『日本周遊紀行』

「goo」で、「yahoo」な国柄・・、日本万歳・・!! http://www.geocities.jp/orimasa2001

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有名な広村の津波の話であります・・、

ほぼ三角形の形をした湯浅湾の最奥部の面しているのが、現在の「広川町」である。ここの海岸地帯は昔は「広村」と称して漁業を主に営む寒村だった。この村は、地形からして古くから津波で甚大な被害を受けてきた。その為、既に室町時代には豪族・畠山氏による堤防が小規模ながら築かれていたという。
阪和道の広川I・Cから国道42を目指して海岸に向けて直進すると、小高い土盛りの堤防らしき物に突き当たる。高さ約5m、延長約600mの堤防(広村堤防)であり、その一角に、「浜口梧陵」の偉業をたたえる「感謝の碑」が建っている。

今からおよそ150年前、安政元年(1854年)、紀州・広村は大きな地震(安政南海地震)とそれに伴う大津波に見舞われる。村民36名の死者を出し、住居は全滅に近い大きな被害を受けた。 浜口梧陵はこの時、道筋にあたる水田の稲むら(稲束を積み重ねたもの。浜口家の稲むら・・?)の松明で次々に火をつけ、村人を安全な場所に導いた。その後、彼は被災者の救済や村の復興に尽力するとともに、私財を投じて堤防を築いたのである。 広村堤防は、昭和21年の南海地震で津波が広村を襲ったとき、村の大部分を守ってたいう。
この実話は小泉八雲によって、明治29年の三陸沿岸の津波災害の惨状と、浜口梧陵の偉業をヒントに、「A Living God(生き神様)」という短編小説を書いている。 又、小学校教材の「稲むらの火」と題し、国語読本(5年生)にも掲載されたという。

近年では阪神・淡路大震災から10年、新潟中越大地震から数ヶ月、そして福岡西部沖地震もあった。 地震列島日本にあって、昨年のインド洋の物凄い津波被害は驚きであった。
2004年12月26日午前8時(日本時間26日午前10時)インドネシア西部、スマトラ島沖でマグニチュード9.0という史上最大規模の巨大地震が発生した。この地震により高さ10m以上もの津波が発生、インドネシア・アチェ州、スリランカ、インド、タイ、マレーシアなどインド洋沿岸諸国でこれまでに30万人を超える死者と150万人の避難者を出す最悪の津波大災害となった。
そして、あの時この時の教訓としても「稲むらの火」が注目を集めたという。

「浜口梧陵」(儀兵衛)は、1820年、房州(現在の千葉県銚子市)で醤油醸造業を営む豪商浜口家の分家の長男として、ここ紀州・広村(現在の和歌山県広川町)に生まれている。少年時代に本家の養子になり34歳ごろに七代目儀兵衛を相続している。(後年梧陵を名乗る)
安政元(1854)年、梧陵35歳の時に紀州広村において安政大地震に遭遇、私財を注ぎ込み震災の救済と復興にあたる。浜口家(ヤマサ醤油)は江戸にも店があり、千葉と和歌山を行き来するかたわら、佐久間象山に学ぶほか、勝海舟、福沢諭吉などとも親交を深めていた。 開国論を賛じ、外国と対抗するには教育が大切と、広村に「耐久舎」という文武両道の稽古場を開いている、現在の耐久中学、県立耐久高等学校の前身でもある。
幕末に生まれ、7代浜口儀兵衛という実業家としての働きと共に、卓抜した識見や人間としての気宇の大きさから明治政府にも招かれ、和歌山藩の勘定奉行や和歌山県初代の県会議長を経て中央政府で初代駅逓頭(郵政大臣・総務大臣に相当)になり、近代的な郵便制度の創設に当たったといわれる。

