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日本周遊紀行(93)八戸 「戸(へ)とは・・?」
「八戸」周辺には、「戸」という行政地域が多い。 その戸(へ)とは・・? 奥入瀬川の海運橋を渡ると「八戸市」である。 地図を見るまでも無く、八戸市周辺は八戸をはじめ「戸」の字が付く地域が多いのに気が付く。 ここで『戸』について・・、 平安末期の12世紀、この奥州では栄華を誇った藤原家は源頼朝によって滅ぼされている。 頼朝は、この戦に功績のあった武将に恩賞を与えたが、この時、御家人であった甲斐の国(山梨県)出身の南部三郎光行に、糠部(ぬかのぶ)五郡を預けている。 糠部郡は現在は存在しないが当時は日本最大の郡域で、現在の岩手県北部、十和田、野辺地から下北半島全域と太平洋岸を指してたという。 この地方は藤原時代から大いに馬を育成していたことは既に知られていた。 所謂「南部駒」(後から付けた名前)の特産地であった。 頼朝はこれに目を付け、貢馬(くめ)といって年貢として納めるようになったという。 当時、馬は軍用として極めて貴重であったのはいうまでもない。 南部光行は、甲斐駒でも知られる馬産地の甲斐(現在の山梨県)出身で、かって知ったる牧場経営には大いに手腕を発揮した。 この馬の管理,貢馬のために設けた行政組織が「戸」の起こりといわれる。 「戸」は広大な地域を官営牧場とし、九つの区画として運営していた。 その名残りとして現在、岩手県は一戸町、二戸市,九戸村、青森県は三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、そしてここ八戸市がある。 だが、四戸がありませんね・・、 四戸の地名が消えた理由は、四戸氏の嫡流及び一族が、三戸の南部家よって滅亡せられたのではないか、という説が有力だといわれる・・?。 尚、「四戸」の所領は、現在の馬渕川沿いの「剣吉」から「櫛引」に懸けての地域だったといわれる。 古文書によると今の「櫛引八幡宮」は、かっては「四戸八幡宮」と書かれてあったとも云われる。 八戸市八幡に鎮座する「櫛引八幡宮」は、南部氏代々が崇拝した南部藩の総鎮守で、南部一の宮とも呼ばれる。 八幡宮は、奥州藤原氏討伐の戦功により糠部郡を賜った南部光行が、甲斐国の八幡大明神を建久3年(1192年:鎌倉幕府創立))に六戸・瀧ノ沢村に仮宮として移したのが始まりで、後に櫛引村に神殿を構え櫛引八幡宮と称したと伝えられている。 序ながら、八戸市とその周辺には「えんぶり」という行事がある。 元々は、旧正月に行われていた 田楽・「田植え踊り」の一種で、「八戸えんぶり」ともいわれ、2月17日から20日まで行われる。 「エブリ」(柄振・穀物の実などを掻き寄せ、また水田の土をならすのに用いる)という農機具をを持って踊ったのが始まりとされ、「えんぶり」は、この「エブリ」が訛ったものといわれる。 古くから農作業に活躍した馬の頭をかたどったとされる大きい烏帽子を被った3〜5人の太夫が舞い踊る。 舞は二種有って古式にのっとった、ゆったりとした「ながえんぶり」と、新しい形で動きの活発な「どうさいえんぶり」があるという。 えんぶり組は、太夫とその他の舞手、太鼓・笛・手平鉦の囃子方、唄い手など総勢20〜30人から成り、少年少女の舞手(稚児)はたっぷり厚化粧して実に可愛らしいという。 起源、伝説は様々な説があるようだが、南部氏の開祖・南部光行公が奥州下向した頃に始まったというのが通説で、鎌倉時代の始めといわれる。 八戸藩主・南部光行は、頼朝から奥州糠部郡を拝領し、甲州(今の山梨県)から当国へ下ってきたことは既に述べた。 光行が赴任した奥州で迎える初めての正月に、光行は自分の家来達に武装させ、有力者たちの家を訪問させて酒を酌み交わしたが、酒の勢い余って家来達は抜刀乱舞したため、家人たちは恐れ慄いた。 このとき、その場に居合わせた農民・藤九郎という機転の利く男が、賑やかに田植歌を歌い、農具を手に持って踊ったところ家来達は刀を納めてその様子を見物し、丸く治まったという。 この藤九郎の機転の利いた様態が、後に上北地方で行われる「八戸えんぶり」に継承されたといわれる。 「えんぶり」の縁日の起りもユニークで・・、 「吾妻鏡」(鎌倉後期成立の史書で、全52巻という長大な書。鎌倉幕府の事跡を日記体風に編述すたもので、源頼政の挙兵から凡そ87年間記載された重要資料)によれば、初代光行が糠部に下向した最初の正月、大晦日を前にして正月の準備が全く揃わない事態となり、困った家臣が光行に相談に言ったところ光行曰く「ならば南部の正月は12日だ」と鶴の一声で正月を延期したという。 以後、南部家の正月は12日となり、正月の伝統行事とされた「八戸えんぶり」は、以降、延々と引き継がれ、継承されたともいわれる。 尚、旧暦正月の1月1日は、通常雨水(24節季の一つ・啓蟄と立春の間で2月19日ごろ)の直前の新月の日であり、現在の1月22日ごろから2月19日ごろまでで、毎年移動する。 このエピソードは当時の南部氏が、後の南部氏と違い、如何に弱小で困窮していたかを知る上でも貴重であるともいわれる。 後の南部氏といえば、藩政当時は今の盛岡であり盛岡藩が主藩、主城であり、現在の岩手県中北部から青森県東部にかけての地域を治めた藩で、「南部藩」とも呼ばれるのが通称である。石高は表高10万石であるが、実石高は20万石といわれた。 次回は、南部氏の「八戸地方」、逆も可、八戸の「南部地方・・?」、
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