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日本周遊紀行(225) 魚津 「蜃気楼」 . 特色ある海底地形によって“魚色”の多い富山湾で、それを表すような代表的な地名が「魚津」であろう。 その名が示すとおり古来より魚の多種多量の産地ということで、聞き伝えで大勢の人が移ってきて次第に家数も増え、町並みができたと言われる。 魚津の名、そのものはさほど古いものではなく、小戸・小津と呼ばれていたのを、室町期頃、魚津に改称したと文献にも残るという。 魚津が、世界に誇る三大奇観として「蜃気楼」、「埋没林」、「ホタルイカ」がある。 先ず、<strong>蜃気楼</strong>について・・、 蜃気楼は、砂漠や隣国の風景が海の上に浮かんで見えるなどの現象であるが、なんと言っても「富山の蜃気楼」は有名で、テレビや新聞の報道等で知られる。 蜃気楼は光の“いたずら現象”であることは多少なりとも承知しているが、しかし、実際には、理屈としては判りにくい・・!。 我々は、常時青い空を見、時には虹を見、光の七色の輪を見ることがある、これらは可視光線というらしい。 光というのはテレビやラジオに使われている電磁波と同じ波の仲間であり、目に見えるものはその内の極一部で可視光線と呼び、赤外線や紫外線など、その殆どは目には見えないものである。 光には分散、回折、屈折、反射、散乱、更に偏光、干渉といった、いろんな性質がある。 空が青く見えるのは光が強く散乱している状態で、太陽が斜めになって光が弱く、散乱も弱い状態になると赤い夕焼けにみえる。 虹は雨上がりの空の水滴に太陽の光が当ると、光は屈折・反射を起こし七色に分かれる現象である(太陽、光に背を向ける)。 又、プリズムやガラス、小さな隙間に光を通すと分散や回折を起こして七色に見える。 さて、蜃気楼であるが、これは大気における光の「屈折現象」であり、大気の密度の違う(温度差)境界線(層)が光の進路を曲げる(屈折)要因になっているという。 特に富山湾における蜃気楼は「冬の蜃気楼」と「春の蜃気楼」の二種類があるといわれる。 冬の蜃気楼は、大陸育ちの冷たい空気が日本海、富山湾に流れ込み、比較して暖かい海水がこの冷気を暖め、海水の表面に暖層部をつくり、その境界で光が屈折するために起こる現象である。 春の蜃気楼は冬のに比べると複雑で、地元の調査によると春の暖気が東の日本海からやってきて、この時、白馬岳辺りの高地から親不知の間の山地を吹き降りてくるため、一種のフェーン現象となって更に暖気温を上げ、そこで富山湾の冷海水が上部大気に冷層部をつくり、同様に光の屈折現象を起こさせるという。 冬の蜃気楼は、対岸の景色が、ある線を境に下方に反転して見える所謂、上下対象の風景に見え、又、春の蜃気楼は、対岸の景色が上方に伸びたり反転したりして、所謂、バーコード状に間延びしたように見える風景であるという。 通称、上位蜃気楼と称して4月から5月、最高気温が18度から25度の場合が多いといわれる。 いずれにしても、富山湾に注ぐ大小の冷たい河川も大いに影響していることは確かである。 次に、埋没林とは・・、 文字どおり“埋もれた林”のことである。 林が埋もれる原因には、火山の噴火に伴う火山灰や火砕流、河川の氾濫による土砂の堆積、地すべり、海面上昇などさまざまなものがあり、埋没した年代もさまざまで、数百年前から数万年前のものまであるという。 こちら魚津の埋没林は凡そ2,000年前、片貝川の氾濫によって流れ出た土砂がスギの原生林を埋め、その後海面が上昇して現在の海面より下になったための現象と考えられている。 特に埋没林の株は、その森林が生育していた地域全体が地下に密閉されていて、木の株だけでなく種子や花粉、昆虫などが残存しているため、過去の環境を推定できる手掛かりにもなるという。 尚、ホタルイカについては、前項の「富山」で述べている。 <strong>【追記】</strong> 現在 (2009年) 、NHKの日曜大河ドラマで「天地人」が放送されている。 越後の領主・上杉景勝とその重臣である「直江兼続」の戦国期の英雄物語であるが、この物語に「魚津城」が登場した。 即ち「魚津城の戦い」である。 天正10年(1582年)、柴田勝家を総大将とする織田信長軍と上杉景勝軍との戦いで、激戦の末、魚津城は落城し織田軍の勝利となった。 落城の6月3日のこの日、上杉軍の重臣及び側近達が敗戦後、即切腹し自害して果てている。 だが、落城前日の6月2日に都では「本能寺の変」が勃発、織田信長が明智光秀により討たれる。 信長の重臣で指揮官の柴田勝家に急報が入ったのは落城の翌日6月4日であり、主君の死に驚いた織田勢は全軍撤退し、その幸運もあって上杉勢は失地を奪還して再び魚津城に入った。 この急報があと1日早ければ、上杉軍の守将らの自刃の悲劇は起きなかったとされている。 この時期、光秀と景勝(兼続も・・、)は気脈を通じていたともされる。 本能寺の変に関する文書で近年注目を集めたものに、明智光秀から上杉景勝と兼続に宛てた文書が発見され、その文書によると光秀自身の心情(信長を討つということ)を綴ったもので、上杉家は本能寺の変を事前に知っていたとも思えるのである。 「魚津城の戦い」は、本能寺の変に関わる重要なポイントでもあった。 魚津城は現在、魚津市立大町中学校になっていて跡形も無く、校庭の隅に「碑」だけが寂しげに立つのみとのこと。 次回は、「黒部」 |
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日本周遊紀行(224) 富山 「富山湾」 . 再び、国道8号線へ出て東へ向かう・・、 それにしても神通川を横に見ながらであるが、富山平野は大小の河川が多く、それらの河川には、いずれも豊富な水量が流れている。 思えば、今日が本旅行の概ねの最終日であろう(長野白馬まで)、西日本を巡る大略1ヶ月の行程であったが幸いというか殆ど好天に恵まれていて、それだけ雨の日が少なかったと言える。 山陰地方もそうであったが、特に記憶に残るのが四国地方、とりわけ瀬戸内海に面した地域の各河川は大小いずれも殆ど流水が無くカラカラ状態であった。 それに比べると、この「富山地方」はナント水の多い地域であろうか。 尤も、今頃は3千米級のアルプスの融雪時期でもあり、水が豊富なのは当たり前なのだが・・!。 先にも記したが、飛騨西部の白山山系を水源とする庄川、小矢部川によって形成される高岡、射水地区の平野・射水平野はその名も「湧き出ずる水の地」、「水の射ずる地」で射水という名称が古来より命名されていたという。 この地域を西部とすると、中央部は飛騨山系、立山山系を水源とする神通川、常願寺川下流域の富山市で、狭義の富山平野であろう。 又、東部地域の剱岳山系を水源とする早月川、片貝川流域は滑川市、魚津市であり、黒部峡谷系を水源とする黒部川流域の黒部市、入善町、これらの地域を新川平野(にいかわへいや)と呼んでいる。 更に、西部中流域はチューリップ生産で有名な砺波平野(となみへいや)の砺波市・南砺市・小矢部市などであり、これらを一纏めに総称しての「富山平野」としている。これらは何れも富山湾に面して広がる沖積平野を成している。 富山平野の河川の多くは、背後の急峻な山岳地帯に源を発し、狭い富山平野を一気に貫流し富山湾に注いでいる。 このため全国でもまれにみる急流河川となっていて、しかも水量も豊富であり、特に今頃は雪解け水なので水温は冷たく、これらの各河川が富山湾に一斉に流れ込むのである。 富山湾についても前に述べたが、湾の地形は特徴的であり、海岸沿いには浅い部分がほとんどなく、急に海底に向かって落ち込んでおり、海底地形は非常に険しい谷と尾根が多いという。 湾の大部分は水深300m以上にも及び、一番深い部分は1,000mを超える。 