|
.
日本周遊紀行(61)小松島 「源義経」 ,
源義経、「屋島の戦い」の奇策、 徳島の隣はすぐに小松島である。 小松島は戦国期以後、蜂須賀候が入国して以来、阿波の商業、金融、港湾流通の中心地として栄えたところで、現在でも和歌山や大阪方面とは流通が盛んあところである。 この港は又、一の谷の合戦後、屋島の合戦で義経一行が上陸した地点として歴史上有名である。今でも市内各地に義経ゆかりの場所が点在しているし、数々の伝説が残る地でもあるという。 国道55が牟岐線と交差するあたり「阿波赤石」駅がある。 このあたりの港を「勢合」といって義経手勢150騎が、ここの港に漂着し勢揃いしたことから、この名が付けられたという。 ここから、R55に概ね沿って恩山寺の入り口から勝浦川より徳島方面を、義経ドリームロード・義経街道と言って、弦張坂、弦巻坂、旗山、くらかけの岩、天馬岩、弁慶の岩屋などと義経にまつわる伝説の場所が数多く残されている。 平氏は、1184年の一ノ谷の戦いの敗戦後、讃岐国・屋島(現、高松市屋島)を本拠とし内裏(安徳天皇の住まうところ)を置いている。 義経は「一ノ谷」の後、摂津国の港・渡辺津(大阪)に軍を集めていた。 平氏軍を追討するにあたり渡辺津を出航しようとするが、義経は、戦奉行の梶原景時と激しく論争をしている。(この時の論争を景時の讒言として鎌倉・頼朝へ伝わり、義経追放の一因にもなっているという) 暴風雨のために景時は出航を見合わせようとするが、義経は景時を振り切って、僅か5艘150騎で風雨をついて出航してしまう。 義経の兵団は、通常3日の航路を6時間ほどで阿波国・勝浦(現・田野町勢合)に到着した。 義経は在地武士団の新居見城主・近藤六親家(こんどう ろくちかいえ)を味方に引き入れつつ、案内役として屋島へ向けて徹夜で進撃している。 徳島を抜けて、現在の県道1号線を北上、大阪峠を越えて、播磨灘の海岸沿い(R11沿い)から、僅か1日でに屋島の対岸に至った。 干潮時には騎馬で渡れる(当時は海を隔てた島であったが、現在は陸続きである)ことを知った義経は、強襲を決意。 少兵であることを悟られないために、義経は周辺の民家に火をかけ一気に屋島の内裏へと攻め込んだ。 海上からの攻撃のみを予想していた平氏軍は狼狽して、内裏を捨てて海上へ逃げ出したのである。 この源平の戦いは「一の谷」以来、再び義経の機略によるもので、「屋島の戦い」と称している。 屋島の陥落により、平氏は四国における拠点を失った。 何とか九州に渡ろうとするが、既に源範頼の大軍によって押さえられており、平氏は彦島に孤立してしまう。 義経は水軍を編成して、最後の決戦である「壇ノ浦の戦い」に臨むことになる。 第18番霊場・母養山恩山寺 十八番霊場・「恩山寺」 恩山寺へ向かう。 恩山寺は小松島市の郊外、「義経ドリームロード」より少々入った緑濃き、小高い山の中腹に建っている。 義経が屋島へ向かう折、戦勝祈願したかどうかは定かでないが、山門 をくぐって石段を上った境内にのすぐ右に地蔵堂がある。 小さな地蔵像が数多く並 んでいて、左に大師堂、庫裏があり、内に納経所がある。 さらに正面の石段を40段程上 ると、どっしりとした本堂が建っていた。 聖武天皇の勅願によって行基菩薩が開基した奈良期の寺院で、当初は女人禁制の寺であった。弘法大師がこのお寺に止まっていたとき、母堂の玉依御前が大師を訪ねたが、女性の身なれば入山することができない。 そこで大師はひと七日(一週間)滝に打たれ修行をし、女人解禁の秘法を修めたといわれる。 それでやっと大師は母君を迎え入れることができ、この寺で孝行を尽くしたという。 この時大師が修行をしたのが、赤い欄干のかかっている橋の下であり、そのことを記念して、びらん樹が植えられている。 また、大師の母君はここで髪の毛を剃って出家された。 その髪の毛は、剃髪所に納められている。そのことから、母養山恩山寺と寺号を改めた。 駐車場から竹林の茂る参道を少しのぼってたどりつく境内には、 樹齢約300年の大きなイチョウの木や、樹齢約350年という立派なソテツの木がある。 長い階段を上ったところにある本堂の左側には細い階段があり、 約300mほど歩けば恩山寺自然公園の展望台に出ることができる。 ここからは小松島港や市街地、紀伊水道を一望できる。 次回は、日和佐
.
|
||||||||||||
徳島県
[ リスト ]



