『日本周遊紀行』

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日本周遊紀行(229) 糸魚川 「天津神と出雲神」 .  



http://blog-imgs-30-origin.fc2.com/o/r/i/orimasa2005/200907301000487e1.jpg
写真:天津神社の「けんか祭り」



天津神社と奴奈川神社のことであるが、 

奴奈川姫に言わせれば、憎き相手の大国主であるが、所詮は夫婦の契りを交わし、愛児お一子をもうけているのである。 
その為もあって奴奈川神社では初め主祭神の奴奈川姫だけであったが、後に夫君の大国主を相神として祭っているのである。 
つまり、奴奈川姫の支配する「越の国」は、この後は出雲が統治する国の領域になる。 


一般に、古事記に描かれる日本神話では、日本国土は大きく高天原系(天津神・大和系)と出雲系(国津神・地主神)に分かれていた。 
しかし、元々は天孫族と出雲族はアマテラスの弟がスサノオであるように、高天原出身の同じ一族とされているものであった。 
だが、両者を比べると、その性格はかなり違っていた。 

国譲りの伝説についても出雲の箇所でも述べたが、出雲の神々というは始祖のスサノオと国土開発の英雄・大国主を主人公にしているが、最後には天孫族に屈伏し国の支配権を譲るのである。 

このように出雲の神々はどちらかというと天孫族の敵役といった印象であり、謂わば大国主が造りあげた国土を天孫族が武力で奪っているわけである。

「天津神社」は天孫族のニニギを祀り、その横の「奴奈川神社」は出雲族の首領・奴奈川と大国主を祀っている。 
お互いの神社は仇敵同士のはずであるが・・?、実際は仲良く並社して祀ってある。 
尚、天津神社の「けんか祭り」は二つの神輿が衝突、相争って競う神事で知られるが、この祭りの本来の謂れは不明とある。 
或いは、両社の如く天孫族(大和族)と出雲族の争いを表現しているのではないか、と想像するのは根拠はともかく面白い・・!。


古事記における「出雲の国譲」りは、高天原の神々が大国主に葦原中津国(日本)の支配権を譲るように迫り、遂に承諾させるというもので、武甕槌神(タケミカズチ)と天鳥船神(アマノトリフネ)が剣を突き立てて国譲りを迫るというものである。 
だが大国主の意を息子の健御名方は反対する。 
そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ息子の方が敗れてしまう。(この力比べは大相撲の起源ともされる) そのために出雲の国の国譲りが実行されるのであるが、敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされている。 
 

姫川の上流地域の信越国境の小谷村(おたりむら)において、6年(古式で云うと7年)ごとの諏訪大社の御柱祭に併せて、「薙鎌(なぎかま)の神事」(諏訪社前の杉の大木に木づちで薙鎌を打ちつける珍しい祭事。 

薙鎌とは鎌に長い柄の付いた昔の武器、諏訪大社の御神体ともいう)という奇妙な祀りが行われる。この神事の謂れや意義は定かでないが、諏訪の祭神である建御名方命が高天原の神との戦いに破れ、追われて諏訪の地に逃げこんだ際、その時に建御名方命は「諏訪の地からは一歩も出ないので許してください」と懇願したとされる。 
この薙鎌は「ここからは出ない」という標し(しるし)ともいわれるが・・?。

諏訪の大神は「この地から出ない」と約束したため、八百万の神々が出雲に集まるという「神無月」でさえ、この神様だけは諏訪に留まっていて、従って諏訪地方には「神無月」というのは無いのである。 


『 ぬな河の底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも あたらしき君が老ゆらく 惜しも 』 万葉集十三巻より


この中の「ぬな河」とは「姫川」のことで、そして「底なる玉」とは「翡翠・ヒスイ」を指しているといわれている。  
古来より翡翠を身につけていると魔除け、厄除けになり、幸運を招くの石として珍重され最高の装飾・装身具として愛用されてきた。 
遠くは縄文期より姫川界隈の翡翠は利用されていたことが知られている。


姫川下流の丘陵地にある縄文時代中期の長者ヶ原遺跡からは、ヒスイの大珠(おおだま)や勾玉(まがたま)、加工道具、工房跡などが昭和20年代から続々と出土されているという。 
即ち、縄文期の紀元前4000年頃の世界最古のヒスイ文化が実証され、古代人に装飾品として愛用されたヒスイは、この糸魚川地方から北海道より九州まで全国に行き渡っていたことも明らかになっている。 