富山湾岸の流入河川に近い海底は、今も砂地と玉石が覆い尽くしているという。 或る潜水夫が確認したところ、やはり急斜面となって深い海底に落ち込んでいるらしい。 そこで大きな玉石を転がしたところ、そのまま深く転がり落ちていったという。 そして、驚くべきことにこれらの海底には多数多量の湧き水が確認され、これら湧き水を各種の魚が飲みに来るというのである。 海水の魚が淡水の湧き水を飲みに来る・・?、 湧き水の水質を調べたところ、アルプス中流域の河川の水と一致したという。 アルプスの中位(標高1000m前後)はブナや楢の多くの落葉樹が茂る地域で、これら広葉樹の養分である珪素や窒素、リンといった栄養素を多分に含んだ水が伏流水となって海中に湧き出し、その栄養分を魚達が戴いているのである。 富山平野の扇状地は、北アルプスの土砂が形成したもので、その成分は砂や石が多く、アルプスの急斜面を下ってきた水は各河川に表流水となって富山湾に注いでいる。 一方、それらの何割かは地下水となって富山湾海中に湧き出しているのである。 富山湾の海中に涌く水の量は、1年間に数億トンとも言われる。 湧き水の温度は13度と一定しているらしい・・!。 富山湾海底には「海底林」といわれる木の株や根っ子が形を留めて存在することは知られている。 この根株は榛の木(はんのき)や楢の木で、1万年以上も前にアルプスの造山活動により沈んだものとされる。 これらが腐食しないで現存しているのは、水温13度の冷水が腐食を防止し保存させたものだといわれる。 これらの栄養豊富な冷水は1000m深くまで沈み込み、この深海では冷水を養分にする“変な生物”も群れを成し、謎の世界を形造っているともいう。 その内の一種に「オオグチボヤ」という原索動物(ホヤの仲間、ナメクジのように脊椎が無い軟体動物)が群れを成していて、これは世界でも富山湾だけといわれる。 新湊の庄川の沖合い深くに「シロエビ」というのがいる。 富山県の魚類の一つで「富山湾の宝石」と称され、生きている間は透明で薄いピンクであるが、死ぬと白く変わるのでシロエビの名前がある。 このシロエビは、富山県内ではなじみの深いエビであるが、富山湾以外ではほとんど捕れない世界的な珍種だという。 シロエビは体は小さく体長6〜7cmで、富山湾特有の「あいがめ」といわれる海底谷の海深100〜600mに生息し、漁期は4月1日〜11月30日の間で(最盛期は6月〜7月)、特殊な底引き網で捕獲する。 エビは一般的に「大きいほど豪華だが、小さいほど味は美味しい」と言われており、シロエビはその説を裏付けるように、その姿形そのままに透明感を感じさせる独特の味わいがあるという。 新湊市では、昭和44年に庄川河口沖合2kmの「おぼれ谷」と呼ばれる海面を「シロエビ群遊海域」として文化財にも指定されている。 又、有名な「ホタルイカ」の大群が見られるのは、日本中でも、ここ滑川地域近くの富山湾に限られているという。 日中は沖合の200m〜400mという深海に棲み、夜間に海面近くの陸近くまで上がってくるのは、産卵や餌生物を追うためといわれている。 富山湾で毎年3月〜5月頃を中心にこのホタルイカの集群が見られるのは、富山湾のすり鉢のような地形と海流、河川の影響(河川の冷水が沈下すると同時に、すり鉢状の底から上に向かって流れる湧昇流:攪拌現象)で、衆群が岸近くまで押しよせるためといわれる。 体長4〜6センチのこの小さなイカは、体中に1000個もの発光器を持ち、青白い光を一斉に放つ。 滑川から魚津の沖合いは世界的にも有名な「ホタルイカ」の生息地で、その群遊海面に漂うホタルイカは特別天然記念物にも指定されている。 漁で見られる、群れをなしたホタルイカが海面に放つ光は宝石のように美しいく、ホタルのように発光するイカであることから「ホタルイカ」と名付けられ、その発光は、熱をもたない「冷光」と呼ばれ、昆虫のホタルの発光とほぼ同じ仕組みであるという。 