした。

ただ今回のMTTのブルックナー。
日本の今のブルックナー好きには、
あまり好意的には受け取られない、
もしくは食い足りないととられかねない演奏かもしれませんが、
自分にはブルックナーの新たな一面というか、
ブルックナーのもつ幅広さのようなものが感じられ、
ある意味で目を覚まさせられるものがあった。

編成は14型という小ぶりではありましたが、
まるでそんなかんじがしないほど豊かな音があのNHKホールに響いていました。
次のこのコンビの来日が今から楽しみです。

繰り返しますが本当に素晴らしいブルックナーでした。

尚、第二楽章でシンバルとトライアングルあり。

(会場)NHKホール
(座席)3階C12列1番
(曲目)
ブリテン:歌劇「ピーター・グライムズ」から 「4つの海の間奏曲」作品33a」
メンデルスゾーン:バイオリン協奏曲 ホ短調 作品64 (バイオリン)ジョシュア・ベル

〜休憩〜

ブリテン:「セレナード 作品31」(テノール)マーク・パドモア
ドビュッシー:「歌劇“ペレアスとメリザンド”組曲」(ラインスドルフ編曲)

 
2002年のプレートルの指揮以来12年ぶりにこのオーケストラを聴く。
指揮は今シーズンからこのオケの監督となったダニエル・ハーディング。

最初このプログラムをみたとき、

「本当にこれでやるのか」

と、正直我が目を疑った。
四千人のホールで、
前半こそ一般受けするかもしれないが、
後半は長いわりにかなり地味な曲目で、
はたしてこれで日本の聴衆に受けるのかと、
かなり不安な気持ちになった。

実際前売りはあまり芳しくはなかったようで、
当日のNHKホールも
満員御礼とはとてもいえないかんじだったが、
これがかえって後半はいい方向に作用したのかも。

前半のブリテンを聴いた時、
驚くほどその音が渋くくすんだ響きに感じた。
これが曲のせいなのかホールのせいなのか指揮者のせいなのか、
そのあたりはわからなかったけど、
かなりの変わりように正直驚いた。
ただこのブリテンは、
ちょっと指揮者とオケに詰めの部分で、
微妙に気持ちがズレていたように感じられたが、
これはまだ来日して間もなかったためなのかも。
続くメンデルスゾーンはソロともども、
じつに過不足ない詩情をちりばめた演奏で、
渋いながらも小気味いい演奏で、
聴いていて気持ちよかった。

ただこのとき第一楽章終了時に、
演奏が続けて第二楽章に滑り込んでいくにもかかわらず、
その弱音の美しい部分で、
いきなり遅れてやってきて外で待機していた観客を、
問答無用にホールの中に、
係りの人が誘導していたのには驚いた。

しかもその時のパリ管の音が、
また素晴らしかっただけに余計これにはまいってしまった。

自分は入口からは遠かったので、
入場時のその雑音は感じなかったけど、
近くにいた人は大迷惑以外の何物でもない。

ふつうなら待たせるのが常識。
遅れた人も確かにお客様だが、
時間通り来て音楽に集中している人もまたお客様。
ちょっとこのホールの係りの人の感覚というか常識が、
自分にはちょっと理解できない。

よくある完全に楽章間で演奏者が構えをといて、
少し休みをいれているのなら、
こういうことも当たり前のこととして理解できるのですが…。

自分が神経質にすぎるというのなら、
このホールにこなければいいだけなのだが、
あのときその近くにいた人たちはどうだったのだろう。

これが心配になって、
けっきょくこの後のことはあまり記憶にないまま前半終了。

気持ち的にもやもやしてしまったので、
外の空気を吸いに出て少し気持ちを落ち着かせる。

そして後半。

これはもう言葉もないほどの演奏だった。
音色的にも音質的にも、
理想的といっていいほどのブリテンだしドビュッシーだ。
二曲で50分前後かかっていたと思うけど、
まるで休憩を入れてひとつの曲を聴いたような、
そんな不思議なかんじすらした後半だった。

ブリテンを聴いていると、
あらためてハーブィングがイギリスの指揮者だというかんじで、
静的な詩情を込めたその音楽は、
指揮者の深い共感なしにはありえないくらい、
心動かされるものがあった。
特に終曲で、舞台裏から吹かれたホルンのソロは、
じつに心に染み入るものだった。

最後のドビュッシーも、
「海」を想起させる幻想的雰囲気のものだけど、
この凹凸の少ない長大な幻想曲ともいえる組曲を、
指揮者もオーケストラも、
まったく飽きさせることなく見事に聴かせてくれた。

特にパリ管のそれは絶品で、
パリ管のドビュッシーというと色彩的にすぎるという理由で、
この演奏するラヴェルほどの好評を博してはいないが、
今日はそのくすんだ響きもあいまって、
そういう評価を完全に一掃するほどの、
理想的といっていいくらいのドビュッシーが奏でられた。

自分はかつてこの曲を聴いた時、
掴みどころのない曲ということで、
今までこの曲と距離をとっていたが、
この日の演奏はその距離を一気に取っ払ってしまうほど、
とにかく見事な演奏だった。

しかしハーディングの指揮。
この静的で幻想的な曲を、
その美しさを壊すことなく、
その音楽の底に「熱い火」をともしながら、
凄いまでの静かな情熱をこの曲に注ぎ込んでいた。
ほんとうに熱い指揮者です。