更に、糸魚川から全国へ、海から遠く隔たった内陸部や大平洋岸までヒスイが運ばれているという。 
陸奥の国(青森)の「三内丸山遺跡」は、縄文期の4000〜5000年前の遺跡と言われるが、ここでも多量の遺跡の中に、当地の翡翠は相当数発見されているという。

その後の神話と歴史が混在する弥生時代後期から古墳時代には、古志(越)の国の「奴奈川姫」という女王が翡翠の勾玉を身につけ霊力を発揮して統治していた。 
古代人は、勾玉というのは神霊の依り代とも考えられていたもので、重要な神宝として神祭の儀式には必ず用いられた。 このような重要な祭器であったから、特に霊力の強い勾玉は「三種の神器」の一つとなったといわれる。

この神器は、神話では国生みの神・伊邪那岐(イザナギ)が、天照大神に高天原の統治権の象徴として三種の神器を与えたものとされ、邇邇芸命(ニニギ)が天孫降臨の際、これをお護り・御守りとして持参し地上に降り立ったといわれる。 
後に神武天皇まで継承され、天皇家の三種の神器の一つとなった。
 

三種の神器とは王の権威を表すもので、神鏡=八咫鏡(やたのかがみ)、神剣=草薙剣(くさなぎのつるぎ)、それに、神璽(しんじ)=八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)とされる。 

鏡と剣と勾玉は、古来日本民族が愛し崇敬してきた対象であったが、特に皇宮に永く継承されている三種の神器は、日本全体の祖神ともいうべき「天照大神」の時代に端を発し、日本の歴史において特別重要な意味をもっている。 そして元来それは君民一体の日本民族の精神であり、心の拠り所とされるものでもある。

神のしるしである神璽と呼ばれる「八坂瓊勾玉」は、翡翠などの石を磨いてつくった勾玉(,カンマのような形の玉)をたくさん紐でつないで首飾り状にしたもので、製作者は玉祖命(タマノオヤノミコト)と呼ばれる職人集団の祖神とされる。 
玉祖命は岩戸隠れの際に八尺瓊勾玉を作り、その際、天孫降臨の時ニニギに附き従って天降るよう命じられ、五伴緒(いつとものお:ニニギの降臨に従った五神)の一神として随伴したという。 

家庭の神棚の向かって右側に飾る眞榊は、この天の岩屋の前に神々がお立てになった、鏡と勾玉をかけた神木を模したものといわれる。


次回、「姫川




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日本周遊紀行(229) 糸魚川 「奴奈川姫と翡翠」 .




親不知ピアパークを横に見ながら、青海から姫川を渡り「糸魚川」に着いた。 
思えば昨年秋、日本周遊の旅へ出発した折、先ず、東日本を巡る旅程でここ糸魚川より日本海を北上して行ったものである。 
そして遂に今日この日、西日本周遊を終えて同じ地に立ち、日本一周を完遂したのである。 

先ずは、自分自身に「オメデトウ」といってやりたい。
ここからは内陸・松本へ通じる、所謂、往時の「塩の道」と言われた千国街道(糸魚川から言うと松本街道、松本から言うと糸魚川街道)のR148を行くことになる。 
姫川の流れが「お帰りなさい・・」と言ってくれている様である。 

大儀・・!!、大儀・・!!。


前回、東日本周遊の際は、この姫川の糸魚川を経て日本海沿いを北上していったのであるが、その時、姫川や翡翠、糸魚川−静岡構造線(フオッサマグナ)のことは若干であるが述べた。ここでは更に、糸魚川や姫川、その周辺について伝承的な意味合いで検証してみたいと思う。

尚、2005年(平成17年)3月19日:旧糸魚川市、能生町、青海町が合併して現在の糸魚川市となっている。
糸魚川の南駅前に「ヒスイ王国館」という仰々しい名前の御土産屋がある。 
駅前から海岸に向って進むと大町の商店街にこざっぱりした公園がある。 
ここは以前の旧糸魚川市役所の跡地でもあり、この一角に「奴奈川姫の像」が建つ。 
その像は、左手にヒスイを持ち、下につかまっている子供は「建御名尊」(タケミナカタ)だそうである。 
又、駅南側の現市役所の西隣に「天津神社」、「奴奈川神社」が同一敷地内に並んで建ち、殆ど同じような造りの建物で、いずれも市街地の中にコンモリとした深い緑に囲まれて鎮座している。