滑川市では漁の模様を見学できる早朝海上遊覧方式による観光船を期間中運行している。又、当市では、珍しい「ホタルイカミュージアム」が竣工している。 富山湾は、これら表流水、海中の湧き水によって、水深300mより深い部分には水温1〜2度ほどの冷たい日本海固有冷水塊(海洋深層水)があり、冷たい海に住む魚類が棲んでいる。 また300mより浅い表層部では、暖流である対馬海流が湾内に入ってくるため、ブリなど南の温暖な海の魚類も同時に棲んでいる。 このため、富山湾には日本海に生息する魚類の半分以上が生息し、獲れる魚の種類が非常に多い。 その他、海底谷は貝やえびなどの生物の住処であり、加えて多くの河川が森からの栄養を海底に送り込むため、多くの魚が繁殖できる豊かな漁場になる条件がそろっており、ブリやホタルイカを捕獲する定置網漁業が古くから発達している。 富山湾は、海の中まで「アルプス」であり、1000mを越える海溝は今も造山運動で沈み込んでいるという・・!。 次回は、「魚津」 【小生の主な旅のリンク集】
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日本周遊紀行(224) 富山 「越中守・佐々成政」 . 富山駅の南、国道41号線(飛騨街道)沿いに「富山城址」がある。 南大手門より本丸南側の堀と石垣を水に映して天守閣が聳え、城内を行くと白壁の新装したであろう城郭が美景である。 ただ、天守閣・望楼が工事中なのが、やや残念であった。 本来は、五層の大天守閣であったが、現在のものは三層の模擬天守として建てられていて、天守内部は郷土博物館になっているという。 慶長5年の関ヶ原の戦功により金沢城主・前田利長(藩祖・利家嫡男)は、加賀・能登・越中の三ヶ国120万石を得た。 寛永16年、三代・前田利常は次男利次に富山10万石を与えて分家させ、廃城と化していた富山城を修復し、寛文元年に入城して富山藩が成立している。 その利次の次男が二代藩主・前田正甫である。 正甫自身、病弱だったこともあり、薬に興味を持ち、自分でも調合したり、内外の薬の製法を領内に広めさせた、そして富山の売薬の基礎を築いたとされる。 以後富山・前田氏十三代の居城として明治に至る。 園内には前田正甫の銅像が建つ。 それより以前の戦国期の天正7年(1579年)、織田信長は佐々成政(さっさなりまさ)を富山54万石封じている。 成政は、城を改修し城下町の整備を行うが、信長の急死後の後継者争いで反秀吉の立場をとり、柴田勝家滅亡後は秀吉の軍門に降る。 天正15年の豊臣秀吉の九州征伐後、肥後熊本へ転封になるが、この間、成政が富山に留まったのは僅か5年程度であった。 だが、この時期に奇想天外の戦跡、立山黒部の山岳と渓谷を徒歩で越える「さらさら越え」で、佐々成政のその名を残した。 少年期より織田信長の家臣で、柴田勝家の北陸攻略に従軍、越中まで占領が終わるとその功によりそのまま富山城主になる。 ところが本能寺の変で信長没後、山崎合戦、清洲会議、賤ヶ岳合戦、小牧長久手の戦いと時代の勢いは羽柴秀吉が実権を握り、越中富山は、越後の上杉景勝・越中加賀の前田利家・飛騨の金森長近といった秀吉方の大大名や側近等に囲まれ、身動きが出来ない状態であった。 賤ヶ岳合戦で柴田勝家が破れた後は三方を囲まれて孤立無援となり、そこで天正12年(1584年)12月、成政は秀吉と対峙していた徳川家康に出兵を促す為、自ら百余名の手勢を率いて家康の居城・浜松城に向かう。 その道程に立山・黒部渓谷越えを選んだのである。 果たして足掛け8日で極寒の渓谷を越え、信濃の大町からその後一行は家康との面会を果たすが、家康は既に秀吉と気脈を通じていたため、説得は拒否され失敗に終わるのである、無念なり・・!!成政。 そればかりか、事もあろうに彼は、再び同じ道を引返したのであった。 