現在(2006年)、小泉総理の下で郵政民営化の論議が盛んであるが、(小泉首相の信条)、やがて、平成の時代には民営化はされよう。
明治期、初代の郵政大臣になった浜口梧陵は、既に郵政事業は民間に任すべし、と持論を展開していた。『郵便のごときは、これまで飛脚屋が営んできた仕事であるから、将来は民間の経営にゆだねるがよい』・・と。 
梧陵は、代々の大事業家として、紀州和歌山藩の藩政改革の責任者として、又、莫大な私財を投じて津波防災堤防を建設した者として、公益の達成は国や藩自らが行わなくとも、「私」の活動を通じて社会に貢献し、実現することができると考えていたのだろう。
一方、当時の逓信改革の先鋒だった「前島 密」は、『今、日本は諸外国に比して弱小で切迫した状況下にある。中央集権の実現と海外圧力に対抗する国家の組織強化は緊急を要する。郵便通信は「国家の神経なり、急ぐことを第一」として官営の名の下での公益達成の追求が必要である』・・とした。
二人の持論は政略の無い国家的持論で、どちらも正論であったが、当時の世相論理としては前島論が支持されて、官営としての郵便網が完成している。 しかし目を転じて平成の世は如何か・・?、世界の中の日本の状況、経済の安定性、国家財政の窮迫、これらに鑑み、国は三位一体・地方分権を目指し、小さな政府で官から民へと移行しつつあるすう勢である。今にして浜口梧陵の精神が生かされる時では・・と思われるが・・?

【追記】
「郵政民営化」は、先ず郵政民営化法案が小泉内閣と国会賛同を経て平成17年(2005)に成立している。その後、議決された法律に基づき平成19年(2007)10月に実施され、郵政公社が日本郵政グループに分社化された。旧郵政省から継承されて運営してきた郵政事業は、郵政三事業(郵便・簡易生命保険・郵便貯金)と郵便局の窓口サービスを国から民間会社の経営に移行した。

梧陵は、国会の研究、開設のため欧米の見学行を企画し、65歳で欧米の制度を視察している。 大いに国家に授益せんとして海外への視察旅行中、アメリカ・ニューヨークで客死した、享年66歳だった。
生前、広村の村人たちが梧陵の積年にわたる恩に報いるため、「浜口大明神」なる神社を建てようとする動きがあった。 しかし、梧陵は頑としてそれを許さなかったという。
広川町役場前に「稲むらの火広場」の銅像が建ち、耐久中学校の校庭に「梧陵翁」の銅像が建つ。

次回は、紀州・和歌山について・・、

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紀州南部は、日本人の「味」の古里であった・・、

更に地域が前後するが、印南町(いなみちょう)の事である。こちらはカツオブシの発祥の地といわれる。
暑い時期に大量に釣れるカツオを永く保存し、遠くへ送るための技術としてカツオブシの製法が発明されたいわれる。 印南の漁師たちが操業中遭難して土佐の港に漂着した、以来、土佐の宇佐浦に住み着いて「土佐の宇佐に造っていた漁業基地」で生まれたため「土佐節」と呼ばれた。土佐人は「宇佐はカツオブシの発祥地」である、と言うが間違いではない。だが、元々は宇佐にいた「印南」の漁師たちが考案したものであるという。
因みに「土佐の一本釣り」として知られる漁法も、印南の漁師が伝えたものという。

「かつお節」或いは、かつお節らしものは既に縄文期の頃から食されていた・・、というのは遺跡などからも明らかにされているという。そのルーツを文献から辿ってみますと、鰹節に関する文献は数多くあり、中でも「古事記」にも「型魚」という言葉で登場しているらしい。カツオの加工品が当時の貴重な贈答品、賦役品になっていた。
日本人が普通に食するようになり発展したのは江戸中期であり、紀州・印南浦(印南町)の人物が燻製で魚肉中の水分を除去する燻乾法(焙乾法とも)を考案し、現在の荒節に近いものが作られるようになった。
古来、かつお節は武士の「兵糧食」として欠かせないものであり、「三河物語」等の兵法書に兵糧食としての記述があるほか、「かつおぶし」が「勝男武士」という名前で、縁起のよさもあることから日清・日露戦争でも使われたという。