奴奈川神社・本殿内部には平安期・藤原時代風の木造「奴奈川姫像」が安置してあり、又、天津神社の祭神は、中央に天津彦々火瓊々杵尊 (ニニギ)、左が天児屋根命 (アメノコヤネ)、右が太玉命 フトダマノミコト)である。 

ニニギは御存じ九州・高千穂に降臨した天孫降臨の祖であり、又、天児屋命も日本神話に登場する神で岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出したとされる。 そして天孫降臨の際ニニギに随伴し、中臣氏(藤原氏、神事・祭祀をつかさどった中央豪族)などの祖となったとされる。 
所謂、この三神は天孫族(大和朝廷系)の神々である。
天津神社は糸魚川一の宮で、近年は 「けんか祭」 として知られている。 
近郷近在では昔から 「十日の祭り」 と呼ばれ、祭日は毎年4月10日で、この日待って春はかけ足でやってくるといわれる。 
一方の奴奈川神社の祭神は、奴奈川姫命で後年に八千矛命(ヤチホコノミコ)を合祀したという。 
両神は夫婦神であり、八千矛命は出雲の大国主の別称でもある。
  

昔、高志、古志の国(越の国)の豪族で、その姫の名を奴奈川姫(ヌナカワヒメ)と称し、現在の新潟県西頸城郡を支配していた古代女王であったともされる(古事記)。 
糸魚川や青海地方の特産品である祭祀具・翡翠を支配する巫女であったとも言われる。 
奴奈川姫という名は、「奴奈川」つまり糸魚川市を流れる「姫川」のことで、当地方の女王を意味しており、又は、個人名ではなくこの地方の代々の女王一般を指す場合もあるともいう。

この頃、出雲の国を中心に勢力を各地に伸ばしていた大国主の命は、能登半島に上陸し少名彦命と力を合わせ、地方を平定開拓するともに、越(高志、古志)の国の貴石・翡翠の覇権と美姫と噂された奴奈河姫を求めて越の国に渡ることになる。 

大国主は一旦、能登の国に漂着し、邑知平野(おうちへいや)を開拓(七尾市・気多本宮、羽咋市・気多大社)し、伏木港より越の国の居多ヶ浜(上越市)に上陸、身能輪山周辺に居を構えたとされる。(居多ヶ浜や身能輪山は現在の上越市・直江津の西海岸とその近辺で、往時は越後国府があり、又、すぐ南に上杉謙信の「春日山」も在る) そして越後の開拓や農耕技術、砂鉄の精錬技術などを伝えたという。

美姫・奴奈河姫に想いを寄せていた地元の根知彦は、大国主の出現にひどく怒り居所の身能輪山に乱入したが結局、大国主が勝利し、姫の元に通いながら結婚することになつた。 
その後、奴奈川姫と大国主命の間に男子が生まれる。 
この息子が諏訪大社の祭神・建御名方命である。


一般には、奴奈川姫と大国主神の物語は神代のロマンなどといわれているが、古事記における二人の問答を見る限りでは二人の出会いはかなり非情なものであったともいわれる。 
大国主神は侵略と脅しで姫を追い詰め、一方の奴奈川姫はひたすら命乞いをしていたともされている。 
結局、奴奈川姫は大国主の子である建御名方命を産むのであるが、奴奈川神社(大正10年再建)の社伝によると、その後、姫は大国主の手から逃れ、悲運を辿ることになるという。 
その息子の建御名方命(タケミナカタ)は地元の女神である八坂刀女姫と結ばれ、建御名方命は諏訪上社に、八坂刀女姫は諏訪下社に祀られている。 
真冬に諏訪湖の氷が盛り上がって割れる「御神渡り」は建御名方命が八坂刀女姫のもとに通ってできるものだといわれている。


暫くして、大国主命は本国の出雲に帰ることになるが、姫に一緒に出雲へ来るように説得する。 しかし、姫は出雲へ行くことを嫌った。 
それは出雲には大国主の別な妃もいたし、それに大切な翡翠を守るという使命があったともいう。 
それでも大国主は強引に連れて帰ろうとするが、姫は途中で逃げ出し追手に追われることになる。 
そこで姫は姫川の奥深く逃げ込んだが、追っ手が厳しくなり無念の自殺をしたという。 
又一方では、途中で諏訪から息子が迎えに来て、姫川山中で余生を送ったともいわれる。 
姫川沿いには、姫にまつわる伝承や史跡が多数残るという。


次回は、「天津神と出雲神」




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 日本周遊紀行(228) 親不知 「親不知・子不知」  .