その後、秀吉自ら越中征伐に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲、成政は織田信雄(のぶかつ、信長の次男)の仲介により降伏した(富山の役)。 後、秀吉軍門下、九州平定で功をあげたことを契機に肥後国一国を与えられたが、治安の失政により切腹に及んでいる。享年53歳であった。 その北アルプス黒部越えの道は、既に平安期より立山信仰圏で開けていた。 越中岩峅寺を通り千寿ガ原、そこを流れる常願寺川の河岸から立山温泉、源流部の湯川谷から鷲岳北方のザラ峠(2348m)に到る。 次に黒部谷の中ノ谷から刈安峠を越えて黒部川の河岸の平小屋へ、黒部川(現、黒部湖南部)を渡り、核心部である針ノ木岳の針ノ木谷、針ノ木峠、籠川谷(日本三大雪渓の一つ・針ノ木大雪渓)を経て扇沢、大町へ到っている。 若い時分より登山経験のある小生ではあるが、このルートを見ると、厳冬期にはよほどの重装備、周到な計画と底知れない体力が必要と認識する。 当時、魔物・妖怪が棲むとまでいわれていた極寒立山の山岳地帯に踏み入った行動は、多くの人の目には、余りに無謀としか思えなかったのは当然であろう。 だが、成政一行は、信濃や遠江、尾張地方を担当していた芦峅寺衆徒らの道案内で立山信仰圏ルートを進んだのである。 地形に精通した人々が協力し、天候を判断しながら緻密な計画のもとに決行されたと思われる 。 それにしても昔に人々の底知れない力強さは、現代人から比べれば、到底、及ぶべきもないし、この行動は冬山集団登山の先駆ともいえるだろう。 佐々成政の「さらさら越え」(ザラ峠)ルートは戦国の昔から忍びの道としても使われ、江戸時代にも信濃の人々は立山参りの裏参道として密かに利用していたという。 この、山道は、明治8年に道幅約3m、道程90キロ、所々に小屋や牛小屋を建て荷牛が通れるスーパー山道・越信新道に仕上げられ、越中から塩や魚、薬などの物資を運ぶ山岳産業道路となった。 しかも我が国初の有料道路とし、その収益で道の維持を図ったとされる。 だが豪雨や冬期の崩壊破損が激しく、越信新道は開通からわずか数年の明治15年に廃道となっている。 戦国の世、一向宗徒の焼討や上杉勢らの侵略によって越中の民衆と土地は疲弊し、又、常願寺川と神通川の氾濫によって、富山の城下町周辺はそのたび毎に泥海と化し、民衆の生活は悲惨のどん底だったという。 越中に入国した成政は、このような状況に冬の休戦期間(11月〜翌年3月ごろ)を利用して、常願寺川や神通川、いたち川の治水事業に取り組んだという。 その後、上杉勢や越中の国人衆らを抑え、越中支配を遂げるのである。 成政は、「民衆の安住と国土の平安」を願い、富山城を当初「安住城」と名付けている。 自分の政治理念を城の名前にまで込め、また自然災害から民衆の生活を守ることに努めた成政の姿勢は、多くの地元民衆に慕われたという。 一方で成政は、お家の内紛により非道を行ったとして、暴虐残忍の暗主のイメージもあったが、実情は、後に越中を治めた前田氏によって作られた捏造であったことが、近年判明している。 現在、テレビ等でもお馴染みの「佐々 淳行」(さっさあつゆき)氏は、日本の危機管理の第一人者といわれる。 「連合赤軍あさま山荘事件」では、警備幕僚長として監督管理に携わり、昭和61年より初代内閣安全保障室長を務め、昭和天皇「大喪の礼」の警備長を行い、現在は文筆、講演、テレビ出演と幅広く活躍している。 彼は、佐々成政の系譜、子孫に当たるという。 次回は「富山湾」 |