次に「由良」の調味料について・・、

小生、関東・相模の人間として、先ず由良町の「興国寺」のことを記さねばならない。
克って、白隠禅師(駿河の国・原の名僧、松蔭寺)によって「紀に興国寺あり」と云わしめ、宗風一世を風靡し「関南第一禅林」として世に知られた名刹とされている。
国道42号線沿いにある臨済宗妙心寺派(拙宅、同様の宗派)の古刹寺院で、開祖は鎌倉時代の無本覚心(むほんかくしん・法燈国師)である。
時は鎌倉期、鎌倉三代将軍・実朝が、弟・公暁に鶴岡八幡宮で殺されたことは、あまりに有名であり「鎌倉の項」でも述べた。 その時、実朝の忠臣・葛山五郎は、君主のかねてよりの夢である宋(中国)へ渡る船の準備を「由良」の港で行っていた。主人の死を知った葛山は、その苦諦(くたい:この世界の一切存在は苦であるという真理)を弔うため高野山に入る。その時に知り合ったのが若い「覚心」であった。
故主人・実朝の供養ぶりを知った当時の尼将軍・北条政子は、葛山にその供養料として由良の地を与え一寺を建てた。これが興国寺の始まりで、無本覚心が開山したものである。
覚心は、開山まえの修行中、道元禅師(曹洞宗・永平寺の開祖)に参じて宋(現在の中国)に渡り、尺八を吹きながら修行し、虚無僧(こむそう)すがたで帰朝したという。 これが、現在の虚無僧の起源で、この寺は虚無僧寺院(主に普化宗という日本の仏教の禅宗のひとつ。普化とは、尺八を吹きながら旅をする虚無僧行で有名)の総本山でもある。
覚心和尚は中国の径山寺(キンザンジ)で修行し、この時、食事を摂りながら味噌の作り方を学び、日本に広めたのが「金山寺味噌」であるという。
この金山寺味噌を生成する際、桶底に溜まった液から、溜醤油(たまりじょうゆ)というのが誕生し、更に加工したのが醤油であるといわれる。 覚心は、醤油の製法をもあみ出し、隣の湯浅町に伝えたという。
その後、湯浅の職人が黒潮ルートで房総半島に渡り、銚子において醤油醸造業として発展し、更に江戸期に利根川水運が開発されるに及んで、江戸、関東に広まるのである。
又、紀州徳川藩は湯浅醤油を庇護し、全国に販路を拡大することになる。 現在も「湯浅醤油」は昔ながらの製法で造られているという。

紀州南部の沿岸地は、南部には紀州梅、有田の蜜柑、そして味噌、醤油、カツオブシと、日本人の食、味の発祥地だったのである。

次回は広川(広村)と津波・・、

「梅」の後は、蜜柑・みかんのことである・・、  

『沖の暗いのに 白帆がみえる あれは紀の国 蜜柑船』
江戸期、紀伊国屋文左衛門が「有田みかん」を積み込んで、江戸へ船出する光景をの風流俗曲に唄ったものである。紀伊国屋文左衛門の生誕地は諸説あるが、「有田郡湯浅町別所」あたりが有力とされている。
江戸・元禄時代の1685年、台風の当たり年だった江戸では蜜柑が不足しており、価格も高騰しているに違いないと考えた文左衛門は、港に山済みされた出航待ちの蜜柑1200両分、7000篭を積み込んで嵐の中、船磁石(船のコンパス)を頼りに太平洋へと漕ぎ出した。
蜜柑不足に悩んでいた江戸の町人たちは大歓声をあげて文左衛門を迎え、命懸けの航海は成功をおさめる。蜜柑は何と元手の30倍の金額で売却できたと言われている 故郷で産するミカンを江戸に運び、帰りの船で江戸から塩鮭を上方に運送して財をなした文左衛門は、未だ20代であったという。
彼が活躍したのは江戸時代の前期、五代将軍徳川綱吉が「生類憐みの令」を発令した時代であった。 財を成した彼は、江戸の京橋・本八丁堀に材木問屋を開業している。 老中・柳沢吉保と結びつき御用商人として上野寛永寺根本中堂の用材調達を請け負ったりもした。こうした事業は巨利を生み、一時期の全盛をきわめたが、日常生活でも金銭を惜しまず、吉原で豪遊したため「紀文大尽」とまでよばれた。その活躍は江戸中で評判となり、彼は有名人になり俗曲やカッポレに歌われるまでになったという。
しかし、幕閣が引退したことで幕府御用達の特権も奪われ、商売も奮わなくなり衰退してゆく。 深川八幡に閑居した後、66歳で没したという。

日本一の梅の町である「みなべ町」のことは先に述べたが、ここ「有田」は古くから日本一の蜜柑の産地である。 紀伊国屋文左衛門が嵐の中を江戸まで運んだ蜜柑は、当然「有田みかん」である。今でこそ関東以西の各地から(主に太平洋側)生産、流通されているが、我等幼少のころは「温州みかん」といって、和歌山産の有田みかんが主流であった。
主文から外れるが・・、
よく温暖地は蜜柑(みかん)で、寒冷地は林檎(りんご)が生産地として一般的であり、蜜柑が青森で生産され、鹿児島で林檎が育ったとは余り聞かない。ではどの辺りが生産地として境界に当たるのか・・?、実は小生の住む神奈川県辺りが境目と言われる。 味の良否、量の多少はともかくとして、蜜柑、林檎、梨、葡萄、桃、梅、・・、国内の代表的な果物の大半は小規模ながら育生されていると聞く。
ともあれ今、日本、世界には数百種類ほどのみかん科の果樹、つまり柑橘(かんきつ)があるという。 その中でも日本人に一番身近で親しみのあるのが「みかん」の愛称で通用している「温州みかん」である。そして、その本場とされているのが和歌山県の有田であり、「有田みかん」である。