市振から天険トンネルを抜けると国道沿いにひっそりとした、その名も「天険」というドライブインがあった。 
営業しているのか、いないのか全く明らかでない休憩所であるが、一角に「親子が肩に荷物を背負って旅路を行く像」が立っている。 
そう、ここは天下の険「親不知子不知」の中枢の地である。

無断で車を置かせてもらい、海側の細い道を辿ると旧道と思しき草生した道へ出た。 
一組のご夫婦らしい人がせっせと縁柵の補修をしているようで、ノンビリしたもので訪れた客らしい者は小生のみであった。 

珍しそうに、取り留めない話の後、
「昔は、ここは絶壁に草ぐらいしか生えておらんで、そりゃ下見ると断崖絶壁がモロで、恐ろしげな処じゃッた・・、だが今は草木が生い茂って見通しも悪く、迫力がまるで無くなったワサ・・」 
「いっそのこと木々を切り払ったら、もっと、らしゅうになるけんに」
という。 

確かに言われるとおり、樹木が生い茂って見通しが悪く、木々の間から海面が見えてる程度であるが、しかし、足下急落している様子は十分に感じられる。 

この道は国道8号線の旧道で明治初年(16年)に開通している。
現在では町道に格下げとなっているが親不知の最大のポイントに成っていて、天険・親不知観光の拠点にもなっている。 
山側を振り返えると切り裂いたような絶壁がそそり立っている。その岩肌に『如砥如矢』と彫ってあった。

その下に解説版が有って・・、
『 ここは、親不知の最難関“天険”の真上にあたる。気をつけて足下100mを覗いてみよう、波寄せる渚が“昔の北陸道”であり、旅人は命がけで通行していた。  明治16年、絶壁を削って、今立っているこの道ができた。その喜びを一枚岩に刻んで表したのが、「如砥如矢」である。砥石のように滑らかで、矢のように早く通れるという意味で、この道の開削に尽力した“青海”の人、富岳磯平の書といわれる・・糸魚川 』 と記してある。
ここは親不知でも最も厳しい所で、天険の断崖と言われる地であった。

この地を明治27年、33歳のW・ウェストン(イギリス人宣教師・探検家で、『日本アルプスの登山と探検』を著した人物)が北アルプスの登攀に臨む前に、ここ親不知を訪れ手記を残している。
『 青海(十二時)で、申し出により車夫を替えた。 親不知へ進み、午後二時に到着。すばらしい絶壁の風景とみごとな海。 注意。かめ岩、猫岩、駒返の崖。子不知(八町)トンネルから親不知、私は歩いて通過、七、八町。 二時に着いた。たいへんすばらしい。三百フィートもある花崗岩の絶壁。低木の茂る岩山のはげたところに碑文がある。この道を開鑿した人が刻んだ「如砥如矢」を通過。「詩経」(中国の古典、一流の詩人)からの引用だという。 
彼が完成させたばかりの道が「矢のように真直で、砥石のように滑らか」との意味である 』
(日本アルプス登攀日記,W・ウェストン)

これより後にウォルター・ウェストンは、「白馬岳」を登り北アルプスを踏破している。
W・ウェストンの日本での知名度(特に山岳関係、山愛好者)はその本業より、日本の自然や山岳を紹介した人物として知られ、又、日本における山岳会(日本山岳会)の創設を促し、近代登山はウェストンから始まったとも云われる。