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日本周遊紀行(224) 富山 「越中・富山」 . 国道8号線から神通川に架かる大橋を渡り、富山市内を目指した。 ノーベル賞の田中耕一氏も富山市出身であり、質素倹約の富山県人のことは先に記したが、県人一般に言えることは勤勉で粘りつよく、合理性を追求する気質が伝統的に生まれ、真面目で向上心も強く、じわじわと立身出世する人が多いという。 更に、金銭感覚に優れているため、今でも財界人や実業家として活躍する人が多いという。 中でも富山といえば伝統的に「越中富山の薬売り」が知られている。 拙宅にも一時置いたことがあり、会社の職場でも預託の薬を利用していたのを覚えている。 家々を回り、一軒ごとに薬箱を置いていき、半年・1年後に使用した分だけ清算するという商法である。 ひたすら歩き回り、労力、根気の要る仕事だが、固定客を押さえれば何代にもわたって続けられる手堅さがある。 その成功ぶりを嫉み、「北陸の浪速人」、「越中強盗」などと揶揄したり悪態をつかれた時もあったとか。 このように先に品物を渡しておいて後で料金を回収することを、地元では「先用後利」と称し、このシステム以外にも越中商人ならではの数々のユニークな創意や工夫がなされているという。 薬を置く家の場所や家族構成、取引内容の履歴、集金状況などはすべて「懸場帳」(かけばちょう)と呼ばれる台帳に記録され、これによって在庫や資産の管理が完璧にでき、予測も出来る、現代風に言えば「顧客データベース」である。 ノーベル賞を受賞した田中氏も、几帳面さと先進的なアイデアを兼ね備えた薬売りの血を受け継いでいるのかもしれない。 これも富山人の気風であろう・・!。 その薬売りの元祖となったのが、富山藩二代藩主・前田正甫(まえだ まさとし)である。 時は元禄3年(1690)江戸城内において、岩城三春の藩主・秋田河内守が俄かの腹痛に苦しむのを見た正甫は、常備している薬「反魂丹」を印籠から取り出し飲ませたところ、忽ち(たちまち)のうちに痛みが治まったという。 これを伝え聞いた諸国の大名が「ぜひ拙者の国にも広めてくだされ」と正甫に頼み、そこで正甫は領地から出て全国どこへでも商売ができる「他領商売勝手」を発布した。 これにより反魂丹を製薬して諸国に広め、越中売薬の富山の薬が全国何処へでも売られる基礎を作ったといわれる。 しかも、代金は使用した分だけの後払いにしたという。 このような商売は外国ではまず見られず、売り手と買い手の信用に立った商売で極めて日本的な素晴らしい商売であり、今でも富山の置き薬の伝統は生きている。 尤も、「先用後利」のアイデアは富山には事情先例が有ったらしく、立山信仰の衆徒たちが経衣やお札を一定の宿に預け、時期後に使用分だけ代金を集金したことに発しているともいう。 元より越中富山は立山信仰の他に、「真宗」の盛んな地でもあり、「薬売り」は御師と呼ばれる宗僧が布教職務を通じて、衆徒や人々に健康に付与することも仏に仕えることであると考えていた。 配付した護符(神仏が加護して種々の厄難から逃れさせるという札、護身符、護摩札、おふだ)や薬の代金は冥加金(みょうがきん)として、時を経た後に徴収していたともいう。 越中富山は、地元信仰と併せて人々の健康に貢献する為の薬の製造、販売そして集金の方法が下地として有ったのである。 富山駅前には、行李(こうり・若い人には判るかな・・?)を背負う行商・薬売りの像と、行商に土産として貰った紙風船と戯れる子供の銅像が建つ。 この像にもあるように薬売りの商人は、行く先々で子供達に手土産を持ってゆき、子供はそれを楽しみにしていたらしい。 現在、大相撲で多数活躍している「モンゴル」で、この「先用後利」の配置薬のシステムが取り入れられ、重宝がられ期待されているともいう。 次回、「越中守・佐々成政」