この演奏が収録されたのはじつ幸運なことだが、
後半のこの二曲が、
この日のみ演奏だったということはあまりにも残念。
ぜひもう一度実演で聴いてみたい演奏でした。

始動したばかりのハーディングとパリ管弦楽団。
今後の日本ツアーも素晴らしいことになるでしょうし、
間違いなくこれから大注目のコンビとなりそうです。

それにしてもこういうプログラムで勝負できるこのコンビがほんとうに羨ましい。
半世紀前のパリ音楽院管弦楽団の演奏に絶賛を惜しまなかった人たちの、
その気持ちがちょっとわかった気もした演奏会でした。
(会場)MUSICASA(ムジカーザ)
(曲目)
ドビュッシー : 亜麻色の髪の乙女
ラヴェル : ツィガーヌ
プロコフィエフ :バレエ 「ロメオとジュリエット」からの10の小品、より二曲。
ショパン : ワルツ 第5番 Op.42

〜休憩〜

ショスタコーヴィチ : ヴァイオリン・ソナタ


戸田弥生(Vn)
野原みどり(Pf)


コンサートは昨年11月の浜松でのチェコフィル以来。


まず面白かったのはこの二人の音楽。

戸田さんは熱く聴き手まで燃えつくそうとするのに対し、
野原さんは熱いがその炎は冷たく感触は正反対といっていい。

この二人がひとつの目標に向かってひたすらスパークする。

それ丁々発止といっていいのかもしれないし、
隙あらば自分がという、
まさに「せめぎあい」という言葉がピッタリの演奏だった。

前半の「ツィガーヌ」などまさにそれ。
戸田さんが前半ソロで激しいまでの情念全開で音楽をたたきつける。

もうはっきりいってこれで終わってもおかしくないくらいの、
白熱的なソロをとりまくった。
こうなってしまうと野原さんの第一音が大注目だったが、
野原さんは決然と、
それこそ腹をくくったかのような強い音で音楽をはじめた。

まさにこれぞせめぎあいだ。

これは戸田さんのリサイタルではない。
戸田さんと野原さんのデュオによるリサイタルだ。

なのでソロと伴奏という単純な図式のリサイタルではない。
だからこれは当然の結果といえるだろう。

それは冒頭のドビュッシーから明白だったし、
ピアノの蓋が大きく開けられていたことからも、
その意図がみてとれたものでした。


じつは自分は左からヴァイオリン
右からピアノが聴こえるという面白い座席にいた。

このため二人が前後になってというのではなく、
左右に対峙したような感じで聴くことになったため、
よりその対象が明確に聴き取ることができた。

それはまるでひとつの共通したお題による、
二つのリサイタルを同時に聴いているかのようで、
過去あまり例のないこれは経験だった。


そんなデュオの後、
野原さんがプロコフィエフとショパンを弾く。

この中で特にプロコフィエフは素晴らしかった。
ひじょうに力強い、
ただしそれでいて一筋縄ではいかないプロコフィエフの、
その独特のどこ冷めていながらも詩情あふれる響きには、
野原さんの音質はじつによくあっていた。

ここで15分の休憩。

前半約30分。
時間は短いがひじょうに濃密な時間だった。

後半はショスタコーヴィチ。

これが凄かった。

というより前半とこの二人の関係に変化が起きた。

前半はそれこそせめぎあいとなったこの二人だが、
ここではこの二人の間に一種の間合いが生じていた。

それは剣道における間合いに近いもので、
とにかく互いの間に、
これ以上は半歩たりとも踏み込めないという、
ひじょうに緊張感のある間合いができていた。

このためこのショスタコーヴィチは、
この間合いを境に二つのまったく異質の音楽が、
ただひとつの頂点を目指すかのように展開していった。

それは互いの音楽を横目でみながら、
ひたすら己のスタイルによって、
音楽の核へ踏み込んでいくというかんじで、
息詰まるほどのそれは緊張感にみなぎった音楽を形成していった。


これがもし前半と同じせめぎあいに徹していたら、
ショスタコーヴィチにしてはやや単調になっていたかもしれない。

二人がこの緊張感にみちた間合いをつくったことによって、
この演奏はとにかく驚くほどこの曲を多面的かつ、
ダイナミックなものに仕立て上げて行った。

正直これほどの緊張と大胆を兼ね備えたショスタコーヴィチは、
ムラヴィンスキー、ラザレフ、井上道義といった、
巨匠名匠によるそれくらいしか記憶に無い。

考えてみるとこの日の翌日5月20日は、
自分がまだショスタコーヴィチ在世時に、
彼の交響曲第5番をムラヴィンスキーの指揮で聴いた日でもある。

あのときショスタコーヴィチはリアルタイムの人間だった。
だが今年ですでに彼が無くなり41年が経った。

この間ショスタコーヴィチの演奏の多くは、
ソ連当時の旧態依然なものに引きづられたものが多かった。

だが今日のそれは、
そういうものから解放された、
旧ソ連の怨念や情念とは関係の無い、
21世紀に足場をもった純然たる音楽そのものだった。


自分がこの日の演奏に大きく感銘を受けた理由のひとつに、
そういう部分があったことも確かだろう。

とにかくこの日のコンサートはひじょうに濃密で、
深く心に刻み込まれるものだった。

因みにアンコールが一曲あったけれど、
自分はそれがまったく記憶に残っていない。

ショスタコーヴィチ終了後、
自分はここで演奏を聴くことを、
無意識のうちにストップしてしまったようです。

できればショスタコーヴィチ終了後退出したかったのですが、
ホールの関係上それが無理だったのが残念でした。

できれば今度はこのお二人で、
フランクのソナタをぜひ聴いてみたいものですがはたして。

以上です。


それにしてもちょっと眠れそうにないくらい、
気持ちが高揚させられました。

凄いです。

諸般の事情でこちらに書き込むのが大幅に遅れました。申し訳ありません。

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