天下の険、「親不知・子不知」というのは、一般に親不知から青海の間を「子不知の難所」といい、親不知から市振の間を「親不知の難所」と呼んでいるようである。 
北アルプスの白馬岳の北端がガクッと日本海に崩れ落ちて、古来より北陸道の最大の難所として知られている。 両側に断崖と荒波が迫り、旅人が危険を冒して通過したといわれ、幾多の遭難悲話も伝えられている。 
同時に日本海に迫る懸崖、絶壁、岩礁、など大断崖を成す雄大な自然景観は比類がないともいわれる。 
又、糸魚川静岡構造線の日本海側の端に当たり、この親不知を境に北陸地方は二分され、東と西で地質構造や風土・文化が大きく異なるともいわれている。

親不知の道は明治16年に、高所に崖を切り裂いて新道(国道8号線の旧道の前進)を造成したが、それ以前は波打ち際に細々とした道があったに過ぎない。 芭蕉が通った頃は無論、波打ち際の道であったが、一行が難所の「親不知越え」にかかった頃は、季節はまだ夏、海も穏やかで何のトラブルもなかったようだ。

それでも「奥の細道」には、
『今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、』 と記している。


「親不知」の名称の由来は幾つの説があるが、一説では、断崖と波が険しいため、「親は子を、子は親を省みる事ができない程に険しい道」である事から、このような名称が付されている。 
又、伝承もあり、壇ノ浦の戦い後に助命された平頼盛は、越後国で落人として暮らしていた。
この事を聞きつけた奥方は、京都から遥々(はるばる)越後国を目指して、この難所に差し掛かった。 ところが、難所を越える際に連れていた子供が波にさらわれてしまい、その時、次のような悲しみの歌を詠んだとされる。

『 親知らず 子はこの浦の 波枕 
           越路の磯の 泡と消え行く
 』

以後、その子供がさらわれた浦を「親不知」と呼ぶようになったともいわれる。

国道8号線は一部トンネルも有るが、岸壁を削り取って何とかオープンで通っている。 だが、鉄道の北陸本線は7〜8割はトンネルである。 そして、近年開通した北陸自動車道(高速)は、殆どがトンネルと海上の高架橋を通っている。 

この海上を通る高速道は、天下の険と相俟って一つの美的景観の構図となっていて、観光用パンフレットでお馴染みでもある。 近くには親不知にインターチェンジや道の駅・「親不知ピアパーク」も設置され、観光にも力を入れているようである。


次回は、「糸魚川







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 日本周遊紀行(227) 越中境 「市振の関」  .





国道8号線を東進するに従って、屏風のような山塊が迫ってくる。 
後立山連峰・白馬岳の支脈が北方へ延びて日本海に落ちているのである。 そのため各交通路である国道、高速道、北陸本線等は海側の縁へ追いやられ、狭い区域を接近しながら通っている。


海の端に「越中境」という地域があり、往時は加賀藩最大の関所があった処である。 
越後に通じる親不知の難所を控え、交通の要所を押さえるように国境に設置されたもので、以前、戦国期の抗争には上杉や椎名、佐々等の名だたる武将たちが国境の攻防に凌ぎを削る合戦の拠点ともなった場所である。 
やがて江戸時代は前田・加賀藩の統治下になり、親不知を控えた越中の東縁(ひがしへり)という地理的条件から越中の境に関所が設けられ、街道筋の「泊」は交通の要衝となり、宿場町として栄えた。



この先、小さな川であるが「境川」といって越中越後の国境の川である。 
国道には新潟県との標識が目に付いた、いよいよ最終ラウンドの新潟へ入ったという実感が身にしみる。

間もなく「道の駅・市振の関」があった。 
山地が海岸まで迫るこの地域にしては、意外と思うほどのゆとりある敷地を有している。 
こちらで一服入れる。
間もなく国道に面して北陸線の「市振駅」(いちぶり)が見えた、木造平屋のやや古びた民家のような駅であったし、当然無人駅の様な佇まいである。 
国道に「市振の関」と案内板があったので寄ることにした。

旧道であろう市振集落、玉ノ木集落があり、その市振の集落の小学校の一角に「関所跡」や碑があった。 
こちらも境の関所同様、幕府が越後・高田藩主・松平氏(徳川譜代)に命じて市振の関を築いたとされる。 
これは隣国の有力な外様大名・前田氏を牽制するためでもあった。 
又、この地は北アルプスが日本海に落ち込むところ、近くには親不知の難所が控えていて海岸平野部はないに等しい。 
従って、険路である危うい波打ち際を避けて舟で通過しようとする者を、海上から監視する「遠見番所」も併設されていたという。
近くに「長円寺」という古寺があり、ここに芭蕉の句を記念する句碑が建っている。 