では「温州みかん」の温州とは一体何か・・? 
中国・浙江省の温州地方から入ってきたのがミカンの産地を称して、「温州」の名前が冠せられたのではなかろうか。 しかし、温州みかんは必ずしも「原産地」を意味するものではないともいわれる。 温州みかんの原木は、中国からであろうとされたが、最近にいたって南東アジア方面から(ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマー)南中国へ、更に琉球沖縄を経てわが国の肥後の国・天草郡西仲島(鹿児島県長島)伝来し、 そこで、突然変異したものが「温州みかん」の原型ともいわれている。ともあれ、日本の蜜柑の発祥地は鹿児島県長島ともいわれる。
紀州・有田に、「温州みかん」として移入されて来たのは江戸中・後期頃で、有田の人々も温州みかんの品種の良さに目を付け、更に改良を重ね、気候風土も適合して、有田の農家は本格的に温州みかんの栽培を始めたと云われる。 
明治初期には、有田から東京神田の青果市場へ初めて温州みかんが出荷され、大変甘味で美味なると評判をよび、高値で取引されるようになった。 東海道線が開通するに及んで、有田みかんは海上輸送の熊野灘経由を止め、大阪経由の鉄道便を利用するようになると天候に左右されずに計画的に出荷出来るようになる。 当時の箱詰めみかんの販路は東京7割、大阪2割、名古屋1割であったとされてる。

次回は、印南、由良「日本の調味料」の発祥・・、

南部地方の「南高梅」とは・・、

国道42を一山越えれば南部町である。  
『一目百万、香り十里』と言われ、南部(みなべ)梅林や岩代大梅林といった日本一の梅園の大パノラマが特徴である。そして日本一の、みなべの南高梅・梅干の産地であることは周知である。
梅は中国が原産で、約1500年前に日本に伝えられたという。 中国では古来、青い梅を真っ黒に燻して烏梅(うばい)として健康食に利用されてきた。 日本では平安期より既に梅干として利用していたという。
南部は奈良後期、この地方を支配していた御名部(みなべ)親王が梅を好んで植えたという記録が残っているという。 江戸期に入ると田辺藩主が好んで梅の栽培を奨励し、この地区を免税にしたことから一気に広まっていった。 さらに、紀州藩主の時代「吉宗」は梅干の保存を奨励したことから、更に隆盛になったという。
梅を栽培するのにも、この地方の自然環境も大いに役だった。 先ずこの地方が温暖で多雨であること。又、地質的にも植物の成長には欠かせない炭酸カルシウムの成分が多く含んでおり、梅は特にカルシウムを好むという。南部の土は梅の生長にうってつけだったのである。
梅の種類は300種もあるというが、其々の土地に適した品種が定着している。その内の一つ「南高梅」は、南部で誕生、定着した梅である。
明治期、「大果で豊産、陽光面が美しく紅色に着色する個体」、これらを母樹とした高田梅という品種が更なる品種改良が行なわれ、昭和期になって県立南部高等学校の研究によって今の南高梅ができたという。 南部高等学校を通称「南高(なんこう)」と呼び、高田梅の新品種であることからこの梅を「南高梅」と命名したという。
現在、「南高梅」は梅の条件とされる「皮が薄く、種が小さく、果肉が厚く柔らかい」という要素を全て持ち合わせ、ミネラル分も多く含み、みなべ町で栽培される梅の7割以上を占める梅のトップブランドとして全国に、世界に知られるようになった。今では日本の梅の収穫量の約半分は南部と周辺で収穫されているという。
「南部」は、「なんぶ」ではなく「みなべ」と読む、2004年(平成16年)10月1日に内陸隣接の「南部川村」と合併し、平仮名表示の「みなべ町」となった。
日本一の梅の町である「みなべ町」役場には「うめ課」という担当業務があるとか・・。

次回、有田の蜜柑・・、

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