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日本周遊紀行(223) 高岡、新湊 「金物と射水」 . その高岡はご存知、鋳物工業の発祥の地である。 駅より1kmの地に金屋町の古風な町屋が並んでいて、高岡の歴史と文化の基点にもなった地域である。 慶長14年(1609年)、加賀藩第2代藩主・前田利長が高岡城を築いた際に、城下の産業発展のために砺波郡西部金屋に住んでいた鋳物師(いもじ)七人衆を高岡に呼び寄せ、鋳造作業場を開業させたことに始まるという。 利長は鋳物師衆に対して5000坪の領地を与え、税や労役などの諸役を免除する特権を認めるなど手厚く優遇した。 それ以後、金屋町の鋳物業は大いに繁栄し、高岡鋳物発祥の地として今日の高岡の銅器・アルミ産業の礎となっている。 現在、金屋町では銅器など芸術作品を軒先に配置したり、各所にモニュメントを配置し、観光客と住民の交流の拠点となる「鋳物資料館」も開設されている。 現在も伝統産業として、梵鐘などの銅器製造(高岡銅器)が盛んで全国的に有名であり、日本三大大仏(奈良東大寺、鎌倉高徳院)の一つ、高岡大仏にも生かされている。 又、豊富な水を利用した水力発電により、電力が安いことからアルミ製品の生産が発展しアルミ建材の出荷額が多く、三協アルミ、立山アルミの本社もある。 国道160号線は高岡市郊外で国道8号線になり、そこから富山方面に向う。 高架下を派手な柄の市電と思しき電車がゆったりと走っている、この辺りの「万葉の地」に因んで、その名も「万葉線」というらしい。 高岡駅前から小矢部川と庄川の間をぬって、河口付近から「新湊」に至っているチンチン電車(路面電車)である。 新湊市は、2005年11月に射水郡小杉町、大門町、下村、大島町が新設合併して「射水市」として新規に発足している。 「 射水」という地名は、奈良時代の「万葉集」の中で既に登場し、古くから書物や地図にその名が記されるなど、長い歴史を持つ由緒ある地名である。 小矢部川のことを嘗ては「射水川」と称し、神通川・庄川の間に広がる富山平野の北西部に位置する呼称を射水平野ともいう。 平野に湧き出る清水群を見て、古代の人々はこの地を「出(い)ずる水(みず)の地」と呼び、この言葉から「イミズ」(射水)という土地の名が生まれたともいう。 大きく湊を広げて発展した町を明治以降「新湊」と近代的な名称を付した。 その後に、歴史ある「射水市」としたことは納得である。 命名するにあたって、合併協議会での新市名の一般公募の結果「射水市」が大多数を占めたともいう。 若くしてノーベル賞を生んだ富山県民の良識ある判断に感心する次第である。 余計だが、昨今の合併で新しい地域名、行政名の付与に苦慮している自治体もあり、時折、話題・ニュースとして取り上げられている。 愛知県で新市の名称に「南セントレア市」というのが話題になったのは周知であるが、小生の住む(神奈川県厚木市)関東周辺地域に限定しても、珍妙にして意味が曖昧な行政名がある。 わが独断と普見(偏見ではない・・)にて地域の方には申し訳ないが列記してみると・・、山梨県(南アルプス市、甲斐市、甲州市、中央市)、埼玉県(さいたま市・ふじみ野市、ときがわ町)、千葉県(いすみ市、南房総市)、東京都(あきる野市・西東京市)などであります。 幸いと言うか・・?、地元・神奈川県には、あやふやな地位名は無い・・!。 ところで、某テレビ局の番組で拝見したことがあるが、新湊市(当時)にはユニークで楽しい名前が多いという。 「姓」というのは明治初期、政令で誰もが名乗る事になったが、その際、役場の担当者や地元の有力者、僧侶、神官、勤め先の社長、親方などと相談して決めたというのが一般的である。 専門家によれば、日本の苗字の八割は地名から、それ以外は職業に由来している言う。 新湊の場合は職業に関する苗字の割合が非常に高く、しかもその立地場所から海や漁業、食品に関するものが多いのが特徴である。これ等の姓名を具体的に何処の誰が付けたかは古文書や資料が残されておらず解らないという。 主なユニークな姓は次の通りで・・、 釣さん、魚さん、海老さん、味噌さん、醤油さん、酢さん、糀(こうじ)さん、素麺さん、牛さん、万十さん、菓子さん、米さん、飴さん、風呂さん、桶さん、壁さん、大工さん、綿さん、等々・・、 いやはや、ご苦労さん・・!!。 次回は、「富山」 |