「市振」の地名は、芭蕉の「奥の細道」の句と共に登場する。

『 一家に 遊女もねたり 萩と月 』
(ひとつやに  ゆうじょもねたり  はぎとつき)


そして「奥の細道」の一文・・、

『・・今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。 白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。 神明の加護、かならず恙なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし・・』



芭蕉は、越後・能生町を出発、糸魚川で休憩、夕刻、市振に到着し「桔梗屋」という旅籠(はたご)に宿泊したと地元では言っている。 
宿舎には宿帳記載も無く、本文のような事実は曾良の随行記にも無いので、この遊女の一件は虚構であろうとも言われているが・・?。 
それは兎も角、本文では、若き女性が(遊女)が「お伊勢さん」へ参るには大変な道中であり、それが為に「芭蕉」を修行僧と観た遊女らは 同行を頼むのであった。 

だが、彼はあっさり、つれなく断っている。 
普通、若い女性にモノを頼まれれば断れないのが男というもんであろう・・!、芭蕉は私的な道中の他に、公的な役割を担っていた(隠密・・?)ともいわれるが・・?。 


いずれにしてもこの先、伊勢へ参るには北陸道から若狭(敦賀)へ出て、琵琶湖、米原を経ながら鈴鹿峠から津を越え、伊勢に到るのであろうが、実に500〜600kmの長道中である。 
当時、一生に一度は伊勢神宮参詣は庶民の夢であったといわれるが、芳紀女性同士の遠路の旅路で、何の願掛けか・・想像するだに難い・・・?!。



次回は「親不知




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 日本周遊紀行(226) 黒部 「黒部峡谷」   .





黒部に来た。
こちらも立山黒部アルペンルート(越中富山〜信濃大町)に負けないくらいの山岳観光のメッカである。 
特に黒部峡谷は秋の紅葉の絶好のポイントである。

富山地方鉄道が富山から、ここ黒部を経由して峡谷の玄関口「宇奈月」まで入る。 
宇奈月は、黒部川の渓谷沿いに広がる旅館や保養所が立ち並び、黒部峡谷と鉄道のトロッコ観光の拠点でもある。 

因みに、富山地方鉄道駅は「宇奈月温泉駅」であり、駅前には60度の源泉噴水が設えてある。こちらトロッコ鉄道(黒部峡谷鉄道)の駅は「宇奈月駅」という名称で、別々に二箇所あり、どちらかといえば宇奈月駅の方が大きく賑やかである。 

宇奈月は富山でも有数の温泉場であるのは周知だが、源泉はすべて黒部川上流にある黒薙温泉(くろなぎ)からの引湯であるという。 
源泉段階で96度と非常に高温で、尚且つ湯量が豊富であることから、宇奈月までは7〜8kmと離れているが60℃前後と充分温度は保たれているのである。
 


黒部峡谷を走るトロッコ鉄道は、かつてこの峡谷に幾つかのダムが建設された際、作業員や資材の運搬用に敷かれた軌道である。 
同時に、始めの頃は一般の人も、ただ同然で利用できたらしいが、ただし「命の保証はしない」と乗る際に念を押されたという。 

今は奇麗にデザインされたミニ観光列車として模様替えし、宇奈月から欅平(けやきだいら)まで旅客を乗せて運行している。 
ミニサイズの車両で、まるで遊園地の電車のようであり、車両は全指定席でリラックス車両、パノラマ車両などあるが、一番安いオープン車両は屋根は付いているが風と共に走るようであるという。 終着・欅平までは、くねくねとノンビリと1時間20分位の旅である。 

朱塗りの鉄橋「山彦橋」、「黒薙」、そして黒薙川が黒部川と合流するところ「後曳橋」がある。 

橋は黒薙川にかかる川底から高さ60mもあり、名前の由来はあまりにも深い峡谷にかかる橋のため、思わず後退りしたといういわれから後曳橋と名前が付いたそうである。 

対岸に聳えているのは「出六峰」、そして黒部川第二発電所が現れ、その脇は「ネズミ返しの岸壁」という見所がある。
又、釣鐘のような山は「鐘釣山」、「百貫谷」(ひゃっかんたに)には雪崩が幾層にも積もって万年雪となる。 

そして終点「欅平」の直前には、本流が最も狭くなった所があり、猿が飛び越えたことから「猿飛峡」と呼び、其々の景勝地を巡りながら欅平駅に着く。 
駅は一般の終着駅となっているが、関西電力黒部専用鉄道として軌道はさらに奥まで続いている。 
駅舎はPC造りで一階には出札口や売店があり、二階にはレストランなどがあり、屋上は展望台となっている。
 

既に、十年も経とうか・・?、
新緑が映える初夏の時期に夫婦で、このトロッコ電車に揺られてここまで来たのを記憶している。 
更に、ここより徒歩で1時間のところ、「祖母谷温泉」(ばばだに)へ向って、ここで露天風呂を楽しんだ。 
この地の背後は急峻な後立山連峰の山岳地で、名峰・「白馬岳」や「唐松岳」が控える。 
祖母谷への途中、奥鐘橋のたもとに、岸壁をえぐりとって作られた歩道「人喰岩」があり、名湯・「名剣温泉」などもある。



黒部峡谷は、北アルプスの立山連峰(剣岳、別山、立山)と後立山連峰(白馬岳、唐松岳、五竜岳、鹿島槍)との間に、深く刻み込まれた日本一の大峡谷である。 

黒部川峡谷は戦国期の天正11年(1583)、越中領主・佐々成政が「ザラ峠」(サラサラ峠・2348m:黒部湖の西側、獅子岳と五色ケ原の鞍部にある)越えで黒部川を横断した話しは、前に記したが、その後の江戸期には加賀藩から入山を禁じられ、長い間閉ざされていて厚いベールにつつまれ、一般の人には窺い知ることの出来ない秘境であった。

大正に入り、電源開発等で黒部の様子が次第に見えだしのであるが、冠松次郎(かんむり:明治・大正期の日本の登山家、黒部峡谷の地域研究、山岳紀行文でも知られる、「黒部の父」とも呼ばれる)が探検して「黒部渓谷」を発表している。 

欅平から黒部湖辺りまでを、「下廊下」(しものろうか=両側断崖)と表現し、S形にうねる険峡「S字峡」や「十字峡」という日本一の深い谷がある。 

十字峡とは、鹿島槍方面から下りる沢(棒小屋沢)と立山方面から下りる沢(剣沢)が、黒部川本流で十字に交わる地点のことを言う。 
また、黒部湖から黒部川源流部の「雲の平」辺りまでを「上廊下」といって道がなく、今なお人を寄せ付けない秘境である。

黒部川の源流部である雲の平は、「高天原」とともに一帯になっていて、立山連峰の南部山岳地と後立山連峰が合流する地域(三俣蓮華岳、黒部五郎岳)であり、温泉もあって文字通り北アルプスの夢の楽園とも言われる地帯である。

山岳愛好家なら憧れの地であるが、小生は残念ながら今まで登る機会がなかった・・!、今後は・・?。
 


黒部川に架かる黒部ダムに関しては、吉村昭の著「高熱隧道」に、仙人谷ダムの建設(黒部第三ダム)に挑んだ人々の苦闘を描いている。 
又、黒四ダム(くろよんだむ:黒部川第四発電所)は、戦後、高度成長期を迎え電力需給が逼迫する中、関西電力の社運をかけた一世一代の大規模プロジェクトであり、近畿(関西)地方への電力供給、強いては経済活動の命運が懸かっていた。 

1956年に起工、当時の関西電力資本金の五倍という金額であり、作業員延べ人数は1000万人を超え、工事期間中の転落やトラック・トロッコなどによる交通事故等による殉職者は171人を数えた。 
いかにダム建設工事が苦難を極めたかが伺える。 日本を代表するダムは、1963年に完成している。 
ダムの高さ(堤高)は186メートルで日本一を誇り、総貯水容量は約2億トンで北陸地方で屈指の黒部湖を形成する。 

御存じ「黒部の太陽」は1968年公開の映画で、当時世紀の難工事と言われた「黒四ダム」建設のための隧道工事(大町ルート)の苦闘を描いた映画である。 

これによって現在は、「大町ルート」や「立山アルペンルート」が完成し、一大山岳観光地として労せずして多くの人々が黒部峡谷の“大自然”を楽しめるようになった。


次回は、「越中境」





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